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起稿宣言および論稿予告 責任について―主に「力」にまつわる問題から考える―

起稿:2023年5月22日  責任については、こんにちあまりにも多様な見解があり一致を見ないが、しかし現今の社会秩序において責任概念がどのような役割を果たしているかについては一定の共通理解が得られると思う。そこで本論では、そこを詰めて分析し、しかるのちに責任概念に力を託していることの社会的意義を明らかにしたい。その先の展開をこの時点で示す、或いは示せてしまうことは適切な議論の有意味性に反すると思うので、ここでは明示しない。ただ、以下のことだけは記述しておく。  予め示してお

    • 散歩をしようと思った

       私は散歩をしようと思った。次第はこうである。  何か今の自分には課題がある。それは、恐らく口で言っているようには人生をプロテウスできていないということである。だから、プロテウスしなければならない。そのためには構成素を組み込んで自己が変態することだ。さあどうしよう。考えた。要するに、臨機応変さが足りないのだ。臨機応変さを要請されることを生活に組み込めばいい。それは色々考えられるが、自分にできて継続可能性がありそうなものといえば、散歩だ。散歩は天候やその日の気分と相談して、その

      • 自他、内外、入出力。

         神即自然ならぬ自然即神、そこで、空気即神。  社会はなぜ脱中心化されて真偽が不定な構造なのに、自然はなぜ明らかな秩序があるように感じられるのか?恐らくそれは、私の意識に由来するものだろう。というのは、社会に影響を与えうると思うと社会は途端に真偽不定の構造となる。そして、自然は違う。すなわち、自然の秩序も可変的だと受け止めてそれを為しているような制作者にとって、自然に対して真偽という基準は妥当しない。その先に思考を進めると、「神」という語が私を邪魔しているように感じられた。よ

        • 経験の浅さ

          私は経験が浅いことに非常な劣等感を抱いている。とにかく経験が浅い。或いはDas Esから締め出されている。Das Esから締め出されているとは、或いは自分以外の多くの他者が共有している何らかの共有から締め出さているということ、或いは実はそれは自らの精神活動の深層としてのDas Esから締め出されているということである。だから、例えば明らかな神経発達症の者が明らかに多くの周囲の者から、彼は我々の共有しているものごとを知らないと感じ取られるような状態を想像してもらえばよい。彼はD

        起稿宣言および論稿予告 責任について―主に「力」にまつわる問題から考える―

          孤独と自足について

          ついに私は一体何を語ろうと言うのか。わからない。少なくとも、何がしか善きものに対する愛好症はある。 孤独はそれ自体状態であって、孤独感とは区別される。しかし同時に、孤独も孤独感もともに、大人数の中にあっても成立する事態である。私が私でしかありえないこと自体が、もはや孤独なのである。しかし、孤独感は著しく精神化学的な事態であり、また心理的な事態である。孤独感の場合、対処としてはあくまでも慣れていくことだと思う。人は生まれ育ちに規定され過ぎた機械ではない。人間はおのずから作り替わ

          孤独と自足について

          雑考・哲学 哲学は何をするか、こんにちの哲学の役割とは。そして…

           哲学はphilosophiaとして知への愛であるとはよく言われることであるが、こんにちにおける哲学はもうphilosophiaとは言えないし、それは社会的に規定された既成事実となっている。だから、私はphilosophiaとしての「なんでも屋」の哲学ではなく、今回はむしろこんにちの「哲学」について考えてみる。  哲学は何をするか、或いはその意味での哲学の役割とは何か。一つ回答を出すとすれば、科学的方法で掴み得ないものを掴もうとする試みであろう。科学はこんにちの社会において

          雑考・哲学 哲学は何をするか、こんにちの哲学の役割とは。そして…

          永遠の未決存在者としての万能人からの脱却と神の受肉

          私は永遠に決断をしたくない。だからこんなことになっているとも言える。何か。例えば社会における身の置き所。そこで稼いでそこで生きていくところのそこ。或いはまた、信念。私は今キリスト教において洗礼を受けようとしているが、私は信仰などまっぴらごめんである。入信しても決して信じたくない。しかし、身の置き所や信念体系の選択を決断しないとやっていけないような感覚がある。だから今、私は決断の時局にある。 最近の私が所謂ところの普遍性を感じさせるものを書かない理由。答え。それは真の普遍では

          永遠の未決存在者としての万能人からの脱却と神の受肉

          私の異常性について

          私は私としていつも常態であるが、外部からみると往々にして異常である。私は発達障害者である。ASDとADHDの両方を診断されているし、実際に自分でもそうだと確信している。私はとにかくなにか日常に自然に住まう感覚が持てない。私は地元佐賀県唐津市に生まれ育ったが、ついに方言が身につかなかった。私の今の方言は、強いて言えば文法的には所謂日本標準語方言であり、また語彙的には人文学方言であろう。私は、だから大学の哲学科は非常に居心地がいい。 最近の私は、いかに生きいかに死に臨むかを重視

