MONSTER

あれはまだ私が3歳の時だった。吉野川に注ぐ小さな川が流れる狭い谷間に私たちの家はあった。父は建設省で働いており、ダム工事に関わっていた。そこには同じ仕事に携わる人たちの官舎があった。木造の平屋建てで、二軒長屋が狭い敷地に5軒ほど建てられていた。周りは田んぼと畑であり、用水路は土を削ったもので生き物がたくさんいた。まだ道路は舗装されておらず、車が通るたびに土埃が舞い上がった。母は次男を妊娠していた。それで私に今までのような愛情を注げなくなることを慣れさせねばならないと考えたのだと思う。もしくは私があまりに甘えん坊だったので、将来を心配したのかもしれない。ともかく母は金輪際私には触らないことにした。私は激しく抵抗した。ありとあらゆる手段を取り、彼女が私に触れなければならない状況を作ろうとした。ある時は玄関から下のコンクリートに後ろ向けに何度も倒れて見せた。後頭部を強打し泣き叫ぶ私に母は触ろうとしなかった。私が立ち上がるまでそばでじっと見ていた。何度も何度も私は繰り返したのだ。でも無駄だった。しばらく戦った後私は諦めた。
そして私は五歳になった。父が休日に私たち兄弟を父の職場である建設中のダムに連れて行ってくれると言った。それは初めての事で、まだ2歳の弟はよくわかっていなかっただろうが、私はかなり興奮していた。車が走り出してしばらくすると父が私に尋ねた。誰か他の男の人が自分の留守中に家に来なかったかと。
今同じ問いを聞いたら多分嘘をつくか答えないかしただろう。だがその時私は見たままの事を喋った。すると父はちょっと用事があるから帰ろうと言った。私は父がそういう反応をするとは予想していなかったので驚いて抵抗したが、父は車を引き返してしまった。黙って車を運転する父の横に座って家に着くまでの間、私はこれから起きる出来事を予想して不安で一杯になった。自分が何か取り返しのつかない悪事をしたような気がした。やがて家に着いた。怪訝な顔をして母が迎えた。そしてその母に向かって父は私が喋ったことを大声で言ったのだ。
その時母が私を見た眼が忘れられない。私の心をその眼が切り裂いた。憎しみ、恨み、怒り。誰か他人からそんな激しい感情をぶつけられたことは初めてだった。

その日から私にとって母は母ではなくなった。

小学生になり、集団登校が始まった。私たちの住んでいた山間には山の中腹に3軒くらいの小さな集落があり、谷間に私たちの住む建設省官舎があった。上の集落に上級生が二人いた。その二人は兄弟で上が四年生、下が三年生だったと思う。幼稚園の時は近所の友人と通園していたので実に気楽であったが、ここから地獄のような日々が始まった。彼らははしゃぐ私たちを怒鳴りつけ、まずおとなしくすることから始めた。静かになった私たちを彼らはやがておもちゃのように弄び始めた。ある時はプロレスの技をかけられ、石の上にお尻から叩きつけられた。その時は大丈夫と思ったのだが、昼ぐらいに首がおかしくなり、真横に曲がったまま戻らなくなった。頚椎が外れてしまっていたのだ。泣きながら私は掃除用具置き場のロッカーに隠れた。幸いに先生が見つけて接骨院に連れて行ってくれ、その先生が上手な人だったらしく事なきを得た。ただ後にレントゲンを撮ったところ、頚椎に隙間ができているのでマット運動などはしないように医者に言われた。休みの日には家にその兄弟がやって来た。そして私に女の振りをするように強要し、キスをするのだ。学校でも彼らは離してくれなかった。私を図書館へ連れて行き、SFの棚の前で彼はこれを全部読んで内容を後で説明しろと命令した。今でもよく覚えているのだが、それは火星のジョン・カーターのシリーズを中心に20冊以上あったと思う。当時の私にとっては、目がクラクラするくらいの衝撃的な命令だった。私は必死で読んだ。まだ習っていない漢字もたくさんあった。今でも私は漢字を適当に読み下す癖が抜けておらず、高校生の時など私が教科書を読む時はみんなに笑われた。ともかく毎日あらすじを説明しなければならないので早く読まねばならず、その過程で速読を身につけた。斜め読みではない。一度に目に入った文章は全て同時に理解できるようになった。見開いた2ページを読むのに1秒しかかからない。しかも説明するためには覚えていなくてはならない。一度読めばほぼ暗記ができるようになった。学校で本を読んでいる時はただ眺めてめくっているだけだと皆が笑った。学年最初の教科書をもらう授業中に、私は国語と社会の教科書は全て読み終える習慣を身につけた。

