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漕日#8|ウニとカメラ、そこへネコ

人間は、欲望に駆り立てられるうちに、よくヘマをする生き物だと思う。10月23日、午前7時半に目覚めたときには考えもしなかったが、その日はそういう結論で締め括られた。

昨晩はやたらと寒かった。冷え込む日は決まって空に満天の星が煌めいているから、悪くない。今回の旅では、保温性を高めるインナーシュラフも持参していたので、前回ほど夜な夜な震えて体をさすることがなかった。

北寄りの風が強そうと予感させる朝だった。ここまで幾度となく食べた貝の雑炊を食べながら、午前10時半の出廷を目指す。昨日はカヤックを陸に引き上げすぎたから、満潮時に出そうというわけだ。

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出廷直後は、南から風が入った。この旅では、どういうわけだかよく南風が吹いた。前回、北風を受けながらグングン進んだ海域で、南風は新鮮だった。チェーンソーの音が聞こえる方向に目をやると、島の森が切り開かれた場所に数棟の家屋が建っていた。そういえば、あの木こりは元気だろうか・・・。程なくすると辺りは無風状態になり、ドライスーツを上半身だけ脱いで、中のウエアも一枚脱いだ。

水温は8度なのに、かんかん照りで体は暑く、手の甲は日焼けでヒリヒリするほど。防寒用に持参したテムレスという透湿・防水手袋は、完全に日焼け対策の手段になっていた。ときどき手を冷たい海水に浸け、痛みを和らげ、またパドルを握った。万が一、転覆したことを想定するとドライスーツは脱げない。そのジレンマの中、結局ドライスーツを上半身だけ脱いでカヤックを進めるという、転覆したら結局冷水でびしょ濡れになる中途半端で本質的でない選択をした。湖のように静かな海を、一羽のウミウがヒュンヒュンと翼を鳴らせて通り過ぎた。

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脱皮しかけの蜥蜴みたいな格好でパドリング。向かい風に悩まされることも、追い風に責め立てられることなく、目的の入江にさしかかった。この海域では比較的人口の多いプエルト・アギーレの北西に位置する入江で、大きく北に切り込んでいる。地図を見るところでは、静かそうな場所だった。

入江内には、地図にない幾つもの小島が海面から顔を出していた。もっとも、手持ちの地図がガソリンスタンドでも売っている航海用ではないものなので、こういう事態があっても驚きはしない。むしろ、魚や貝類が豊富に採れそうで喜ばしい。前日に続き、うまいウニ飯が食えそうだと期待に胸を膨らませながら、早くテン場を決めて漁に専念しようと腕を動かした。

いくつか立ち寄った浜は、テントを張ったなら満潮時に浸水しそうな場所ばかりだった。ただ、ありがたいことに小川が流れ込んでいたので、切れていた真水を補給した。川を覗くと、細長い何かの稚魚が群れていた。シラスのように大量に取れれば飯にもなるが、そこまで群れているわけではなかったので、タッパーで少し観察し、川に返してやった。

入江の奥は、恐ろしく遠浅になっていた。漁師の小屋があり、そこからは入江の北側の海へ抜ける木道が整備されていた。残念ながら、小屋には人影がない。こういうとき、人がいれば声をかけて、そばにテントを張る許可を得て、何なら夜一緒に酒を飲んだりできるのだが、不在だとそうはいかない。むしろ、勝手にテントを張ってしまった後に住人が帰ってきたとき、無許可での夜営を咎められたら困る。大自然の中でも、一番怖いのは人間だ。

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仕方なく、その恐ろしく遠浅な入江の奥地を出て、途中で見かけた別の浜に上陸。小屋の骨組みだけが放置されている浜で、ムール貝の塚が築かれていた。いつものように手早くテントを設営し、風で飛ばされないよう適当に物を放り投げ入れて、漁に出かけた。すでに午後4時を回っていたが、夜8時でも明るいのが夏のパタゴニアだ。時間はたっぷりとある。ここでは時間は時間でしかなく、太陽が決定権を持つリズムに従って生きればよかった。強いて言えば、Time is UNI だが、TimeもUNIも豊富にある。

