見出し画像

フィヨルドの静寂と広漠

 いわゆるパタゴニアと呼ばれる地域にある、養殖会社Cooke Aquaculture Chile(以下クック)の拠点を訪ねた。「探検者の湾」と命名された湾内で、大小80個超の生簀でサーモンを養殖している。本拠点や生簀から眺める景色は、いつもダイナミック。働く人々の顔は柔らかい。静寂と広漠が、人にまつわる複雑なあれこれをほぐしてくれているように思えた。

 プエルト・グロッセという発着場所から、小型船を1時間弱走らせると、クックの拠点が見えてくる。湾内の小さな入江の奥を切り開いた拠点は、ジュラシック・ワールドのベースや、先月見たハリウッド版ゴジラに出てくる未確認生物特務機関「モナーク」のそれにも似た雰囲気だった。拠点には80人、湾内の生簀を含めると合計120人程度がサーモンの養殖やその他の関連業務にあたっている。

 この拠点は2つの労働サイクルで回っている。15日連勤で15日休むサイクルと、8日連勤の6連休。大雑把には、管理職や料理人といったサービス提供会社の職員などは15日連勤で働き、その他は8連勤という区分のされ方をしている。労働者の中には、他の養殖会社で働いた経験がある者も少なくない。なぜクックに転職したかを尋ねると、たいてい「労働サイクルがいいから」という答えが返ってきた。拠点にはネット環境が完備されていて、ジムもある。僻地といえど、生活自体は不自由がなかった。ただ、酒が飲めないのでアル中はこの拠点には向いていない。

 生簀の側には「カサ・フロタンテ」と呼ばれる建造物が、浮かんでいる。ここでは、生簀に設置したカメラでサーモンの状態を観察し、最適なタイミングでコンピュータに給餌の指令を出す。2〜3階建て。大きなものだと、居住できるだけでなく料理人も同居している。本拠点と同じく、ネット環境やジムも備えている。カサ・フロタンテ「ERTASMO4」で料理人をしているホセは「前にいたホテルは、週休1日だった。爺さんにもなったし、穏やかに働きたかったんだ。給料かい?ちょっとだけ減っちゃったね。それでも静かで、いい景色を見ながら働けて満足してるよ」と笑顔で語った。

 7月3日は、みんながそわそわ働いた1日だった。なぜなら、午後8時半に「コパ・アメリカ」のペルー戦を控えていたからだ。ホルヘの仕事に同行したあと本拠点に戻ると、バーベキューの準備が始まっていた。たらふく肉を食べて、キックオフ。ペルーは思いのほか好戦を見せた。「最初の10分だ。そのあとは対応できる。1点取って、うまく防御にまわれば問題ないさ」。そんなことを語っていた彼らもペルー が先制すると「くそったれが」と叫びながら壁を蹴り、頭を抱えた。前日、G20に出席したチリの記者団がコロンビア戦の勝利に歓声をあげたという産経のニュースを読んだ。ペルー に3-0で完敗し沈黙した彼らを見ると、記者団の反応もうなずける。試合の後はいつもと変わらず、雨音だけの静けさが宿舎を包んだ。

 4日間の滞在で、いくつもの生簀を回り、何人もの労働者と話した。ホルヘという名を持つ人だけでも何人もと知り合った。彼らと交流するシーンではいつも、だだっ広いフィヨルドの景色や、湾の沈黙が背景となっていた。以前からぼくは、自然が身近であればあるほど、人の精神衛生が保たれると考えてきた。4日間の滞在はそれを証明する機会になったと思う。その本質は静寂と広漠にあるのではないか、というのは今回の新しい気づき。高層マンションを好む金持ちは多い。その理由はたぶん、茫漠とした揺らぐ夜景をひっそりと眺めることが、心を癒すからだ。夜景でも自然でもなんでもいい。日本に戻ったら、静寂と広漠のある暮らし方を模索しよう。

もしよかったら、シェアもお願いします!