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「ハパンサペナ」全篇無料公開(『大人になる時』刊行記念)

草上仁/日下三蔵編『大人になる時』(竹書房文庫)の刊行を記念して、収録作の中から「ハパンサペナ」を無料公開致します。
辞書にない言葉を使えば、すぐに逮捕される世界。「ハパンサペナ」という造語を使った男の運命は……。
ユーモアをまじえつつ、政府がすべての“言葉”を統制するディストピアの恐ろしさを描き出した傑作をご堪能ください。

「ハパンサペナ」
 と、ある日わたしは言った。そして、文化規格統制局に捕まった。
慌ただしい簡易緊急逮捕と長ったらしい拘留手続きのあと、連中はさっそく、わたしを、文化規格統制局のビルにある、小さな取調とりしらべ室に放り込んだ。極悪な文化犯罪者を取調しらべるために、特別に設計された防音室だ。
 わたしは、部屋を見回した。見て楽しいようなものは何もない。建築規格準拠の、クリーム色の壁と天井。ピンク色のプラタイルの床。ひらべったいエア・コンディショナ・セット。家具規格準拠の、灰色のプラスティックの机。机の両側に並んだ、全く同じ形の二脚の椅子いす。わたしは、誰の許可も待たずに、入口に近いほうの椅子に腰をかけた。椅子は硬く、標準体格用に成型されているため、大柄なわたしには、座りくかった。これはわたしが悪い。
 わたしの体格は、標準規格に準拠していないのだ。
 白い上っぱりを着た医者みたいな男が、机を挟んでわたしの前に座り、ばかでかい言語マニュアルに手をかけた。まだ三十歳をすぎたばかりといったところだが、白衣に留めつけた記章から見ると、かなりの高位にある人物らしい。次官補クラスだ。言語犯罪者の取り締まりや尋問を担当するこの連中は、調査係官と呼ばれることになっているが、単なる事務担当者ではない。市民生活のすみずみまで、絶大な権力を行使できる。この年でこの仕事をしているということは、きっと、有力な親戚がいるのだろう。
 彼は、椅子にぴったりの体格をしている、と、わたしは思った。公務員というのは、みんなそうだ。
 わたしの敵である男は、マニュアルは開かず、まず机の上のコンソールをのぞき込んで、部屋の防音状態を確認した。いかなる場合も、規格外の言葉を使ってはならないという、文化規格統制局の建前とは裏腹に、取調べ時には、禁止用語が使われることは避けがたい。それを、担当係官以外の者の耳に入れないための防音設備だ。
 もちろん、ドアは閉まっているし、音波吸収システムに異常はない。局の備品は、いつでも完璧な状態にある。
 それから、調査係官は、わたしの顔を、じっと見つめた。そして、単刀直入に切り出した。
「あなたは今日、ハパンサペナと言いましたね。この事実を、認めますか?」
 丁寧ていねいな口調だった。文化規格統制局の連中は、表向き、公僕という立場を見せつけるのが大好きだ。もちろん、本心とは、裏腹に決まっている。
「認めるとも」
 と、わたしはぞんざいに答えた。素直に認めたかったわけではないが、証人が何人もいるのだ。その証人たちは、わたしが、辞書にない言葉を叫んだということを、喜んで証言するだろう。今更否定したって、始まらない。
「ハパンサペナという言葉は、正式ガリダル語第三水準単語辞書に載っていない」
 文化規格統制局の男は、厳粛な表情で言った。
「そのことを、御存じでしたか?」
「知らなかった」
 と、わたしはびっくりしたように答えた。
「辞書に載っていないって? 確かかい?」
「間違いありません。ハパンカクトスと、ハパンチレックの間には、何の単語もありません」
「まさか」
 わたしは、大げさに驚いて見せた。
「信じられん。ちょっと、見せてくれ」
 相手は、さも嫌そうに、分厚いマニュアルをわたしのほうに押してよこした。
 わたしは、言語マニュアルの辞書編を開いて、あるはずのない単語を探すふりをした。薄いプラスティック再生紙を、右手の親指で、ペラペラとめくる。各ページの上部に索引用の印がついており、その下には、細かい活字で、膨大な量の単語が並んでいた。使用を許された全ての言葉。正式ガリダル語として認知された単語の数々。ハハネド、ハハノッキ、ハハマイグ、ハハマイゲ、ハハマイゲニッキ、ハパンカイナ、ハパンカクタ、ハパンカクテ、ハパンカクトス――もちろん、ハパンサペナは載っていなかった。わたしが発明した言葉なのだから、当然だ。
 わたしはゆっくりと顔を上げて、言った。
「ない。そんなはずはないんだが。ひょっとすると、辞書が、間違っているんじゃないかね?」
 白衣の男は、ため息をついた。抑えた怒りと、いらちのために、早くも公僕という仮面がげかけている。
「あり得ません。これは、政府の印刷局から出ている、最新版のマニュアルです。これに載っていない単語は、わが国には存在しない。絶対に」
 わたしは、目を丸くした。
「一体いつから、ハパンサペナがなくなったんだね?」
 相手は、うんざりしたような表情を見せて、もう一度、ため息をついた。
「最初からです。正式ガリダル語第三水準単語辞書の第一版が、五十年前にリリースされてからずっと、そんな単語は存在してません。念のため、全ての版と、削除一覧、追加一覧を、機械検索しました。間違いはありません」
「そんなばかな」
 わたしは、ぼうぜん自失のていを装った。
 係官は、両手を組み合わせて、わたしの目を覗き込んだ。
「いいですか、ハンセンさん。規格外の言葉を、絶対に使ってはいけないってことは、ご存じですよね」
 わたしは、殊勝げにうなずいて見せた。
「もちろん。そんなことは常識だ」
「なぜいけないのか、その理由もご存じですか?」
 知らないでどうする。文化規格統制局発行のパンフレットは、一つ残らず、隅から隅まで目を通しているのだ。わたしが嫌だと言ったって、連中は年に二回、それをこっちの鼻先に押しつけて来る。何せ、こちらは前科四犯。言ってみれば、保釈中の身だ。