いつものように釣りはさっぱりダメだったが、いつものようにウニがよく採れた。サイズは今までに見たことがないほど大きく、グレープフルーツくらいありそうなウニが馬鹿みたいにたくさん磯にへばりついていた。そいうを素手で引き揚げたり、水深が深ければパドルを使って欲望のままに捕獲した。魚介が豊富と言えど、ここで採っておかなければ次いつ巡り合えるか分からないという焦燥があったかもしれない。何せ、持参した食料は米2キロだけ。海や天候がいつまでも穏やかだとは限らない。食えるうちに食わねばならなかった。生活が維持できないという可能性から来る不安は、貯蓄に繋がるんだなと実感した。もっとも、ウニはなま物なので塩や醤油に付けない限り蓄えられないが。

この旅では短尺動画を撮り溜めていて、旅が終わったら公務員をやっている友人に毎日送りつけて、退職を決意させようと画策していた。浜で拾った網袋いっぱいのウニをカヤックに乗せて、テントの浜に乗り上げると、ミラーレスの一眼カメラを出してきて、大漁のウニを動画に収めた。ここからは、少々厄介だが殻割りだ。

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ネットからウニを出し、端から割っていく。大量に入っている深緑色の粒々を洗い出す。指かナイフの背で、可食部を綺麗に殻から削ぎ落とし、タッパーに入れる。ひたすら繰り返すと、指が紫色に染まった。その色は、これから待ち受けているプリン体たっぷりの幸福の前兆であり、体が感じるのは増長する空腹だった。ウニの中には、白い液体が滲み出ているものがあり、他のものと混ぜると美しくないので、その場で食べて幸せを先取りした(白い液体はウニの白子で、生で食べるのが危険とその後知った)。

半分ほど割り終えたころ、あることを思いついた。白子つきのウニを食べるときに、醤油があるといいなーー。持参していた小さな醤油を取りにテントへ戻ろうとした瞬間、ぼくが目にしたのは思いもよらないもので、「あっ!」と声を上げた。

カメラが半分ほど海水に浸かっていた。そうだ、ウニを撮影したあと、波打ち際から少し離れた浜に置いたんだっけ。カヤックのコックピットは水浸しだし、デッキは不安定だし、テントまで戻るのは面倒だからと、浜に置いたのだ。バカだな。ウニ割りに夢中で、潮が満ち始めていることに気付かなかった。急いで引き上げるが、手遅れなことは分かっていた。防滴と防水は違う。バッテリーを外すと、中から海水が流れ出た。3年前、この海域を旅したときには防水カメラを波にさらわれた。荒波のパドリングを撮影しようと、ライフジャケットに結っていたカメラが、いつの間にか消えていた。とことん運がないのではなく、学習能力がない自分に呆れて、笑えてきた。

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ダメ元で、カメラをレンズとボディーに分解し、焚き火のそばで乾燥させた。笑いながら、スマホで写真を撮る。これからは、チリで新品購入したiPhone6sが記録係。同時進行で夕飯を準備していると、一匹のネコが姿を表した。灰色で、四肢の先だけが白く、いわゆるホワイトソックスになっている。食べ物をねだるようにやたらと鳴いた。まったく、パタゴニアの野猫の風上にも置けない態度だったが、うるさいので極上のフジツボを分けてやった。ウニャウニャと喉を慣らしながらフジツボを食らったネコは、ウニ飯が炊き上がる頃になるとゴロゴロとネコ特有の音を立てながら近寄ってきた。仕方がないので、また分けてやる。不幸なときほど、誰かに優しくしたくなるものだ。

連日の貝食による下痢を不快に感じながら、波打ち際で皿を洗った。背後でネコが鳴いている。このままでは夜眠れそうにないので、小さなカニを拾い集めて、少量の米と雑炊にして与えた。カニよりもウニ派なのか、あろうことかネコは雑炊を残した。まあいい。たくましく生きてくれ。ぼくはそのネコに、ラフパンと名付けた。チリの先住民であるマプチェ族の言葉で「海のピューマ」を意味する。

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テントに潜り込み、日記をつける。明日はどんな日になるだろう。床がデコボコしたテントで眠りにつく。ネコがしばらく、外で鳴いていた。



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