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なぜ名詞になりたがった?

博士課程で研究に励んでいる中学時代の後輩が、進路に悩んでいるようだった。どうしても研究者になりたいわけではないけど、公務員やサラリーマンもなんか違う、みたいなことを言っている。彼は少し、名詞とイメージに囚われているようだった。誰にでもそうとこがある、もしくはあったと思う。ぼくにもあった。

彼の話はさておき、ぼくはといえばライターを標榜している。誰しもが秒でなれるこの肩書きだが、一応細々と実名での寄稿や、名前が公表されないライティングをやっている。ただ、別にライターになりたかったわけではないし、今でも聞かれればそう答えるだけで、ラテンアメリカ愛好家というふざけた肩書きを名乗るときもある(嘘ではない。本当に南米を愛している)。

そういえば、小学校ではよく「将来何になりたいか」を考えさせられた。この問いでは、みんなが等しく名詞を答えることになる。サッカー選手とか、消防士とか、パテシエとか、花屋さんとか、そういうのを小学1年生は答える。「なりたい職業」なんて最たるもので、公務員とかyoutuberとか学校の先生とか、職業になりたいうちは、自分の本当の望みとその職業の間にあるギャップを知らないことが多いと思う。

もちろん、それはそれでいいのだ。何かになりたい感情は誰にでもあるだろうし、誰かに憧れたりだってする。ぼくは小学校の卒業文集に、生物学者になると書いた。ヘビやトカゲが大好きで、故・千石正一氏をリスペクトしていた。ただ、大人の一声で、みんながいっせーのでそれを考えることに意味があるかと考えると、そういう手法じゃなくてもいい気がする。みんなが認識しやすい名詞になる必要、なりたがる必要はないのだから。

確かに、名詞があると便利だとは思う。「何されてるんですか?」と聞かれた時にモゴモゴしないで済むし、別に大したことをやっていなくても、あるいは一言で説明できないことをやっていたとしても、名刺があれば万事OK。そういう便利な側面は確かにあるから、アンサーとしての名詞や肩書きはあるにこしたことはない。

世界的なアスリートの公務員もいれば、サラリーマンによる研究活動を禁ずる法律はない。名詞はあくまで回答であればいい。相手によって出し変えたっていい。「今何してるの?」「あなたを喜ばせる方法を全力で考えてます」とかでもいいじゃないか。自分が何たるかなど、自問することはない。名詞=アイデンティティでもない。それよりも、自分にとっての幸せとか恋人のこととか、明日釣りをするポイントとかを考えていたほうがまだいい。名詞であること、名詞になることの追求に縛られることはない。そんな風に思う、ラテンアメリカ愛好家でした。

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