          私の異常性について

          (ほぼ)毎日更新、聖書通読日記。

          2023年2月23日(木)  今日から更新を始める。基本的に聖書は日本聖書協会の新共同訳・旧約続編付きである。創世記からヨハネの黙示録まで、いつまでかかるかわからないが読み通す所存である。その動機づけにこの聖書日記を更新していく。なにぶん一人で読むのでプロテスタント的ではあるが、同時にここで皆さんのまなざしを感じながら読むので、その点はやはり伝統的なキリスト教の発想である。続けばいいなと思う。なお、聖書はなにぶん寝る前に読むことも多かろうという想定で、前日の分を、すなわち翌日

          (ほぼ)毎日更新、聖書通読日記。

          自我論と狂気論に関する今後の学習と探究の見通し&神になりうるかもしれない人類ということに関して

          ここでは敢えて自我を概念規定することはしないが、変化することを前提として敢えて言うならば自我とは定立されており反省するところのこの私のことである、としておこう。よって、現時点では精神分析の自我論のことは念頭におかない。 自我と狂気について考えている。狂気にある者であっても先の自我による病識をもって(或いは自我によるというのが大きな誤解か或いはレトリックのようになってしまっているのかもしれないが)病院に行くことはままある。そもそも素朴な考えである「この私」が「自分」を動かして

          自我論と狂気論に関する今後の学習と探究の見通し&神になりうるかもしれない人類ということに関して

          記事:音声入力試行作

           まあ俺は現代の言文一致運動というのが必要だと思っていて、というのはねつまりこういうこと。今俺はこの小説めいたもの小説というよりもむしろまあある種モノロジーではあるかもしれないけれども、まあ詩のような形で先ほども書いたけどまあやはり言文一致運動の方でねやりたいと思ってそういうところで書いてるから、これ書いてるんじゃなくて実は音声入力でやってる。そこで俺と私のこの分離を語りたい。夏目漱石という人間ってね、夏目漱石っていうのは例えば『吾輩は猫である』の中で、そうだな、デカルトのコ

          記事:音声入力試行作

          陰陽の渾然

          陰陽の渾然 はじめに  二日酔いで頭が痛いのに、それでもなお朝っぱらからぶどう酒を飲みながらの執筆となった。酸いぶどう酒を差し出されて死んでいきながらも復活したらしい奴の伝説は右耳に入ってくるが、それは天子のみに許された傲慢。おわかりだろうか。それではご賞味を。 陰陽の渾然 闇路の先に光あり。母なる大地、父祖の足跡。  私の生まれは九州は唐津である。古くは末盧国として俗に言う魏志倭人伝に記載されている。松浦川の流れは始原の潮と溶け合い、或いは山上の園庭を

          陰陽の渾然

          【読書】『釈尊のさとり』1979.2 増谷文雄(1902-1987) 2022.9/25

           私のこれまでの思索と学習は、ただ表層的に目録を構築するような作業だったように思う。そこで、数か月前からは、本格的に本を通読するタイプの学習形態も半ば娯楽的に取り入れようと思っていたのであるが、根っからの無精により漸くの通読となった。第1号は増谷文雄の『釈尊のさとり』である。この本は、90頁と非常な短さで、読書家の後輩見て曰く「細い!」。 ※増谷文雄(ますたにふみお):1902年福岡県生まれ。25年東京大学文学部宗教学科卒。各大学で教授や学長を歴任。専門は宗教学・仏教学。(本

          【読書】『釈尊のさとり』1979.2 増谷文雄(1902-1987) 2022.9/25

          【diary】言語的思考による英語・数学学習の成果と弊害 and I'm learning English using English textbooks.

          These days, I have studied mainly English. It have used reading learning what "HUME A Very Short Introduction" -A .J. Ayer-. Who recommend that dislike persons that of English because This book is very easy English and content. I am skepti

          【diary】言語的思考による英語・数学学習の成果と弊害 and I'm learning English using English textbooks.

          【日記】skepticism,パイノメノン、寿司と疲労 2022年9月16日

          日記開始にあたって  今日から日記をつけはじめる。動機としては、住居を移しての生活がひとまずの安定をみたので、この機に始めてみようと思った次第である。  しかし私のような精神の不安定な怠け者のことなので、鼻から継続的なかたちでうまく続くとは思っていない。しかし、私は、やってみることから始めるというのが一番いいと思っている。というのも、私は、個体のあらゆる活動は経験(experience ※参考:〔藤本隆志〕. 『岩波 哲学・思想事典』第1刷 「経験」: 岩波書店, 1998

          【日記】skepticism,パイノメノン、寿司と疲労 2022年9月16日

          【読書】基(以下略) 序2:先生、”あらゆる人間の生の深層に届く言葉を繰り出す唯一無二の哲学者”と紹介されていた。

          ※(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) とのこと。  しかし、間違いなく私の生の深層には届いている。しかしそれは「言葉」ではないし、また先生は「哲学者」ではない。  ところで、かつて東京は動的であった。しかし令和の東京は、東京より広い衰退国家のスタティックな一都市へと変貌している。酒と煙草と淫売婦を教えてくれるような者はいないし、しかしそれはきっと私に魅力がないための現象であろう。私は徘徊老人みたいなものである。ただの異邦人でしかない。empty

          【読書】基(以下略) 序2:先生、”あらゆる人間の生の深層に届く言葉を繰り出す唯一無二の哲学者”と紹介されていた。