「言語の混乱によって、これまで多くの悲劇が繰り返されて来ました」
 と、わたしはその文言を暗唱した。
「不適切な言語体制に端を発する誤解によって、いさかいや戦争が起こることもありました。言語の違いによる、民族同士のいがみ合いの歴史は、枚挙にいとまがありません。また、文書の解釈を巡る法廷論争や紛争に、多くの無駄な時間が費やされていた事実もあります。さらに、言葉のあいまいさや複雑さは、人々の学習能力を低下させ、社会活力を奪っていました。全く整備されていない同音異義語や、異音同義語、複雑で多義的に解釈される成句などのはんらんは、目を覆わしむるばかりで、人々の誤解や争い、失敗の原因となっていたのです。こうした混乱状態を回避するために――」
「もう結構です」
 係官が、わたしの言葉を遮った。声がとがっていた。官僚を挑発し過ぎるのは、極めて危険だ。
「その通り、社会的な混乱を避けるために、政府は全ての言語を統合整理して、正確にして簡潔、論理的で科学的、単純にして明瞭なる唯一無二の言語、ガリダル語を国定言語としたのです。そして、正式ガリダル語辞書が制定されました。全ての国民は、正式ガリダル語を、正式ガリダル語だけを話し、聞き、読み、書き、常にこの辞書に従う義務があります。いかなる理由があっても、辞書に載っていない言葉を口にしてはならないのです。一つ許せば、二つ、三つと、どんどん定義外の言葉が増殖するでしょう。別言語体系さえ、発生するおそれがあります。そうなれば、やがてあの暗黒時代に逆戻りすることになる。一つの単語の意味が七つも八つもある上に、矛盾するいくつもの表現形式を内包し、不明確な成句や慣用句に満ちた言語。しかも、その言語が、何種類もあるという、悪夢のような時代に。それだけは、
絶対に避けなければなりません。だから、辞書に定義済みの言葉しか、口にしてはならないのです」
 相手の、型にはまった長広舌にうんざりしながら、わたしは付け加えた。
「いつ、いかなる場合も」
「いつ、いかなる場合もです」
係官は、熱心に繰り返した。法律の条文は明確であり、一切の例外は認められていない。官僚的で融通がきかない、四角四面の強行規定だ。
「ハンセンさん。そのことを知っていながら、なぜ、ハパンサペナなんぞという、辞書に載っていない言葉をしゃべったのですか?」
「えーと」
 わたしは、考え込む振りをした。実のところ、まともな理由なんてない。不条理で徹底的な――徹底的に不条理な――言語統制に、ほとほと嫌気がさしただけの話だ。
「つまり、もののはずみってやつだ。ほら、驚いたり、痛かったりした時に、あっ、とか、いたっ、とか、反射的に口走るだろう。あれだよ。車に撥はねられそうになって、びっくりしたあまり、つい、口走ってしまったんだ」
「ハパンサペナ、と?」
「その通り。どうしたのかね? 信じられないって言うのかい?」
 係官は、両手で作った三角形の上に、顎を乗せた。目が、暗く燃えている。
「率直に申し上げて、到底信じられませんね、ハンセンさん」
「じゃあ、この言い訳はやめよう」
 と、わたしは譲歩した。
「言い間違ったというのはどうかな。ハパンチレックと言おうとしたんだが、舌が回り切らなくて――」
係官の顎に、力が入った。ぞっとするほど穏やかな声で、彼はわたしの発言を遮った。
「ハンセンさん、あなたは、ハパンチレックという言葉の意味を、知っているんですか?」
「もちろんだ」
わたしは、胸を張った。

「これでも大学出だよ。ハパンチレックというのは、『高度に学術的で専門的な文章を書く態度』という意味だ」
 係官は、何か迷っているように鼻の頭をいた。わたしが、どこまでとぼけた態度を続けるつもりだろうか、と考えているのだ。
「あなたはどうして、道の真ん中で、『高度に学術的で専門的な文章を書く態度』などという言葉を使う必要性にせまられたのですか?」
「何だって?」
 わたしも、相手のをして鼻の頭を搔いた。
「自分でおっしゃったでしょう、ハパンチレックと言おうとしたのだと。あなたはどうして、道の真ん中で、ハパンチレックと言おうとしたのですか?」
「道の真ん中で、『高度に学術的で専門的な文章を書く態度』と叫ぶことは、禁じられているのかい?」
「禁止されてはいません。ただ、不自然ではないかと言っているのです。普通の人は、道で突然、ハパンチレックなんて叫んだりしません」
「じゃあ、わたしは普通の人じゃないんだ」
 わたしは、首をかしげた。普通の人ではない、という言葉に、調査係官はぴくりと眉を上げた。あいにく、普通ではないというだけで、犯罪を構成するわけではない。そう、まだ、今のところは。
「ちょっと待ってくれよ、今思い出すから。あの時わたしは、何かの看板を見ていた。ええと、確か――そうだ、あの清涼飲料水の看板だ。ホログラムの、よくあるやつだよ。最近、やたらあちこちで見かける。青と白で縁どりしてあって――あんただって、見たことがあるはずだ」
 調査係官は、唇をんだ。
「カンタラ・ソーダですか?」
「違う。カンタラ・ソーダは赤と緑だ。そうじゃなくて、ほら、あの透明な、色のついた泡が出るやつ――」
「クレスチン・ドリンク?」
 わたしは、指をパチンと鳴らした。
「それだ。クレスチン・ドリンク。あれの看板を見ていたんだ」
 わたしは、自分の言葉に、深々とうなずいて見せた。
 係官は、本心から困惑したように、首を傾げた。怒りが、少しとお退いている。この男、わたしが、からかっているだけだということが、わからないのだろうか? もちろん、わからないのだ。こうした連中には、想像力というものがない。
「ハンセンさん。クレスチン・ドリンクの広告が、どうしてハパンチレックなんです?」
「それはその、何だ」
 わたしは、腕組みをして、椅子の下で足をもぞもぞさせた。

