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❖「ノベル」な書き出し「述べる」だけ(第16話)❖ まいに知・あらび基・おもいつ記(2023年6月21日)

(小説っぽい書き出しで表現してみるシリーズ)

量としての世界ならば、他者からは不足に映ってしまうのは仕方がない。ただし、世界を質として捉え直したならば話は変わる。

料理が運ばれてきたとき、私は自分で自分の顔を見たわけではないが、表情には不足や不満など微塵もなく、満足や安堵が滲み出ていたと思う。

確かに、これを通常の食事と考えれば不足と感じるのも頷ける。だが、この注文は純粋に食事をしようというものではなく、メッセージだった。一種の決意表明みたいなものなので、これでいいのである。これでいいどころか、これしかないくらいの大正解だったのである。

普通に考えたならばライスやナンがあって完成形なので、それらがないこの料理は、完成形を100としたとき、引き算されていて、100未満の不足状態である。しかし私にとっては、これが現時点における完成形であったし、注文した品の一つひとつに意味なり物語なりがあったので、3つで100ではなく、それぞれが100であり合計300と言ってもいいくらいであった。

もちろんその300というのは、自分の中での質的な評価である。量的には80とか70に思えるから、この店のスタッフは注文を受ける際に驚きや当惑を示し、その後、厨房では嘲笑ないしは失笑が膨らみ、そして料理を運んできたときも疑念とか疑問が払拭されていなかったのだろう。

つまり誰かの幸福の質というものを、他者が持っている物差しで正確に把握するのは簡単なことではないということだ。そもそも質は量とは異なる世界にあるから、物差しで把握しようとすること自体が的外れなのかもしれない。

では私にとっての幸福の質とは一体どんなものなのか、まずは「ダールカレー」の物語を話すとしよう。

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【本日はここまで、以下は補足、蛇足?】
幸福というものは「量」として捉えられるものなのか、または捉えるべきものなのかという論点は人生観にも関わる大きなテーマですね。これに対して、幸福を「質」として捉えるべきとする立場もあります。

古代からこの「幸福とは何か」というテーマは様々な思想家によって語られてきました。

近代においては、イギリス功利主義が有名です。その中で、量的な功利主義の代表格がジェレミー・ベンサムで、質的な功利主義の代表格がジョン・スチュアート・ミルだと思います。

幸福の度合いは量で決まるのか、質で決まるのかについての議論は、現代においては、大まかな経済の勢いを示すGNPやGDPといったものとは異なる指標が提案される形で続いています。例えばNNW(net national welfare、国民純福祉)はその一つで、GNPから国民の福祉に結びつきにくい要素(例えば、防衛費など)や環境悪化の要素を引き、余暇(レジャー)や家事労働といった福祉的な要素を加えたものです。

近年ではOECDでも2011年から「Better Life Index(より良い暮らし指標)」という11項目の指標が示されていて、「幸福や豊かさ」を生産規模や経済成長といった分かりやすい量ではなく、暮らしの中身に焦点を当てた個々の質で捉えていく動きが主流になっています。

ここまで大がかりな話ではありませんが、このインド料理屋さんで注文した品によって、私にとっての質的な幸福が体現されていたのでした。

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