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存命当時と評価の違う人物、その大きな落差とは?②

 前回は、当時の評価が高く後世の評価が辛辣である人物を主体として書きました。今回は逆のパターンでのお話。

 ちなみに、逆のパターンだからといって今回はよくない人物のお話ではないんですね。むしろ

在世当時には理解されなかったか、当たり前と思われていた

という事なので。現代においてはどちらが良いか、ハッキリとは言えなくなっているので皆さんが読んでどちらが好ましいか判断してくださいね。

 まず、比較的著名な人物としてあげられるのが

商鞅

という人物でしょう。ご本人の行く末を先に言うと、

嫌われてつかまり、殺された

のです。改革者というのは基本的に感謝されることが薄いので、こういう非業の死を遂げることが多い。

 ここが実は、現代に至っても改革が進まない理由。本能的に

変えることは嫌われる

という事を皮膚感覚で分かっているからと解釈しています。

 この商鞅という人物は、まず王様に自分の改革案を賛同してもらい、その権力でもって大胆に変えた。後ろ盾が王様なので、皆反感は持っていても反対はできない。

 ここで興味深いのは、改革された仕事のやり方で当初

やりづらくて不便だ

といった不満の声があがっていたこと。この内容は示唆に富んでいますね。この不満の声が後々の伏線となります。

 商鞅はひるまず、王様に不退転の決意を内外に示させるべく

後継者をみせしめ

にしてでも意志表示をさせました。実際には、その側近を処罰させたんですけどね。

 これにより、王様以外では最も尊重される人でさえ今の路線に逆らうとどうなるか?が示された。それにより、後戻りはできないと周囲も覚悟。数年ののち、効果がてきめんに現れることになりました。

 すると、民衆からも賞賛の声が上がり、担当する役人たちの中には不満を述べていたものでさえ

とても便利です!

と手のひら返し。そこで商鞅、どうしたと思います?

手のひら返しした連中を流罪

にしたのですよ…。

 商鞅の意図は、要するに

自己都合で先の見通しもなく目先のことだけで批判した

という責任を取らせた訳です。職務を果たしてない、と。こういう人物が現代にいたとしても、やはり左遷されてしまうでしょうね。

 で、現実でもそういう事態に陥りました。キッカケは、王様の死です。後ろ盾が居なくなったことで、彼の地位はゆらいだ。ましてや後継者はかつて(直接ではないにせよ)罰を与えた人。どう考えても好かれる訳、ないですよね。この辺りの処世術が商鞅には無かった、といえるでしょう。(実際その忠告をうけていました)

 結局、逃亡しようと思った時には周囲は協力せず、むしろ彼の作った厳格な法体制によって罪に問われるから…と拒絶される始末。結果、無残な死を遂げることになったのです。

 従って彼の人生だけを見れば、非業の死を遂げてる訳ですし当時は批判や非難を浴びまくっていたことでしょう。しかし、後世においてだとちょっと違います。改革者として、政治家としての力量自体は高く評価されているから。

 ここで私自身が非常に参考になったのが、

人格よりも、ふさわしい才能でもって行わせる

という点。

 前回挙げた人物の様に、自分個人の人生を見通す目もあり、なおかつ色んな環境を潜り抜けることもできる人もいる。一方、自分の才能に恃みすぎて自滅する商鞅のような人物もいる。

 両方そろって初めて個人としても、組織にも利益をもたらすこともできるのだな、と。どこかの国では人格や見た目ばかりで選んで失敗しまくってると思うのですがね…。(苦笑)

 それ以外では有名な人物としてあげられるのはかの

諸葛亮孔明

でしょう。彼の場合、ほぼ一貫して評価は高いといえるのですけど。

 ただ、歴史書における評価というのは

畏れながらも愛されていた

というもの。コレはどういう事か?というと

公正であるから緊張感はあるけど、その姿勢には信頼と敬意があった

という意味だと私は解釈しています。

 実際、諸葛亮によって責任を問われ、解任された人物が彼の死後

これで自分が戻る可能性はなくなった

と嘆いているほど。罰を与えられた方が恨まず、納得しているというのはなかなか…というか、現代においてもほとんどない事例でしょう。

 この辺りは三国志が和訳されているので、興味があれば読むことができます。そこでは演義とは違う人物像が見えてくるので、ファンであれば実際の関羽とか見てみると面白いです。人間臭くて。

 そして、当時の評価はさほどでもなくても後世の評価が高くなった人物がほぼ同時代にいます。それをもって最後としますがその人物こそ

曹操孟徳

その人です。

 演義では悪役のため、悪い部分が強調されていますが実際の歴史書を読んでみると

自分でも仕えてみたい

と思えましたね。それ位、優秀です。…昔は劉備に仕えたいと思っていましたが。(苦笑)

 まず曹操は絶対に情実で人事はしなかった。才能さえあれば、それにふさわしいポジションを与える。農民に過ぎなかった

許褚

を将軍にまで抜擢しているのが良い証拠です。

 それに、決して功労者であろうが曖昧にしません。例えば、すでに色んな功績を挙げていた人の推薦した人物が謀反を起こした時

キチンと責任を取らせて罰した

のです。これは言葉で言うほど簡単なことではない。

 というのも、すでに長年貢献し、人となりも良く知ってる”なじみ”の深い人物だったから。普通、親しみから

まあ、今回は仕方ないか

といった形で不問に処すとかあるでしょう。しかし曹操はそういう事はしなかった。

 何しろ人事担当として当時の最優秀な人物といえる

荀彧

という人がいたから。この人もまた、絶対にそういう事はしない。

 実際のエピソードとして、親戚からとある職へのあっせんを依頼された時にもきっぱりと断ってる。その際に、

そのようなことをしたら何といわれるやら…

と、自分の人事に対する信頼感をあくまで守り通しているのです。そしてそれを見抜いて担当に据えている曹操の眼力。これだけ単純明快だけど強固な方針を守ってくれたなら、そりゃ部下だって結果を出せば…と余計なことを考えなくて済む。曹操が三国志で最強の勢力を作れた理由は、ここにあったのです。

 こうした姿勢は、当時の常識とは違う部分もあったため…必ずしも曹操の当時の評価は高くはない。結果的に司馬懿によって奪われたのも、そうした改革者としての姿勢も一因としてあったかもしれません。それでも、曹操によって中国の大半を一代で平定した力量は褒められてよいと思います。(当時の人口密集地帯はほぼ、彼によって押さえられていたから)

 こうしたことからも、当時の状況によっては評価の物差しが変わることで正当な評価というモノが下されないことは歴史の中ではよくある。だからこそ、

人の毀誉褒貶に左右されなくていい

といえると私は思っています。それよりもその人が何を目指し、どうしたいのか。そこを見極めることで人物の本質がつかめると思っているのですから。

いぢょー。

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