「つまり――クレスチン・ドリンクのキャッチフレーズを、知ってるだろう?」
 係官は知っていた。そのキャッチフレーズは、たわけたメロディーに乗せて、一日何百回となく、宣伝放送で流されている。
「クレスチン、クレスチン、喉の楽園、心の平和、ラッキー、ラッキー、クレスチン、シュワー」
「それそれ」
 わたしは、腕組みを解いて、係官に軽い拍手を送った。
「その、ラッキーラッキークレスチンシュワーのところだ。そこのフレーズを書いたやつの、『高度に学術的で専門的な文章を書く態度』が悪くない、と思ったのさ」
 係官は、歯嚙みしながら、机の上に身を乗り出した。
「ハンセンさん。どうやら誤解されてるようですが。これは、冗談ごとではないんですよ」
 わたしは、敬意を込めて、両のてのひらを、係官のほうに差し上げた。
「わかっているとも。いいかね。ラッキーという言葉は、高度に哲学的な概念を内包している。幸運とは、相対的かつ、相互補完的なものであると同時に、排他的なものでもある。ある人が幸運をつかめば、他の誰かは相対的に不運になる。もし、全国民がクレスチンを飲んだら、全員がラッキーということになるのだろうか? いや、それは有り得ない。そこで、このフレーズを書いた男は、ラッキーをリフレインさせて、クレスチンを相対的に大量に飲んだ者が浮上する、という意味を含ませ、さらにシュワーという専門用語を配した。ところで、シュワーというのは、辞書に載っているのかね?」
 係官は、言語マニュアルをめくって見もしなかった。
「もちろん、載っていますよ。擬音語の部、第二分類です」
「そうか。とにかくわたしは、ラッキーラッキークレスチンシュワーが、ハパンチレックで書かれたと感じた。だから、そう言った。いや、言おうとしたんだ」
 係官は、わたしを恐ろしい目つきでにらみ、古い話題を蒸し返した。
「車にかれそうになったからではなくて? 広告に感心したからですか?」
「どっちが気に入った?」
「気に入るとか、気に入らないとかいう問題ではありません」
 係官は、何とか怒りを抑え込み、白い上っぱりのポケットに手を突っ込んで、政府公認規格電子メモランダムを取り出した。
 そいつの検索キイをたたき、小さなディスプレイに出てきた文字列を、額にしわを寄せて覗き込む。
「ハンセンさん、あなたは、以前にも、言語統制法違反で逮捕されていますね?」
「そうだったか?」
 しらばくれても無駄だとわかっていた。文化規格統制局のコンピューターは、決して、何ものも忘れない。もちろん、調査係官は、最初から記録を把握していたのだ。わたしの、ささやかな、しかし、極めて珍しい逮捕記録は、永久に保存される。わたしが死んで、灰になってしまったあとも、わたしが間違った言葉を使ったという記録は残る。これは、一種の名誉ではなかろうか。
「二二三二年と二二三四年に一回ずつ、二二三八年に二回。もちろん、その時使われた言葉は残っていませんが」
 わたしが口にした『誤った言葉』は、正式辞書に載っていないので、文化規格統制局の公式文書に残すことができない。公文書の全てを記録しているスタンダード・ファイリング・サービス・コンピューターには、厳重な検査システムが備えられている。誰かが、その言葉をコーテーションつきで入力しようとしても、スペルチェッカ・プログラムが介入して、金切り声で警告するだろう。文化規格統制局は、擬音語はおろか、固有名詞の数まで制限しているからだ。コンピューターの犯罪記録といえども、例外ではない。その結果起こる皮肉なジレンマ。さいな不都合というやつ。
「うん、思い出した。最初のがハカレックだ」
 と、わたしは教えてやった。
「『馬鹿ばかばかしいほど単純なことを複雑に表現する』という意味だがね。こいつは古語で、昔のガリダル語には確かに存在したが、言語革命以降の辞書には載ってない。その次がカイナムラで、これは合成語。『始末に負えないほど官僚主義的かつご都合主義的』というくらいの意味だった。それから――」
「やめなさい」
 係官は、両手で机を叩いた。温厚な態度を忘れ、本気で怒っていた。のっぺりとした顔に朱がし、唇が震えている。官僚タイプの、典型的な怒り。連中は、何度も繰り返し叩き込まれた結果、与えられた大義名分を完全に信じ込んでいるのだ。
「存在しない言葉を口にしないで。これ以上、罪を重ねるつもりですか?」
 わたしは、口を閉じた。
「ハンセンさん、あなたは初犯じゃない。再犯だ。普通に考えて、情状酌量の余地はないと言っていいでしょう。そこのところを、よく認識して頂かないといけません」
「わかった」
 わたしはこうべを垂れ、かいしゅんの情を表現した。
「よろしい。では、おふざけも茶化しもなしで、質問に答えて頂きましょう。あなたは今日、ハパンサペナと口にした。これは事実ですか?」
 係官の表情は硬く、妥協を許さないものだった。わたしはため息をついて、彼の質問に答えた。
「ああ、事実だ」
「なぜです?」
 奴はわたしを睨みつけ、口を開こうとしたわたしを、手で制した。
「ジョークはなし。言い逃れや作り話もなし。余計なことは言わないで。わたしをけむに巻こうなんて考えないこと。いいですね」
 わたしはうなずいた。
「では、言って下さい。どうして、あんな犯罪行為を?」
 わたしは、肩をすくめた。
「特に理由はない」
「何ですって?」
 係官は、また机を叩いた。
「まだ、わかっておられないようですな。いいかげんなことを言わないで下さい。理由もなしに、犯罪を犯す人間はいない」
「わかってないのはそっちだ」
 と、わたしは反論した。
「新しい概念を考えること、その概念に合った言葉を創造すること。それは、自然な欲求であって、本能にも近い行為だ。本能に、理由があってたまるか。わたしは、作りたいから言葉を作り、喋りたいから喋ったまでだ。特に理由はない。これが事実だ」
「無責任な」
 係官は、声を荒らげた。