彼は何のためにあんなことを強制したのだろう。

一度だけ体育館で彼の姿を見たことがある。同級生に笑われながら、赤い顔をして走らされていた。彼はいじめられていたのだ。
そういう2年間で私は心底疲労困憊し、血の小便が出るようになった。さすがに驚き、親に申し出た。病院に連れて行かれたが医者は首をひねるだけだった。原因がわからなかったのだ。親には何も言わなかった。

そうして私が三年生になった春、私たちは引越しした。私のことが原因ではない。母の恋愛を止めるために父が転勤を願い出たのだ。私たちは遠く離れた福井に向かった。物心ついて以来暮らしていた場所から切り離されるのは辛くもあったが、何よりもあの兄弟から逃げられることが嬉しかった。
新しい学校生活が始まった。不安もあったが、それよりも開放感が勝っていた。
そしてありきたりの事だが、転校生いじめが始まった。今回は上級生ではなく同級生だったから大した事はなかった。だが、私の中に蓄積した恨みや怒りは出口を求めて溢れ出した。私を目の敵にしていた同級生を私はハサミを使って刺した。彼は先生に病院に連れて行かれ、3針ばかり縫った。軽い怪我ではなかった。
その日家に帰ったが、私は母には何も言わなかった。当然の報いだと思っていたからだ。そして夕方、彼の親が怒鳴り込んできた。母は私を連れて彼の家に行った。玄関で彼の親に頭を下げた私は車の中で待つように言われた。ものすごく長い時間、その家から母は出て来なかった。

