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今日と明日の境目

五月だというのに、なんとも暑い一日だった。
春の陽気を限界まで陽気にさせているので、体感的には満員電車に乗り込んでみたら乗客全員メキシコ人だった、くらいの陽気の限界突破だろうか。

子供は愚か、大人達も半袖で外を歩いている。
それは夜になっても変わらず、夕方特有の涼しさが薄れつつあるのかしらと思ったりしながら風景の中をぼんやり歩いていた。

走り出す音が耳に入って来て、振り返ると五歳ほどの男の子が駆け出していた。
その先に何があるのかと思いきや、男の子は急に立ち止まると両親を振り返った。
どうやら、何のアテもなく走り出していたようであった。

最高じゃないか、と瞬間的に感じた。

走り出す理由もなく走ることを、人は恐怖と呼ぶ。
子供達はきっと、そのことを興味と呼ぶのかもしれない。
走りたいから、走る。
それ以外に、彼らはきっと何の理由もないし、そもそも不要なのだ。

成長を遂げ、生きる上で理を求めるうちに、人にはおかしな事が起きる。
理由を求めて行動しておきながら、今日と明日の明確な境目を無くすのである。

それはドラッグをやっていて頭がラリってるとか、酷いドランカーだとか、そういう類の人種ではなくともそうなる。
当たり前に朝起きて、電車に乗ったり車に乗ったりして、仕事へ出る。
そしてやはり当たり前のように働き、家に帰る。食べる、飲む、眠る。
気付けば何がやってくるか?
朝が来ている。 
そして当たり前に朝起きて……としているうちに進む道は平坦かつ見慣れたものとなり、日々や毎日が切れてないきゅうりのキューちゃんばりに繋がってしまうのだ。

それが悪いだの反省しろだの、そんな話ではないし、そもそも昨日、今日、明日という時間的概念は人の発明品のひとつだ。
時間というのは宇宙や、太陽や、地球や、動植物には通用しない「道具」のひとつでしかない。

何の理由もなしに走り出す子供達が見る今日、そして明日には明確な区切りがあるような気がする。
バカ正直に今日を信じ、明日に期待を込め、すぐに過去を忘れる。

それはある意味、大人よりもずっと器用なんじゃないかと思う。
しかし、器用過ぎることは時に危うさや脆さを生むことがある。
それはきっと、周りが不器用な時にこそ起こり得る。

そんなことを、スマホのデジタル時計と睨めっこしながら書いている僕もまた、自ら時間に幽閉されてしまった極々平凡な人間のひとりであることも、ここに記しておく。

この記事に意味は特にないし、矛盾もあると思う。
こんな意味のないことを考える思考だけは、時間を忘れているような気もしている。

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