「あなたの言葉を、何人もの人が聞いているんですよ。当然、それらの人々は、困惑し、言語的混乱をきたした。正式言語に対する信頼さえ、いくらか揺らいだかも知れない。いきなり、自分の知らない言葉を聞かされたんですからね。運が悪ければ、思春期前の子供だって、聞いていたかも知れない。周到な学習プログラムによって育成されるべき学童が、あなたの言葉を聞いて、誤った言葉を覚え込んだらどうなります? 子供が悪習に染まるのは早い。そうなってから、悪習を除去しようとすれば、とてつもない時間とかねをかけなければならない。子供をらくさせることが、あなたの目的なのですか?」
「とんでもない」
 わたしは、首を横に振った。
「わたしは、子供を堕落させたくなんかないよ。子供は、国の宝だ」
 調査係官は、ほっとため息をついた。しかし、汚いものでも見るような視線を、わたしかららさない。
「ではなぜ、そんな危険を冒したのです。答えて下さい」
 わたしは、ふてくされた態度で、椅子によりかかった。
「ただ、そうしたかったからさ」
 係官は、両手で机を叩いた。身か らだ 体つきにしては、おおきな掌だ。有力な親戚がいたって、あれほど標準から外れた掌をしていては、出世はおぼつかない。せいせい、こいつは今の次官補止まりだろう、と、わたしは意地悪く思った。もちろん、その権力だけでも大したものだが。
そうしたかったから・・・・・・・・・? 信じられん。そんな卑劣な欲望に負けて、国家の基盤を危うくするとは。あなたは、テロリストなのですか?」
「違う。わたしは、この国をひっくり返そうと思っているわけじゃない。国を愛する、普通の市民だ」
 係官の目が、ぐっとり上がった。
「善良な市民は、辞書にない言葉を使ったりしない。他人の言語的認識を惑乱したりしないし、学童の成長を脅かしたりもしない。あんたは、国を愛する、普通の市民なんかじゃない。ハンセンさん。あんたは犯罪者だ」
彼は、荒い息を吐いた。それから、わたしに、きれいに爪を切った人差し指をつきつけて、繰り返した。
「犯、罪、者、だ」
「ふん」
 わたしは、鼻を鳴らした。係官の目が、大きく見開かれた。
「いいですか、ハンセンさん。辞書に載っていない言葉を吐くことと同様、公務員を馬鹿にすることも、国家を侮辱する行為ですぞ」
「ふんと鼻を鳴らしたからって、馬鹿にしたとは限らないだろう。ボディー・ランゲージを信用してはならないと、文化規格統制局のパンフレットにも書いてある」
 係官の顔が赤くなった。
「しかし――いいか、あんた――」
「わたしが言おうとしたのは、こういうことだ。まともな学童なら、知らない言葉の一つや二つ聞いたところで、成長を阻害されたりはしない。成人ならなおさらだ。遵法精神に富んだ善良な市民なら、無意味な言葉として無視するだろう。何も、国家と言語に対する信頼をぐらつかせることはない。そうだろう?」
「民衆は弱いものだ」
 ゆっくりと息を吐いて、激情から立ち直った係官は、公式に認可されたドグマを解説した。
「だから、国家が、害毒から守ってやらなければならない。そのために、われわれがいるのです。市民を、あなたのような犯罪者から守るためにね」
「ハパンサペナ」
 と、わたしは言って、肩を竦めた。
「何ですって?」
「ハパンサペナと言ったんだ。まあ、言ってみれば、ナンセンスという意味だよ」
「聞きましたよ」
 調査係官は、椅子から立ち上がり、うろうろと取調べ室を歩き回り始めた。
「あなたは、こともあろうに、文化規格統制局の調査官の前で、ガリダル語正式辞書に載っていない言葉を使用したんです。弁解の余地はありません。あなたは犯罪者です。無責任で、無分別で、危険で、邪悪で――」
 歩けば歩くほど、彼の声は高くなり、熱がこもって行く。わたしは、いつまでも、そんな台詞せりふを聞いている気にはなれなかった。早めに手を打って、こいつを黙らせなければ。
「誰が作る辞書だ」
 と、わたしは尋ねた。
「え?」
「誰が作る辞書だ、と聞いたんだ。あんたのお大事な、正式ガリダル語第三水準単語辞書第四十三版のことだよ」
「政府印刷局に決まっているでしょう。正式ガリダル語関係の辞書や、文法マニュアル、それに学童用教科書は、全て政府印刷局から発行されます」
「その通り。政府が、毎年発行しているんだ。ではなぜ、毎年改訂版を出す? 正式ガリダル語が、毎年変化しているからだ。いや、年にいっぺんどころか、毎週のように、辞書の正誤表や、追加語、削除語の広報が出されている。これは、どういうことだ?」
「政府機関が、毎年言語研究を続けているからです」
 と、係官は誇らしげに言った。
「意味論や表記法、解釈論理学なんかの研究です。その成果によって、正式ガリダル語は、究極の、完成された姿に近づいて行くんです」
「ハパンサペナ」
 と、わたしは言った。
「削除・追加リストを、よく見てみたのかね? わたしに言わせれば、政府機関が、てきに、単語の改廃をしているだけだ。ただ、権限を行使するために、権限を行使しているとしか思えない。これは、善良な市民や学童を混乱させていないと言えるだろうか。全く脈絡のない削除・追加リストは、毎年何千件にも及ぶんだぞ」
「何を言ってる。あんたは――」
「研究も科学もない。どこかのとんまな役人が、思いつきで言葉をいじくり回しているだけだ。先月の追加一覧を見たか? ニヤナットという言葉が出ていた。ニヤナットだぞ、ニヤナット。『完全に均衡した状態からの、遷移的かつゆるやかな移動を示す情緒的表現』という意味だそうだ。どこから、そんな言葉が出て来るんだね? 大体、どういう意味なんだ。ハパンサペナが人々を混乱させる、犯罪的な造語だと言うのなら、このニヤナットなど、まさに犯罪そのものだ。なぜ、役人にだけ、犯罪的な言葉を創る権限が与えられているのかね?」
「ハ――いや。ナンセンス」
