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叶わないことを知りながら

日曜日になるたびの習慣に、アイロンがけが加わった。平日5日に職場でつかうハンカチを準備するためだ。

このましかくの布は、もらいものが多いので、1枚ずつ「私にこの柄を選んでくれたんだなあ」と思いながら皺を伸ばす。

昼ごはんの際に、机に敷いている手ぬぐいは、乾燥機にかけると中尾彬が首に巻いてる「ねじねじ」のようになる。棒状に細く皺が寄ったそれを苦笑しながら伸ばして、ジュっと重たいアイロンをあててゆく。


私は2020年4月から、派遣に出ている。インフラ系の事務の繁忙期を手伝うための、短期の手伝い要員として集められた10人のうちのひとりだ。

3月に絵の仕事のひとつがコロナの影響でご破算になったとき、まっさきに思い浮かべたのは、東日本大震災のとき、電車の中吊りがひとつもなくなった風景だった。あの頃、週末あちこちでやっていたイベントがなくなり、旅行に行くことが困難になり、そうなると広告に直結したイラストの仕事は、ぱったりとなくなった。うちの家にいる人間は2人ともが広告にまつわる仕事をしている。これは、まずいぞ。

何があろうと、猫を養えなくなるようなことがあってはならない。そう思ってすぐに派遣会社に登録し、何が起こっても継続するであろう、インフラの会社を選んで応募した。


はじまって一週間は、事務のいろはを覚えるだけでやっとだった。じぶんの物覚えの悪さと、要領の悪さにへこみながら必死にかじりついた。ノートにメモを取るスピードが火を吹きそうだ。かわいい字でなんて書いてらんねえ。

走り書きの殴り書きのぼろぼろの文字で、メモだけは死んでもとって、指摘された間違いは、二度としないようにノートに記録した。ひとつひとつの作業のラップタイムを取っていたら、だんだん仕事がするするとなめらかに進むようになった。肩で息をするような無惨な仕事ぶりだったけれど、なんとか付いていけそうだ。


同僚の人たちは全員女性で、ほとんど誰とも会話をしていない。でも全員のことがとても好きだ。毎日会えると、同級生に会ったみたいなほっとした気持ちになる。こんなときでなかったら、とっくにしていただろう雑談が、お互いの遠慮で割愛されている。でも滲み零れるすこしの挨拶や会釈だけに、泣けてしまいそうな親しみを感じている。ホチキスをタイミングよく渡される優しさとか、コピー機の前でのささやかな気遣いで、空気があたたかくほどけていく。


1人の女性の仕事姿がとても素敵だった。いつも背筋をのばして、机の上には最低限の物しか出さず、静謐でいて作業がとても早い。書類は、紙と紙の間を並行に配置するようにすると、美しく作業できることをはじめて知った。師匠のすがたを見て盗む弟子のように、こっそりとまねをした。


ある日別な同僚に「いつも姿勢がいいですよね」と言われ、着かけていたトレンチコートを取り落としそうになった。「バレエでも習っていたのかと」と言われているのは確かにわたしで、かっと顔があつくなった。

いえ、そんな。わたし、どうしようもない程の猫背なんで……。滅茶苦茶な自虐がこぼれおちて、ああこんなことを言うのはもうやめようと思っていたのに…ときれぎれの気持ちになる。だけど、わたしが真似した付け焼き刃の仕草を目にとめてくれた人がいたと思うと、申し訳ないような、照れくさいような、それでもやっぱりうれしかった。

話しかけてくれたひとは、可憐な前さがりのボブで、すんなりとした髪質にとてもお似合いだった。そのことをいつも思って口元にくゆらせていたのに、動揺の余り言い出すことができなかった。


生理になった夜、地響きみたいに腹が痛み、これは駄目だ。明日休もう。と決めた。やすむ。やすむぞ。と決めていたのに、朝目が覚めたときに同僚たちの姿が目にうかんで、素直に会いたいなと思ってしまった。イブを2錠飲み干して電車に乗り、気がつけばいつもの机の前でパスワードを入力していた。彼女たちのことの何もかもを知らないのに、緊張感のあるこのときを同じ場所で過ごしているそれだけで、近しく感じてしまってる。

あと一緒にいられるのは、一ヶ月もない。このまま皆の素性をしらないまま、私たちはきっと離ればなれになるだろう。

叶わないことを知りながら、彼女たちと天気のいい日にどこかでピクニックでもできたらどんな風だったかな。なんて思ってしまう。がやがやした大衆居酒屋に団子みたいに座ってもみたかった。「直箸で失礼します」「いいよお、水くさい水くさい」なんて笑って同じ料理をつついてみたかった。そのぜんぶが出来ないことをほの悲しく思いながら、今日も私はほとんど誰とも話さなかった。でも、コピー機の紙詰まりを直したとき、同僚たちは胸の前でちいさな拍手をしてくれた。


いつか嘘みたいに何でもない日常がかえってきて、あのとき全然しゃべらなかったねえ。ごはんみんな1人で食べてたよね。電車乗るの毎日やだったねえ。こわかったね。って肩を叩き合って気安く話せる日が来たら。そんな日が来たらいいのにな。

illustration:イタガキユウスケ

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