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トンビの死にぎわ

その日は、岐阜市まで納税に行かなければならないというのに、そういう朝に限って、道路脇に横たわる、死にかけたトンビに遭遇した。

とにかく急いでいたので、一旦はバイクで通り過ぎたものの、100mくらい先で折り返して、戻った。1ヶ月ほど前、死んだ山キジを道路で見かけて素通りし、後悔していた。弔ってやらなかったことではなく、釣り用の毛針を作るための羽を取らなかったことに。

トンビからも、毛針用の羽が取れると思った。ただ近寄ってみると、その猛禽の胸はゆっくりと膨らみ、呼吸をしていると分かった。首に血が滲んでいた。より大型の猛禽との戦いに敗れたか、そんな感じだった。あたりには羽が散らばっていた。

トンビを持ち上げて、道路脇の草地に改めて横たわらせた。車が騒がしい路側のアスファルトよりは、いくらかマシだろう。少し足をばたつかせるような動きを見せたが、衰弱していて力は入っていなかった。

ここが本当に最適かと、逡巡した。その日は天気がすこぶる良く、昼ともなれば直射日光がきつそうだった。再びトンビを持ち上げ、ぐらついている首を気にかけながら、今度はバスの停留所の裏の、半日陰になっている場所に移してやった。

いやらしい話、こういう行為には「徳を積もう」みたいな邪心があったりする。こんなことで徳は積めないことは知っているのだけど、なぜだかそうしてしまう。川に浮かんだ猫の亡骸を埋めた時もそうだった。あるいはこれは、徳を積もうというよりも、自然に対する尊敬だとか、こちらの立場を表す行為なのかもしれない。気持ちで自然と向き合うことは、昔からみんながやってきたことだろう。

ただ、人間側の気持ちをトンビが歓迎しているかといえば、そうともいえない。死にかけのトンビは、人の手に触れられることなく、アスファルトの上で横になっていたかったかもしれない。高速道路を走行中、あの場所が本当に最適だったかどうかを考えていた。もしかすると、日向の方がポカポカと温かかったかもしれない。あー、そうすればよかったなあ、と。どこまで行っても、本当に相手の身になることは難しい。

4時間後、納税を終えてトンビの元へ戻った。絶命しているかと思ったが、まだ息があった。胸の膨らみ方は心細く、なぜか片翼を広げたまま閉じない。はばかられたが、もう一度トンビを抱えて、今度はケヤキか何かの木の根元で、木漏れ日が最高に気持ち良さそうな場所に移した。そっと翼をしまうようにしてやると、トンビはまたゆっくりと呼吸をした。もうこのトンビが空を舞うことは絶対にない。

今日は雨が降っている。あのトンビはどうなっただろうか。安らかに眠れただろうか。そんな風に思いながらも、毛針用に持ってきた散らばった羽を見ている。あくなきご都合主義をの人間だ。

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