 係官は、大声で叫び返し、机の所に戻って来て、またどすんと腰を下ろした。
「それは、くつというものです。あなたは、筋の通らない理屈で、自分の犯罪を正当化しようとしているだけだ。政府と、あなたのような犯罪者の行為を比較しても、何の意味もない」
 わたしは、ため息をついた。白衣を着て、次官補の記章をつけていても、知性のきらめきなどとはとんと無縁の、調査係官の顔を見ていると、心の底から、絶望感が込み上げて来る。
 こいつらには決してわからない。わかろうとはしないのだ。わたしが何を言っても、聞く耳を持たないだろう。わたしの言葉は、彼らの辞書にはないのだから。わたしは、ため息をついた。
「これ以上話していても、仕方がないようだな」
「罪を認めるんですね?」
 文化規格統制局調査係官は、うれしそうに言った。本当に、舌なめずりをしている。実にもって、カイナムラな男だ。カイナムラでハパンサペナで、その上、ハカレックな野郎だ。
「罪を認めるんじゃない」
 と、わたしは反論した。
ただし、行為は認める。さっきから言っている通りだ」
「同じことです」
 調査係官は、机の上に置いてあった電子メモランダムを叩いて、何か入力した。それから、机の裏にある隠しボタンを押した。
「スタイニー、書類を持って来てくれ」
 彼の言葉は、外のオフィスに伝わったに違いない。すぐに、標準よりも背の低い、陰気な顔をした男が、規格サイズのプラスティック・フォリオを持って入って来た。わたしは一瞬、彼に違法な言葉の一つか二つを聞かせてやりたいという衝動にかられた。カンナゼムとでも言ってやれば、彼の笑顔が見られるかも知れない。この言葉の意味は、いまだ考えていないけれど。随分前に気がついたことだが、善良な市民と言われる連中は、言語犯罪者に接すると、非常に嬉しそうな顔をするのだ。隠れた願望か? それとも、単なる優越感だろうか。
 だが、わたしがあれこれ考えているうちに、陰気な顔の男は、部屋を出て行ってしまった。 上司が嫌いなのだろう。彼が、ちらりと白衣の係官に向けた視線に、憎悪がほの見えていた。無理もない。調査係官などという連中は、部下の現業職員を、人間扱いしないことで知られている。だから、スタイニーと呼ばれた小男は、上司を憎んでいる。それにたぶん、こんな仕事も嫌いなのだ。これまた、無理もない。心のねじまがった出世主義者以外に、文化規格統制局の片棒を担ぎたがる人間はいない。自分たちの言論を、生活を監視し、統制する機関に対する、市民たちの意識的な、あるいは無意識の嫌悪を、わたしはよく知っていた。
「この書類にサインを」
 調査係官は、小男が持ってきたプラスティック・フォリオとヒートペンを、わたしの前に滑らせてよこした。
 わたしは、黙って書類に目を通した。そこには、わたしが故意に、辞書に載っていない言葉を口にしたこと、その行為を全面的に認めること、文化規格統制局が決定する刑に服すること、がしたためられていた。自白調書だ。
 言語犯罪者には、通常の裁判はない。罪を認めれば、それで終わりだ。書類にサインすると同時に、犯罪が確定する。あとは、統制局の決定に、従うしかない。
「刑は?」
 わたしは、書類にサインする前に、尋ねた。捕まったのだから、覚悟は決めていた。強制労働か、半年間の公共の場での発言禁止か、何かそのような、不愉快な刑に服することになるに違いない。
 相手の顔に広がった笑顔を見た途端、わたしは、まずいことになったと悟った。それは、残忍な、他の生き物をいたぶる猫の笑顔だった。
「最終権限は、わたしにはありませんから、はっきりしたことは申し上げられません」
 わたしは、口をつぐんで、待った。こいつが、これっきり黙っていられるはずがない。わたしをおびえさせるのは、この男の大いなる楽しみであるはずだ。
 しばしの沈黙のあと、案の定、係官は口を開いた。
「ただ、予測することはできます。あなたは読んでいないかもしれませんが、ほんの三日前の公報で、文化規格統制局は、悪質な言語犯罪者に対する取り締まりを強化すると発表しました。その公報の趣旨にかんがみ、あなたが再犯、いや再々々々犯であることを考慮すると――」
 彼は、含みを持たせて言葉を切った。このような話し方は、言語の明確化という、文化規格統制局の設立趣旨に反するはずだが、と、わたしは思った。だが、ここでたてくのは、やめておいた。
「十年間の発言禁止か?」
 かわりに、わたしは恐る恐る尋ねた。そいつは、少しばかり厳しいことになる。
 係官は、ますます嬉しそうな顔になった。
「あなた、公報を読んでいないんですか、ハンセンさん」
「読んでないね」
 わたしは、いらいらしながら答えた。彼の術中にはまってしまったことがいまいましい。わたしは、少々恐ろしくなり始めていた。まさか、いくら何でも、連中が、言語犯罪者に対して、極刑である死刑を適用するはずはない。事態は、まだそこまで行ってはいないはずだ。しかし、狂信的な官僚どもにかかったら――。
「残念ですな。もちろん、それであなたの罪が軽くなるわけでもないが――あなたは多分、この刑の適用第一号ということになるでしょう」
「どんな刑の?」
「確実というわけではないんですよ」
 と、ハパンサペナ野郎は念を押した。
「局長は、どこかに、情状酌量の余地を見つけるかも知れませんし、市民保護運動に理解を示そうとするかもしれない。誰かが陳情してくれないとも限りませんし、あるいは――」
 わたしは、ヒートペンを、机に叩きつけた。
「じらすのはやめてくれ。モットーはどうした? 例の、言語は明瞭、簡潔に、とかいうやつは」
「明瞭、簡潔、正確、ですよ」
係官の声は低く、ざらついていた。まだ怒っている。危険だ。極めて危険だ。わたしは、境界線を越してしまったのかも知れない。
「あんたの刑はね」
 係官の声が、急に高くなった。わたしは、心底ぞっとした。こういう連中は、どんな無茶もやりかねない。便宜的に与えられている権限を、生来のものと勘違いしているのだ。