それから本当の地獄が始まった。私は罪人であり、学校は監獄となった。

クラス替えの度に、学校側は反省を求めて彼と同じクラスにした。そして顔合わせの最初の機会に彼は私が刺した事件を大声で全員に告知するのだ。
彼に対して頭が上がらないのを良いことに、クラス中が彼を中心としたイジメの集団となった。私が抵抗しないのだから、彼らはやりたい放題だった。学校には行きたくなかった。毎日心が重かった。当時登校拒否と言う思想はなかったから、想像したこともなかった。しかし、もし誰かにそう示唆されたとしても私にはできなかったろう。家にも自分の居場所はなかった。家での食事は会話が禁じられていた。黙って早く食べろというのが教えだった。食べ終わると私は黙って自分の部屋に下がった。本を読むことしかすることがなかった。親とも弟ともほとんど口はきかなかった。
五年生の時、鼓笛隊に入れてもらおうと考えた私は担当である教頭先生のところに一人で頼みに行った。その時彼が言った言葉は今も忘れられない。
「お前はダメだ。」教頭はそういったのだ。教育と言う言葉の意味を彼は考えたことがなかったのだと思う。刑務所だって出所した後暮らしていけるように教化するではないか。どうしてわずか十歳の子供を見捨てたのか。
このへんにあの時代を自分なりに理解する鍵がある。今あの時の先生たちの顔を思い出すと、眼に恐怖の色があった。私という存在が理解不能だったのだ。
私のことは市内の小学校では有名だったらしく、他校でも私の実名を挙げて戒めにしていたと後に友人から聞いた。もっとも今の時代だったら、新聞・テレビ・ネットで騒がれその学校には居られなかっただろうと思う。家族で転居せざるを得なかっただろう。人を刺すような小学三年生をどうしていいか誰もわからなかったのだ。そんな中、私は仲間とともに万引きや飲酒、タバコなどを嗜む不良小学生になって行った。
六年生になると番長が私に目をつけた。彼は廊下でいきなり私の顔面を殴りつけた。私は殴り返すでもなくただ「それで終わりか。」と聞いた。彼は驚いた表情を浮かべていた。それからしばらくして、体育館に行く廊下とか何気ない瞬間に彼がいつも私のそばに居るようになった。彼は友達が欲しかったのだろう。彼はクラスの男子を倉庫の裏に招集し、私をいじめていた男を吊るし上げて以後私をいじめるものは俺の敵だと全員に通告した。
いきなり私は組のナンバー2に抜擢された。昼食どきもトップグループの中で食べるようになった。この会食がなかなか大変なもので、この時に誰かが生意気だとか名前が揚がろうものなら、それからしばらくはクラス全員から無視されたりイジメの対象となる。この時期私は全く興味もなく仲良くもないクラスメートに順番に会いに行っていたことを覚えている。なぜそんなことをしたのか。多分敵を作るのが怖くてそうしたのだと思う。
その恐怖心はクラス全員に共有されていた。ひどい事をしたと今も思うのだが、イジメの対象になった女の子を四つん這いにしてクラス全員がその背中を踏んだりした。私は被害者ではない。加害者で、罪人だ。
思い返してみても、私のいたクラスだけ異常だった。小学生だし、皆影響を受けやすい時期だった。私がその中心だったのだ。心からそう思うし、先生方もそう考えていたのだと、今は思える。私は成績が良く、運動も割に得意だった。なぜか人気もあった。試験の時には皆に答えをそっと教えて助けてやっていた。なぜこんな簡単なことがわからないのかと思ったが、自分の学力が仲間と比較できないくらい高いことにそれで気がついた。読書力と量、そして暗記力が田舎の小学生としてはズバ抜けていたのだ。そんな私が平気な顔をして万引きをし、授業中に盗んだエロ本を読み、タバコや酒を飲んでいたからみんな真似をしたのだ。私は金がなかったので友達が親の金を盗んで工面していた。そんな中心人物の心に大きな穴が空いているものだから、子供達は同情にせよ、共感にせよ惹きつけられたのだ。まるで落とし穴のようなものだ。ずいぶん後になってかつての友人から聞いたが、その頃のクラスメートのかなりの部分が暴走族やヤクザになっていた。高校生ですでに車を盗んだりしていたらしい。私の近所で一番仲の良かった男はヤクザの金を盗んで逃亡した。家にも行ってみたが、誰も住まない空き家になっていた。

