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ヴェネツィア広場から始まったローマの旅~32年前の私はなぜそこを目指したのか

32年間の空白

 トレヴィ(トレビ)の泉に背を向けながらコインを投げ入れると、またいつの日にかローマを再訪することができる――そんな言い伝えがある。トレヴィの泉にやって来た観光客なら、とりあえずやってみるだろう。1991年8月7日水曜日、大学院生だった私もご多分に漏れずコインを投げ入れてみた。

トレヴィの泉にコインを投げ入れる私(1991年8月)

そのときは、いずれまた近いうちにローマに来る機会は訪れるだろうと思っていた。ところが、再訪まで32年もかかってしまったのである。「永遠の都ローマ展」の記事でも記したことだが、2023年7月、私は国際18世紀学会に参加するためローマの地を踏んだ。宿願を果たした気分だった。

1991年の夏

 1991年の夏休み、私は二カ月余りをヨーロッパで過ごした。7月はフランス・トゥールの語学学校に通い、研修期間終了後にイタリアとスペインを旅した。パリから夜行列車でミラノに入り、ヴェネツィア、ペルージャ、ローマ、ナポリと南下し、きびすを返してフィレンツェを経由して、ジェノヴァから一気にバルセロナに向かうというルートである。

ペルージャから

 途中でペルージャに寄ったのは、大学の先輩がイタリア人男性と結婚してそこに住んでいたからである。ペルージャは、フィレンツェとローマを結ぶ鉄道の路線からは少し外れたところに位置している。そのため、ローマへの移動手段としてはバスのほうが便利だった。当時の旅日記の記録には、私は次のように記している。

 バスは6時半にペルージャを出発。13000リラは安いといえるだろう。何せ、ローマまでは170kmもあるのだから。バスはわりとこんでいたが、2人分の座席をとることができた。不十分ではあるが睡眠もとれた。8時45分頃、予定より30分早くローマに到着した。

自分の旅日記

 一週間ほど前にミラノで両替したときのレートが「1円=9.4リラ」だったらしいので、それを適用すれば13,000リラは1,383円に当たる。距離の割には安く感じられたのだろう。

安ホテル

 朝のローマに着いた私は、宿探しから始めた。学生の一人旅である。贅沢はできない。旅日記の続きにはこうある。

 あまりにも早くついたせいで、ここがローマだとことを理解するのに手間どった。バスを降りたあとも半信半疑のまましばし歩く。ようやく地理がつかめたところで、無事に共和国広場から五百人広場をこえてテルミニ駅へ。ここでホテルリストと地図をもらってから、治安の悪くないほうの駅東側へ。Vareseという通り名と同じ名のホテルに入る。4泊したいといったのがきいたのか、1泊40000Lと思いのほか安かった。

自分の旅日記

 2023年夏に私が泊まったのはミッレ通り(Via dei Mille)にあるアルキメーデというホテルだったが、その一本東がヴァレーゼ通りである。32年前のホテルはどうなっているだろう? 気になってヴァレーゼ通りに足を運んでみると、そこには立派なホテルがあった。

2023年7月のホテル・ヴァレーゼ

 外観も内装も覚えていないが、こんなにちゃんとしたホテルに泊まった(泊まれた)気がしない。だが、確かにHOTEL VARESEという看板が出ている。改装したのだろうか。今の状況では、貧乏旅行でローマに寄るのは難しいかもしれない。

ヴェネツィア広場へ

 生まれて初めてのローマ。「ローマと言えば?」と問われて思いつくのは、コロッセオのような古代遺跡だったり、カトリックの総本山というべきヴァティカンだったり、映画「ローマの休日」でおなじみの場所だったりするだろう。それなのに、22歳の私が出向いたのは、そのどこでもなかった。

 荷ほどきをして、まずはヴェネツィア広場へ。

自分の旅日記

 私は何を求めていたのだろう。その答えを探すべく、54歳の私は再びヴェネツィア広場を目指した。ホテルからテルミニ駅まで歩き、駅前の五百人広場からバスに乗る。ナツィオナーレ通りを進み、二、三度曲がるとヴェネツィア広場に着く。広場の向こうで威容を誇るのは、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂だ(見出しの上の写真)。だが、私がローマで最初に見たかったのは、それではない。

建国神話

 おそらく、ヴェネツィア広場は「最寄りのバス停」にすぎなかった。目的地はその先にある。

ヴィットリアーノをながめたあと、その裏手にある聖マリア・ダラコエリ教会、ついでカンピドリオ広場へ。右手にあるコンセルヴァトーリ宮美術館には、彫刻で「とげを抜く少年 Lo Spinario」と例の「カピトリーノの雌狼 Romolo e Remo Allattati dalla Lupa」、さらには絵画でルーベンスなどがあった。カピトリーノ美術館は彫刻中心で、マルクス・アウレリウス帝の騎馬像やヴィーナス像があった。「瀕死のガリア人」は現在ヴェネツィアで展示中だという。

自分の旅日記

 広場に降り立てば、ヴィットリアーノ(ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂)は嫌でも目に入る。「その裏手」の教会も、「せっかくだから見ておこう」というくらいだろう。私がローマで最初に目指したのは、カピトリーノ美術館、それも「カピトリーノの雌狼」だったにちがいない。

カンピドリオ広場。正面が市庁舎で右側がカピトリーノ美術館。

 私は建国神話を象徴する彫刻からローマ見物を始めたかったのだ。ローマが始まった場所(厳密には違うが)から、自分のローマの旅を始める。ローマの歴史と自分の人生を重ね合わせたかったのかもしれない。今となっては、当時の自分の心情も推測するしかないのだが。

再びトレヴィの泉へ

 ローマの起源に触れたあと、私は疲れた体を引きずってふらふらしたらしい。

 休み場所を探して歩いているうちにトレヴィの泉まで来てしまった。ここでストックホルム在住という文部省の派遣教師をしているという岩田さんという中年の紳士と知りあいになった。観光客だらけの中、お互いに写真をとってから昼食をとりに入ったが、イタリアにきてはじめて食事の面でうらぎられた。

自分の旅日記

 推敲せずにノートに書きつけた文章なので、「という」の三連発が目障りだが、まあ仕方がない。
 ともかく、私はここである男性と知り合った。「中年」と書いているが、今の私よりは若かったはずだ。トレヴィの泉にコインを投げ入れる私の写真は、岩田さんに撮ってもらったものだ。自撮りをしようと思えば、カメラを固定してタイマーを設定する必要があった時代である。観光客であふれる場所ではできない。岩田さんと会っていなければ、こういう写真は残らなかったにちがいない。
 岩田さんとは翌日にもばったり出くわしていて、その後何年かは手紙のやり取りもあった。いつしか連絡が途絶えたが、今頃どうしておられるだろうか。
 そして2023年夏。私はトレヴィの泉も再訪した。学会に参加した仲間と一緒だったので、写真を撮ってもらった。

トレヴィの泉にコインを投げ入れるふりをする私(2023年7月)

 今回はコインを投げ入れなかった。ローマにまた来たいという気持ちがないわけではないが、来られなくても構わないとも思う。コインを投げ入れるとローマ訪問が宿題として残るような気がして、それはやめておこうと思ったのだ。三度目のローマがあるかどうか、それは運に任せたい。

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