「あんたの刑は、ガリダル語の全面使用禁止だ。死ぬまで。永久に。正式辞書を無視するような奴に、ガリダル語を使う資格はない」
 わたしは息をんだ。正式言語はガリダル語だけだ。仮に知っている者がいたとしても、それ以外の言語を使えば、自動的に犯罪者のレッテルを貼られることになる。そういう社会の中で、ガリダル語の使用を禁止されるということは、あらゆるコミュニケーションの手段を断たれるということだ。ハンディキャップを負った人々の中には、書くことも、話すこともできない人もいる。だが、彼らは何らかの手段で、人とコミュニケートすることを学ぶ。点字で、あるいは光で、振動で、風で、ポイント刺激で、音で、さまざまな感覚支援機器によって。不十分ではあるが、人類は、そういうハンディキャップを軽減すべく、たゆまぬ努力を重ねて来た。
 だが、そういった機器の全ては、統一言語であるガリダル語を基礎にしており、それぞれ体系化、マニュアル化されている。そういったものを含めたコミュニケーション体系が、広義のガリダル語なのだ。それを、全て取り上げられてしまったら――。
 ハパンサペナ、と、わたしは思った。まだ、最後の手段が残っている。法律を逆手にとって、この野郎をギュウと言わせてやれるかも知れない手段が――。だが、係官の告げた刑罰は、わたしを打ちのめした。わたしの声は、情けなく震え始めた。
「まさか。そんなひどいことが、できるわけはない」
「いや、できます。ちゃんと、公報に出ている。それに、あなたはまだ、完全には理解していないと思いますがね、ハンセンさん」
「何を?」
「あなたの味わうであろう孤独を、ですよ」
 と、相手は落ち着き払って答えた。冷たい、鈍重そうな目で、わたしを睨み据えている。
「他人と、一切コミュニケートできないということだろう? ひょっとすると、触覚まで、取り上げる気かね。マニュアルの新しい版には、感覚の部というのが入っているとか」
「入っています。しかし、わたしが言いたいのは、そんなことではありません。あなたは、他人とのコミュニケートとおっしゃいましたね。どういたしまして。あなたは、ガリダル語による自分とのコミュニケートも禁じられるのですよ。脳髄言語ロジック閉鎖施術を使えば、そういった措置が可能です」
 わたしの頭の中に、彼の言語が染み込むまでには、しばらく時間がかかった。
 それから、わたしは理解した。大いなる恐怖とともに。
 思考。人間の思考は、最初に覚えた言語を基礎にして組み立てられる。
 われわれがものを考える時、口に出すかどうかは別として、常に言語を使っている。『これからどうしよう』と、あなたが考える時、『これから』という、時間指示単語、『どう』という、不定形態指示形容単語、『しよう』という、意志的動作予測単語が、あなたの脳の中で積み重ねられる。それは全てガリダル語だ。それが、あなたの、『思考』なのだ。
 その局面でも、ガリダル語の使用を禁じられたら、あなたはものを考えることはできない。あなたは、思考を取り上げられるのだ。物心ついた時、というのは、イメージのこんとんに、体系だった意味を付与し始めた時、という意味だ。通常、その意味付与を仲介するのは、広義の母国語である。係官が、自分とのコミュニケーションを禁じられると言ったのは、まさにそういう意味なのだ。
 わたしはせんりつした。同時に激怒した。こいつは、詐欺のようなものだ。わたしは、そこまで・・・・覚悟していたわけではない。出たばかりの公報。即座に発効する法律。だまし打ちだ。それ以外のなにものでもない。
 そこまでして、言語統制を守らせたいのか。国民を保護するという名目のもとに、お仕着せの言語体系を強制したいのか。
「ハパンサペナ」
 と、わたしは叫び、ヒートペンをもう一度拾い上げて、壁に投げつけた。本当は、係官の顔に叩きつけたかったのだが、わたしは野蛮人でも、乱暴者でもない。わたしにできるのは、せいぜいペンを壁に投げつけ、だだっ子のように叫ぶことだけだった。
「ハパンサペナ!」
「抵抗しても無駄ですよ」
 と、係官は冷静に言い、わざわざ立ち上がって、ヒートペンを拾いに行った。
「サインしなければ、査問にかけられるだけです。査問委員会が結論を出せば、結局同じことになる。いや、多分、もっとずっと悪いことに。査問委員会は、改悛の情のない犯罪者には厳しいですからね」
「カイナムラ! その何とか委員会や、あんたたち役人たちこそ、犯罪者だ。わからないのか? あんたたちが守ると言ってる市民たちは、寝ごとで、あるいは言い間違いででも、変なことを口走りはしないかと、おびえ切っている。そんなことになったら、妻が夫を、夫が妻を密告することになるのは、目に見えているからだ。いつ・・いかなる時でも・・・・・・・辞書にない・・・・・言葉を使ってはならない・・・・・・・・・・・。そして、違法な言葉を聞き流せば自分も共犯者ということになるんだからな。これを逃れられるのは、責任能力のない幼児ぐらいだ。こんなのが、正常と言えるか?
 その上、新しい刑罰まで作りやがる。市民たちは、ますます疑心暗鬼に、無口になるぞ。それが、あんたたちの望みか?」
「黙れ」
 調査係官は、紫色の顔で叫び返してきた。
「御託や自己弁護は、たいがいにするがいい。あんたは、罪を逃れることはできない。査問委員会は、ポリグラフを使う権限を持っている。わたしの証言もあるから、あんたの犯罪は、必ず暴き出されるさ。今のうちにサインしておいたほうが、お互いに面倒がない。そうは思いませんか、ハンセンさん?」
 誰が思うものか、と、わたしは考えた。だが、こいつに言っても無駄というものだ。
 だから、わたしは口を閉じ、椅子の上でふんぞり返った。悔しくて、涙が出そうだった。
 自分の声帯すら、意のままにならないとしたら、この国のどこに自由があると言うのだ?