小学校を卒業すると学区の関係で皆とは違う中学校に所属になった。私はためらうことなくクラスメートと縁を切った。番長からは電話もかかってきたが、呼び出しに応ずることはなかった。
中学校ではおとなしく暮らした。やっと息ができる暮らしだと思った。しかしそれも一年ほどで終わった。中学生は塾に通う。塾には他校の生徒も来る。私の過去は噂になった。直接そのことを告げて来た者がいて、私は状況を理解した。その日、私は押し入れに閉じこもった。初めてのことだ。さすがに辛かった。
そこに友人が二人やってきた。どうして私の気持ちを理解したのかはわからないが、よほど表情にも出ていたのだろうし、学校中の噂になっていたのだろう。
彼らはギャグ漫画を一揃え持って玄関に立っていた。そしてそれを読むように告げて帰った。私は笑い転げ、それで救われた。今でも彼らの優しさに感謝している。本当の意味で楽になったのは、父の仕事の都合でまた転校してからだ。
今度こそ私の過去は誰も知らないと思った。しかし後に気がついたのだが、中学も高校も一度も担任が変わらなかった。おそらく教育委員会から担任宛に回状が来ていたのだろう。ブラックリストと言うわけだ。ただその先生方からは、何ら不利益な扱いは受けなかった。私がそう感じていただけだが、信頼されていたようにすら思う。しかし将来のために勉強する気はなく、学校に全ての教科書を置いて家には持ち帰らなかった。どうして登校拒否しなかったのかとも思うし、退学してもよかったと思うのだが、自分に希望も意図もなく、家が居場所ではないのにどこに行けばよかったのだろう。
中学を卒業するときには家を出たくて就職すると騒いだが、誰にも相手にされなかった。仕方なく高校には行ったが、高校時代はただブラスバンド部でトロンボーンを吹くだけで過ごした。朝早くから部活に行き、夜は市民バンドで練習した。日曜も祝日も正月もなく、ただひたすら楽器に逃げ込む日々が続いた。高校を卒業するときにも就職したいと先生に申し出たにも関わらず全く相手にされなかった。進学校だったせいもあったから先生だけの責任ではないが、私にも格別どうしたいという思いもなかったのだ。ただ家からは出たかった。そのためもあり、仕方なく親の希望を入れて大学には入ったが、全く勉強する気はなく、3年間で36単位しか取れなかった。授業にはほとんど出なかったし、酒を飲んで朝日を眺めてから寝るような日々が続いて、夕方にならないと起きられない体になった。中学の時からブラスバンドでトロンボーンという楽器を吹いていた私は、惰性でオーケストラに所属しており、そのサークルには通った。しかし、本当に音楽のことが好きだった訳ではなかった。ただ将来への不安とか自分自身の問題から逃避するためにひたすら楽器だけ吹き続けた。自分の中にあるエネルギーを音量に換算して吐き出す行為は音楽ではなかった。だから私は嫌われていた。何より楽器は上手にならず、まるで苦行者のように毎日ひたすら練習した。ついには舌がうまく動かないようになった。イップスというらしいのだが、緊張のあまり発音が出来なくなった。唯一の趣味と言える楽器に見放されて、私はさらに希望を失った。当然のように留年したが、家にとっては多額の学費を払ってもらっていることは申し訳なく、残りの2年間で履修可能な限りの単位を全て取ってギリギリで卒業だけはした。私も怖かったのだ。将来への不安はものすごくあった。しかし就職活動は一切しなかった。会社に入ってやりたいことなど何も思いつかなかったし、自分が会社で通用するとも思えなかった。日本の会社慣行に従って、休日も取れず、長期の旅行などが出来なくなることも理由だった。もっとも一人で旅行しても大抵何も楽しくはなかったのだが。

当時の私はちょっとした対人恐怖症になっていたようで、交差点で立ち止まる度に周りの人に恐怖を覚えた。中学生くらいの子供が集団でいるのを見ても、嫌悪感が走った。この感じは長く続いた。スーパーのレジに並んでいて人目が気にならず、平気になったのは、五十も半ばを過ぎてからだ。
大学を卒業してからは目の前の軽い仕事にぶら下がって小金を稼いで息をしていた。この頃だったか、親から国民健康保険を止められた。扶養から外されたのだ。自分で保険代を払うなど考えもしなかった。病院に行くつもりもなかったが、病気になったら死のうと思っていた。人生の意味を見出すため、芸術に活路を見出そうとしたこともあった。詩を書き、絵を描いた。文章も書いた。だがどれもダメだった。根底のところで、芸術が何のためのものかわかっていなかった。もちろん全ての企ては失敗した。

そうして自分からは何もせずにただ流されて行く日々が重なって行った。
当時も付き合っていた女はいた。随分不安だったろう。しかし、僕はバイトで稼いだ金で酒を飲むばかりで、一顧だにしなかった。これからの人生に関して不安しかなかったが、その人を安心させるという考えは全く頭に浮かばなかった。
小学生の頃から家を建てる人の気が知れないと思っていた。何のためにローンなどを組んでそのために働くのか訳がわからなかった。あの高度成長期に田舎に林立した安い木造モルタル建築のセンスのない家が大嫌いだったのだが、では自分なりに工夫して素敵な家を建てようという考えは浮かばなかった。家庭を築くとか、人生設計とかも意味不明だった。何のために家庭があるのか、全く理解できなかった。自分の家族からはただ離れたかったし、将来親と同居するなど想像もしなかった。自分なりに幸せな家庭を持とうという希望もなかった。他人の家族を羨ましいと思ったことすらない。どこも自分の家と同じようなものだと思い込んでいた。大人になって人の家庭を見る機会があるごとに、こんなにも違うのかと驚いたものだ。スーパーなどで子供が親に甘えている姿を見ると、なんとも言えない違和感を感じたものだ。なぜ親がそれを受け入れているのか、なぜ子供が何のためらいもなく甘えていられるのかがわからないのだ。
私は三回結婚しているのだが、最初の相手は同居し始めて3ヶ月で精神に異常をきたした。それからの離婚するまでの五年は苦痛だったが、それは自分が原因だった。二人目は、仕事にかまけてほとんど相手にしなかった。最初の頃は彼女が怒って家から閉め出されたりもしたが、子供が出来て実家に同居するようになると私はたまの休みと夜だけ家に居ることもある他人というような存在になった。彼女は食事も用意しなかったし、食材すら何もないこともあった。仕方なく夜中に牛丼を食べに行き、もう朝が近いので旅館に行って仮眠をとったのを覚えている。小さな旅館のマネージャーとして朝の7時から夜の11時まで、ほとんど休みもない状態だったから仕方なかったのだが、舅からそんな仕事はやめてくれと言われたこともあるが一顧だにしなかった。

