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【一人で勝手に旅気分】344

(過去の旅についての振り返りです)
★「失礼」という概念のパラダイムシフト(2019年4月15日)

【記事累積:2004本目、連続投稿:937日目】
<探究対象…ラオス、ビエンチャン、信仰心、ピーマイラオ>

今日の「ナゼ・ナゾ」は、ラオス・ビエンチャンの写真です。この写真を撮影したのは、ラオス第1期が始まってすぐに体験したラオス正月(ピーマイラオ)のときでした。さて、どんなところが「ナゼ(疑問を持った)・ナゾ(気になった)・アンテナ」に反応したのでしょうか。

2024年のラオス正月(ピーマイラオ)は、本日の4月13日からスタートしました。そのピーマイラオと私の最初の接点は2019年4月に遡ります。3月終わりに初めてラオスの地に降り立ち、これまで住んだり訪れたりしたことがあったシンガポール、マレーシア(ジョホールやKL)、オーストラリア(パース周辺)、フランス(パリ周辺)、イギリス(ロンドン周辺)、アメリカ(ボストン、NY、ワシントン)などとは一味も二味も違うラオスの様子は、毎日が驚きの連続でした。

そんなラオス生活の驚きがさらに大きくなったのは、住み始めて3週間しないくらいの時期に始まったピーマイラオだったのです。ピーマイラオは「水かけ祭り」というイメージであることは、先輩教員から聞いていましたが、実際に経験してみると「水かけ」というソフトなイメージではなく、「水「ぶっ」かけ祭り」というようなハードなものだったのです。

今日の写真に写っているのは、この時期に訪れた或る寺院の中の仏像です。この寺院は私が住んでいたアパートから歩いてすぐの所にあった「ワット・ドンパラン」です。私がここに注目した理由は何であるのか推察してみると、信仰心をもって接する対象である仏像が、あまりにも花びらで汚れていたからだと思います。ピーマイラオが「水かけ祭り(水ぶっかけ祭り)」と呼ばれる所以と関わるものとして、寺院を訪れた人々が仏像に水をかける行為があります。皆さんそれぞれにバケツを持ち、長めに茎を残した花や細長い葉っぱなどを束にしてハケのようにしたものを使って、仏像に水をかけて回ります。そしてその仏像の足元から次々に滴る水を受け取り、自分の身体にかけているのです。この仏像の足元から滴る水は縁起の良いものとして、それを集めて家に持って帰り、家族にかけてあることもあるようです。

寺院を訪れる人々が代わる代わる水をかけるものですから、ハケのように束ねた花の花びらが飛び散って仏像に大量にくっついてしまいます。そしてバケツの中の水は、家から汲んできた水ではなく、寺院内の大きなバケツや甕などに用意された神聖な水のようで、水の中にはすでに大量の花びらが漂っているのです。そのため、ハケのようなものを使って水をかけるたびに、花びらが無数に飛び散るわけです。

その花びらの散らかり様を見ていると、お世辞にも「きれい」とは言えず、これだけ「きれいじゃない」状態は仏像に「失礼」になってしまうのではないかと最初は思っていました。しかし皆さんの様子を見ていると、わざと汚そうと思って水をかけているわけでは決してなく、厚い信仰心と真摯な気持ちで仏像に水をかけていることがしっかりと伝わってきました。

そのとき気づいたのです。もしこのピーマイラオの期間、仏像に花びらがついておらず「きれい」だったとしたら、ほとんど人は訪れていない、または水をかける行為をしていなかったということになり、その方がよっぽど仏像に対して「失礼」なのだと。それまで私の中にあった「ピーマイで仏像がきれいじゃない=失礼」という関係式は、「ピーマイで仏像がきれい=失礼」というものに大転回したわけです。

今回の「ナゼ・ナゾ」は、ラオス第1期のピーマイラオで訪れた寺院で遭遇した飛び散った花びらまみれの仏像の写真でした。私がこれまで持っていた「失礼」の概念は、ラオスで暮らす人々の信仰心に触れたことでコペルニクス的転回を迎えました。信仰の対象物が「きれい」であることが常にポジティブであるとは言えないというのは、とてもインパクトのある気づきで、大きな驚きでした。ラオスという国で生活したことで、このときは「失礼」に関するパラダイムシフトを体感したわけですが、特にラオス第1期ではこれ以外にも多くのパラダイムシフトの光景を目の当たりにしていくのでした。

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