 いや、こういった連中に牛耳らせておく限り、そのうち『自由』という言葉すら、辞書か
ら抹消されかねない。あいまいで不正確で、市民に誤解を与える可能性がある、という理由で。
 係官は、ヒートペンを、わたしの目の前に置いた。わたしは、それを払いのけた。ペンは、規格机の、滑らかなプラスティックの表面を転がり、プラタイルの床に落ちて、硬い音を立てた。
「困ったものだ」
 白衣の男は、わざとらしく頭を振り、言語マニュアルの表面をでた。
「それでは、あなたを拘束しなければなりません。わたしも、面倒は避けたいと思っていたんですがね。やむを得ません。あなたがそうさせたんですよ、ハンセンさん」
 係官は、もったいぶった仕草で、机の裏の隠しボタンを押した。
「スタイニー!」
背の低い、陰気な顔の男が再登場した。彼は、わたしを見る前に、調査官に視線を送った。相変わらず、好意とは縁遠い目つきだ。
「こいつを拘束しろ。凶悪犯だ」
 調査係官の言葉に、小男は、やっとわたしのほうを見た。
 残念ながら、その視線も、好意的とは言えなかった。わたしは、彼の仕事を増やしたのだ。
 わたしは、少しでもいい印象を与えようと、おとなしく両手を差し出した。この男には、ある役割を演じてもらわなければならない。言語の全面使用禁止――思考停止に極めて近い刑から、何とか逃れようと思えば――。
 スタイニーは、軽いプラスティックの手錠を、わたしの両手首にかけた。わたしは迷った末、ウィンクをして見せたが、何の反応も得られなかった。
「第三独居拘束室だ」
 と、次官補がスタイニーに言った。小気味よさそうな奴の口調からして、ろくなところではないのだろう、という感想を、わたしは抱いた。
 スタイニーが、わたしのわき腹を、乱暴にこづいた。
「わたしが何をしたと言うんだ、この木端こっぱ役人!」
 と、わたしは芝居がかった叫び声を上げた。スタイニーに誤解されないように、視線はまっすぐ、次官補に向けておいた。
「何だと?」
「木端役人と言ったんだ、このとうへんぼく
 わたしは、横目でスタイニーの表情の変化をうかがった。目の輝きが、少し変化したと思ったが、あるいは勘違いかも知れない。
「公僕の分際で、権力をかさに着やがって。わたしが何をしたと言うんだ。拘束だと? おおかた、わたしの妻に横恋慕でもしてるんだろう、この野郎め」
 わたしに妻はいない。だが、スタイニーが、そのことを知っている可能性はなかった。
「黙れ」
 部下の前で侮辱されて、次官補の顔が赤くなった。当惑よりも、怒りが勝っている。今日の尋問では、だいぶ感情を抑えていたはずだから、当然かも知れない。
「根も葉もないことを言うな。これ以上、本官を侮辱すると――」
「どっちが根も葉もないことだ」
 わたしは叫び返した。ここが踏ん張りどころだ。
「そっちこそ、根も葉もない事実に基づいて、市民を拘束しようとしてるじゃないか。一体、このわたしが何をやったと言うんだ」
 次官補の顔が、赤と紫のまだらになった。
「このごに及んで――見苦しいぞ。自分で認めたじゃないか。お前は、重罪を犯した。故意に、辞書にない言葉を使ったんだ。今更しらばくれて、通るとでも思っているのか!」
 わたしはまた、小男のほうを窺った。
 スタイニーは、り始めたわたしをどうしていいかわからず、所在なげに立ち尽くしている。
「辞書にない言葉だと?」
 わたしは、馬鹿にするように鼻を鳴らしてやった。
「何の話だ? わたしは、辞書にない言葉など、口にした覚えはない」
 わたしは、一瞬、次官補の表情を値踏みした。それから、思い切って、つけ加えた。
「わたしは、ただ、ハパンチレックと言っただけだ」
「馬鹿な!」
 わたしの狙いは的中した。
 ろくでもない犯罪者からの、不条理な否認にあって、次官補は完全に逆上していた。彼は一瞬、小男の部下の存在を忘れた。その結果、致命的な発言を行なってしまったのだ。
「ハパンチレックじゃない。あんたが言ったのは、ハパンサペナという言葉だ!」
 言葉が口から出た瞬間、係官は自分のミスに気づいた。
 赤と紫にいろどられていた顔から、見る見るうちに血のが引いて行く。
「聞いたか?」
 と、わたしはスタイニーのほうを向いて声をかけた。
 スタイニーは、黙ってうなずいた。
 小男の大きな目は、ぎらぎらした光を放っている。彼は今、虫の好かない上司に反抗するチャンスを与えられたのだ。わたしは、その目を見つめながら、必死でたたみかけた。
「この男、文化規格統制局の調査係官で、おまけに次官補という要職にありながら、今、わけのわからない言葉を口走ったようだぞ」
 スタイニーは、かすかに、しかし、はっきりと頷いた。
「わたしは――わたしは――」
 気の毒なほどうろたえて、次官補は、両手をみ合わせた。
「わたしは、そんなことは言っていない――」
 いつ・・いかなる時でも・・・・・・・辞書にない・・・・・言葉を使ってはならない・・・・・・・・・・・。さっきも説明したように、条文の規定は、四角四面の強行規定だ。責任能力のある成人に関する限り、例外はない。建前上、他ならぬ文化規格統制局の調査係官であっても、そういう言葉を口にしてはならないことになっているのだ。
 だからこそ、わたしの犯罪記録に、違反用語を記録することができないのだし、全ての取調べ室は、厳重に防音措置が施されている。被疑者だけでなく、取調べ担当官の言葉も締め出すように。
「言ってない?」
 わたしは、さんざん問い詰められた仕返しをしてやった。心底から義憤を覚えているように、次官補を責め立てたのだ。
「よく、そんなことを言えるもんだな。二人も証人がいるというのに」
 わたしは、スタイニーを味方につけるために、同意を求める視線を、小男に送った。スタイニーの顔には、ぼんやりとした喜びの表情が浮かんでいた。
「さっき、わたしたちが聞いた言葉は、確かに辞書に載っていないものだったぞ。わたしたちは、ちゃんと覚えている」