自分は何の為に生きているのか。

高校生の時分から毎夜何もせずただ自分に問い続けたが、何の答えも得られなかった。当然だろう。求めるものがないのだから。心から欲しいものは何もない。金は欲しいが、それは飯を食い酒を飲むためでしかない。それ以上は必要ない。女は欲しいから寄って来る女には全て手を出した。どうでもよかったのだ。彼女らがどう感じているかなど想像したことすらなかった。何よりもそういう自分に気がついていなかった。自分はマシな人間だとさえ思っていた。

心が死んでいたのだ。

気がついたのは職場の上司から虐待とも言える扱いに悩む日々があったからだ。もう五十歳を過ぎてからだった。なんて酷いやつだと思ったが、よくよく観察した結果自分と似た人間だと気がついた。そして自分が同じようなことをしてきたことに気がついた。気がついた時は心の底から驚くと共に、自分が恥ずかしく、あまりにも情けなかった。

何の為に私は生存しているのだろうと考えた。ただ生き物として生きているだけの存在だと思えた。他の生き物の方がマシかもしれないと考えた。鳥だって愛し合うと言うし、魚を撫ぜると喜ぶと水族館の人がテレビで言っていた。そこには心の交流がある。昆虫は無私の存在で、ただ魂で生きている。穢れもないし、罪もない。
ひどい犯罪者のことを考えてみた。テレビのレポーターが、その犯罪者は人を殺したかったから殺したと言った。私には、その犯罪者は人間に関心が深いのだと思える。それほど触れ合いたいのだ。それが暴力になり相手を殺してしまったのは残念な結果ではあるが。変に聞こえるかもしれないが、私よりはマシに思える。
もし私が今死んでしまうなら、それで良い。しかし自殺はしない。希望があるから、理想があるから、裏切られた時に死をもって抗議するのだろう。

私には死ぬ理由すら見つからない。

最近思うのだが、こういう心の底からの空虚さを持つということは、物事を眺めるには都合が良い。こだわりがないせいだろう。以前読んだヘルマン・ヘッセの宗教者との対話にも、宗教や神秘の本質を理解するのに必要なのは『空の心』だと書かれていた。放蕩者がその道には一番近い存在だとも。
ちよっとだけ救われた気がした。ただ、そう思っているそばから声がする。

「何の為に?」

そうだ。何の為だろう。

ゲーテに『ファウスト』という戯曲がある。主人公のファウストは最後に4つの死の誘惑に襲われるのだが、最後の「空虚」に勝てずに死んでしまう。
ゲーテ先生曰く、人間にとって最強の敵は「空虚」だということなのだろう。そんな最強の敵に3歳から戦って、この歳まで生き残ったということはある意味誇れることなのかもしれない。でもまた声がする。

「誰に誇るのだ?何の為に?」

そうだ。理由は無いのかもしれない。もしかしたら、理由が無いということを心の底から悟る為に生きているのかもしれない。

私のようなモンスターが生きているのも、何か知らないところで役に立っている仕組みがあるのかもしれない。神の差配は計り知れない。
若い頃に見た奇妙にリアルな夢の中で「考える者」と神に名付けられたことがある。命じられたのはただ「遊ぶこと」だった。

ずっとその意味を問うて来た。私は確かに考えてはいたが、遊べていただろうか。

ただ遊ぼう。

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