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新連載「存在を証明できない私たち 〜見えないにおいと届かない声〜」はじめに

 小春日和に新宿を急いでいた。

 平日といえども靖国通りの歩道はまるで大河のようで、四谷方面へ向かって悠然と流れている。先を焦って前へ肩を入れようとすると押し返されるので、身を任せるしかない。私の歩調は人より少々せっかちなので、こういうときはじれったくなるのだが、都心の川の泳ぎ方はじゅうぶん理解しているつもりだった。


 用事というのはTOHOシネマズにあったのだが、私はあのゴジラが怖い。

 その存在に畏怖の念を抱いているという意味ではなく(それもあるかもしれないが)不意に現れる巨大な人工物に弱いのだ。山中の巨大モニュメントとか広場の石像とか、直線的なビルの中にぬっと現れる頭部とか、とにかくそういったものに生理的な拒否反応を示す。口の中に唾液が溜まって吐き気を催すのだ。

 この感覚、検索するとすぐに「巨像恐怖症」や「メガロフォビア」、もう少し専門的に「恐怖症性障害」といった結果が並ぶのだが、実生活では同様の人を見たことがない。

 出会い頭に自身の弱点を披露するヘキが私にないというのも理由だろうが、しかし「押上へ散歩に」と誘われたらやっぱり「スカイツリーのやつが——」といわざるを得ない。「下を向いてるから手を引いていって」とか。

 そんな場合大抵「なんで?」と聞かれるのだ。そして実はこういうことでと事情を説明すると今度は「本当にそういう人に会ったのは初めてだ」となる。

 実は集合体も苦手だが、それも珍しいようだ。「じゃあこれ嫌でしょう」とニヤニヤ複眼カメラのスマートフォンを差し出される。三つくらいはまだいい。と余裕でいたら五つに増えた機種が台頭してきた。それはだめだ。目玉のようなものがぞろぞろとこっちを見ているのも気持ち悪い。コンディションがイマイチのときは羊群の空撮でも耐えられない。


 一説によると自然界でそのようなウジャウジャの模様になっているものは病気か毒なので、人というのはそれらを避けるために本能的に恐ろしく思うようできているとのこと。それなら胸を張りたいところだが、西暦2024年に「ボツボツが病気っぽくて吐きそう」というのはあまり文明的ではないので躊躇してしまう。とにかく実生活では少数派だった。

 ここで私がいいたいのは、ゴジラや東京タワーやスカイツリーを避けねばならない都内暮らしの手間ではない。ましてこれが特異で特別な、なにかの才能であるとか非凡さをアピールしたいわけでもない。だいたいこんな性質は面倒なだけであって誇れたものではない。

 そうじゃなくて、これってみんなにも経験ない?

 つまり、実生活の、対面の、リアルの暮らしの中で、身の回りでは同じように感じる人はいないけれど、ネットで検索したら「思ったよりいた!」という経験。

 たとえば音楽。私は長年クイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジのファンでいるのだが、実生活の中でリアルで会った人々の中では、名前を知っていたのは二人、楽曲を聴いていたのはそのうち一人だった。でもネットで検索すれば簡単に同好の士を発見できるし、ライブに行けば万からの彼らがいる。

 だから映画、漫画、音楽、その他なんでも、一つでも、もっとニッチなものでもいいのだけれど、そういった経験って誰にでも起こり得るのではないだろうか。
 興味関心の対象全てが主流、人気作、マジョリティーで、クラスの友達や同僚と共通の話題だという方が珍しいのではないか。
 と思うのだけれど、どうでしょう。


 私は、これから書くことを〝そういう話〟だと捉えている。
「どこにも同じように感じてくれる人はいない」と孤独に陥っていた、誰かの物語。

 そう思って読んでみてほしい。

 悲しいかな、所詮は他人事だ。読み飛ばすこともできる。実感が湧かなくても当然だ。
 当事者じゃなければ些細なことだし、「私には関係ない」と無意識のうちに優先事項から外す。もしかしたら「ありえない!」と反感を覚えることかもしれない。
 あるいは、なんだか口うるさくて面倒くさそうだから、聞かなかったふりをする。

 私はそれらを順当な反応だと思う。


 けれど、考えてみて。


 人は、誰しも、理解されたい。
 あるがままに受け入れられたい。
 頷いてほしい。
 みんな誰がに聞いてほしい。
 見つけてほしい。

 だからメッセージ入りのボトルを海へ流すかのように、言葉を綴って送信ボタンを押下する。

 この文章さえ、たぶん、きっと、そうだ。

 実生活の、対面の、リアルの暮らしの、顔を見合わせて接する周囲にはわかってもらえないというその孤独は、大小の差はあれども誰もが経験していることなのではないだろうか。


 だから、これ語るのは、なにも特別な話ではない。
 ごく一般的な、普遍的な語りになるはずだ。


 その思いを胸に、恐るべし巨像ゴジラに決別し、歌舞伎町一番街を南下する。TOHOシネマズでパンフレットを購入するという用事が売り切れによって頓挫したので、次の待ち合わせへ移動しなければならい。

 といっても、まだ本題ではないことをご容赦願いたい。まず旅の発端になった出来事を記さねばならない。


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