 次官補は、ものすごい目つきで、わたしを睨んだ。わなにかけられたと気づいたのだが、どうすることもできない。いくら何でも、使用された禁止用語を口にせずに、被疑者の取調べなどできるわけがない。だが、彼がそう弁解すれば、命がけで守るべき、当の金科玉条に楯突くことになる。
「わたしは――わたしは、辞書にない言葉など、口にしたことがない。何かの間違いだ」
 わたしは、手錠をめられた両手を振り上げて、係官を挑発した。
「では、マニュアルに当たって見ようじゃないか。さっきの言葉が、ちゃんと辞書の部に載っているかどうか――」
 係官は、怒るとともに、怯えてもいた。強大な権力を持つ官僚部門には、必ず査問部というものがあって、常に仲間の不正行為を監視している。もし、今度のことが表ざたになったりすれば、次官補の今後の運命は暗い。刑に服することはないにしても、スタイニーと同じところまで降格されかねないし、場合によっては、統制局から放り出されることも考えられる。エリートコースから外れることだけは、絶対に間違いがない。
「待て」
 と、係官は叫んだ。
「これはきっと、誤解だ。ちょっと待っていてくれ」
 言い終わるが早いか、彼は、風のように取調べ室から飛び出して行った。
 取り残されたわたしとスタイニーは、黙って顔を見合わせた。わたしは、片目をつぶってみせたが、スタイニーは、ウィンクを返さなかった。
 彼の顔には、期待とあきらめの表情か、半々に浮かんでいた。

 わたしは、声に皮肉を込めて、小男に言ってやった。
「確かに、あいつが言うように、誤解だったかも知れないね。そう思わないかい?」
 次官補が戻って来たのは、三十分もってからだった。スタイニーは明らかに、仕事に戻りたがっていたが、わたしをどうすればいいか、わからないみたいだった。そこでわたしたちは、向かい合って椅子に座り、黙ってにらめっこをしながら、調査係官が戻るのを待っていたのだ。
「お待たせしました」
 と、係官は、部屋の入口で言った。
 すっかり、冷静さを取り戻して、丁寧な口調に戻っている。これはいい傾向だ、と、わたしは思った。
 次官補は規格フォームのプラスティック・フォリオを持っていた。
 彼は、スタイニーを無視して、それを、わたしの前に突き出した。
 わたしは、声に出して、公文書の標題を読んだ。
「正式ガリダル語第三水準単語辞書項目追加告知一六五七号」
 標題を聞いた途端、スタイニーの顔に、うんざりしたような表情があらわれるのを、わたしは見逃さなかった。わたしは、視線を、立ったままの次官補に移した。
「全てが誤解だったということです」
 感情を押し殺した、仮面のように平静な顔で、わが調査係官は言った。
「内容を見て下さい」
わたしは見た。見なくてもわかっていた。発行機からプリントアウトされたばかりの公文書の下のほうには、こう印刷されていたのだ。
『単語:「ハパンサペナ」 分類:形容動詞 意味:「無意味な」』
「ほほう」
 と、わたしは言った。
 微かに、本当に微かに顔を赤らめながら、次官補は説明した。
「今日――ええと、今朝、この単語は、辞書に追加されていました。従って、使っても問題ないのです。国民は誰でも、この言葉を使うことができます。あなたでも、わたしでもね。あなたに対する告発自体、誤解に基づくものでした。公式に謝罪させて頂きます」
 スタイニーが、うなり声を上げて、椅子から立ち上がった。彼にはわかっていた。彼の上司が、やった・・・のだ。自分の犯罪・・を正当化するために、全ての権限とコネを使って、単語追加告知を発行させた。発言を取り消すことができないと見て、法律のほうを、ねじまげたというわけだった。絶対権力は、絶対に腐敗する、と、誰かが言っていたっけ。
「はずして頂けるかな」
 わたしが両手を突き出すと、スタイニーは、上司のほうをちらりと見た。調査係官は、軽く頷いた。小男は、黙って電子キイを叩き、ロックを解除してくれた。プラスティックの手錠が、スタイニーのポケットに納まり、わたしの両手は自由になった。
 背中を丸めて出て行くスタイニーに、わたしは心の中で声をかけた。くよくよするなよ、いいことだってあるさ。今度のへまを知られたからには、お前さんのボスだって、そうそうお前さんを粗略に扱えなくなるはずだ。
 わたしは、ゆっくりと振り返り、調査係官の顔を見た。例の仮面の裏側から、少しだけ彼の感情が覗けた。わたしに対する憎悪だ。
 プライドを傷つけられ、獲物を逃した官僚の怒り。生意気な市民に対する、殺してもあきたらないぐらいの憎悪。
「わたしは、無罪放免ということかな?」
 次官補は、机の上から、わたしの自白調書を取り上げ、くしゃくしゃに丸めてから、床のディスポーザー・スロットに投げ込んだ。
「そういうことになりますな、ハンセンさん」
 わたしは肩を竦め、座りにくい椅子から立ち上がった。
「帰っていいんだね?」
「もちろん」
 わたしは、開けっ放しのドアに向かって歩き出した。
「ハンセンさん」
 背中からしゃがれた声がかかった。わたしは、振り返って、もう一度標準体型の調査係官と対面した。
「何か?」
「いつも、こうなるとは限りませんよ。保証してあげます。次は、間違いなく、ガリダル語の全面使用禁止だ」
 次官補の目は、抑えた怒りにくすぶっていた。
 はったりを言っているとは思わなかった。彼の言う通りだろう。こいつらは本気だ。今度から、本気でわたしを狙って来る。
「われわれは、言語犯罪者を厳罰に処します。正式ガリダル語に反抗するものは、社会の敵です。絶対に許さない」
わたしは、じっと彼を睨みつけた。社会の敵。厳罰に処す。何とでも言える。ルールを作っているのは、彼らなのだから。
 わたしは、彼が赤面するまで、睨みつけておくつもりだった。だが、無駄だった。次官補は、赤面もしなければ、視線を逸しもしなかった。
 こいつは、自分の言ったことを信じ切っている。市民を守るとかいうたわごとを。
 わたしは、彼に笑いかけた。
 それから、取調べ室の外にまで響き渡るほどの大声で、今は合法的になった言葉を口にした。
「ハパンサペナ」
 と。

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