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他者の幸せを知って持つ憎しみ

2020/10/30(金)の日記

ある人(家族,友人,同僚など)の幸せを願う。それは素敵なことで、その心はきっと美しい。けれども、願いの対象者に「もう私いま幸せなの」と一度(ひとたび)伝えられた途端、モヤモヤしてきて場合により憎くなってもきたなら、その人の心は道徳的な美しさを損なってしまうのか。「私はあの人の幸せを願っていたはずなのに……」と、自分に疑心さえ抱くかも知れない;自分の願った、その人の幸せに、何故か心から納得できない、と……。

控えめな美徳は人を自己犠牲に誘い、これを包摂する社会はそのことを暗に称賛する。驚くことに、そこには一種の危うさがあって、たとえ社会がある行いを肯定しても、予め当人の自己肯定が完結していなければ、人は丸きり救われないものなのだ。何たる、虚しいことか。社会とは残念ながら、全体性に生活するものであり、個人の事情をほぼ考慮などしてくれない;自己救済は自発性からこそ成され得る。自失が社会にとって一種の条件のようなものなのだが、個々の人にとっては強く避くべきものではないだろうか。

自分を自ら加護しないで他者に犠牲を払うなら、結局は自分が喪失に苦慮することになる。それを幸福と呼ぶなら、私にはすっかり同意し兼ねる。人を支持するときは自分の両脚がしっかりと着地しているのが確かでなければ、バランスが実に悪い。だから、人の幸せを願うなら、まず自身の幸せを第一に願いたいし、自己救済が完結していたならば、自ずと他者を労る気持は湧いて出るものである。そこで我々が意識を向けなければならないのは、最後に頼るべきはやはり自分の意志なのであって、社会に働く力学ではないということである。社会は意志を育む切っ掛けこそ呉れても、動力そのものを与えてはくれない。

人が幸せなのを見て憎しみがもしも表出したなら、自分はそのとき正に救われるべきときにある。人の幸せを願うことは美しい行いだろう。しかし、それよりも美しい、最上に美しいと形容され得る行いがある。それに気付くまでに幾ら時間を費やしたって好いのだが、生命を無くしてからではどうにもできぬ。自己救済は大事業であるから一朝一夕には成されないし、最早それが生きること自体をも意味し得る。そのことが実は、人との関係に絶妙な間隙を生ませてくれる。人に近接し過ぎて起こる種々の問題も、大抵当人の立脚がバランスを欠いているからだ。「自分を心底労り尽くすことが、人に、延いては社会に幸福をもたらす」。そういったら、過言だろうか— 私には、まったく思われない。

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