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香港で短歌をつくりたくなった【本物とつくりものについて考えていること】

2023年の年末から2024年の年始にかけて、香港・マカオに行ってきた。一人旅行だ。

成田発の飛行機に乗る。昨今のブームもあって、ぼくは短歌に興味をもちはじめていた。インターネットが使えない手持ち無沙汰な機内は、ひとりで短歌をつくるのにうってつけな場所に思えた。

スマホのメモを開き、ことばを打ちこんでいく。香港国際空港に着くまでに、7、8首できた。年末という時間性や機内という場所性を意識した短歌もあったが、無理にテーマを設けず、自由につくった。

短歌づくりは楽しかった。しかも、思いのほか悪くないものがつくれた気がした。旅行気分でハイになっていたのもあるかもしれない。さらにぼくはもともと、自分がつくるものに対する評価が甘い。ただ、せっかくなら香港に降り立ってからも、もう少しつくってみようという気分になった。

その旅行は、ノープランな旅だった。ひとりだから、どこに行ってもいいし、なにを見てもいい。自由といえば聞こえはいいが、要は見通しがないのだ。そこに「短歌をつくる」という、ある種の指針ができた。

とはいえ、短歌のために行く場所を選ぶわけではない。思うままに移動しつつ、すきなときに勝手につくるだけだ。結局見通しはないままなのかもしれないが、旅行に一貫した意味をもたせることができて、ぼくは満足していた。

香港・マカオで短歌をつくってから、もうしばらく時間が経ってしまった。でも、時事を扱っているものではないし、見てくれる人に時間は関係ないから、せっかくなので公開したいと思う。数が増えてしまったが、自分にとって悪くないものだけを残した。また、一部は日本に戻ってから推敲している。




年の瀬の総決算と大掃除 青風船を打つ拳闘家

鯨類の子供を撫でて育てをり 肥大する愛の見せし夢よ

とこしえの街の再生せし地獄 地獄の先に地獄やあらむ

烏丸通りあふぐ風明け方に地下通路より白狐出で来て

両の眼に輝く星をかぞふため一時停止せしアニメーション

ライドオンする五秒前 この先は全部ルールが変わりますわよ

双子座通り夢通り歩みをり 花火が鳴つて靴を脱ぎたり

プリンをつくるアルバイトの天命 ゴム手袋で愛を詰めつつ

首都に住む独身者たちの花束 花園淡し師走忙し

特急で行かむポケットは明日のため空けておきたしやや街遠し

願ひ叶ふ優しき人叶はぬ優しき人 みな打上花火

ことにつけ準備不足の一生で人をあげつらふは馬鹿狸

寝室に一匹の蜘蛛現れて逃がさざりけり青の夕闇

集まりていつか善き日になりしかば昨日のこと全て「からす」の「か」

ひとりで映画館的な場所に入り映画的なものを観て笑ふ

怪物は此方の邑でも生まるらし 怯えゐる我の今日の寝床

片隅で密談をする子供らの花の飾りがよく似合ひをり

行く先のあまりに暗き見えし日にフードコートで食ひたくて麺

アクリルの教室 架空の歴史をつらりと語る偽教師たち

ショッピングモールではハイブランドの幸せ頭痛薬の幸せ

定職に就かざりければ朝の灰 排水溝に靉嘔の色

ひとりでに「魔女の宅急便」観つつ若ききみにやらむ夢箒

伽藍堂脇に寄せたる寺務所より釈迦放り出し鳴る黒電話

つい「今日は記念日」と書く日記帳失くして過ぎしいつの記念日

たまさかのゴールドラッシュも終はりて砂遊びする大人の遊び

エルメスとグッチとルイヴィトンあたり固めてできた家の住み方

ブルジョワも一文無しも平等に世を変へてゆく机上の賭場に

みづからの息遣い知りゆきながら誰に会ひたくなる宵ばかり

きみの声が聞きたいでも鳴かぬなら殺してしまへほら二面性

四面より楚歌を歌ひし聖歌隊 怖いと綺麗が入り混ぢる声

嫌気さすことばで先は見えねど走れ みな可変である救ひと

本物も偽物も見分けず良くて晴れてゐるテーマパーク日和

今日くらい楽もさせてよ良いでせう? ウーバーイーツ果ての晩餐

少年の眼鏡から出でよドラゴン 功夫格闘眼鏡(カンフーファイトアズグラスイズ)

いつぺんは堪へてみよういつぺんに聞く筆記具の音 行間に

きみの振り見て我が振りを直すのは近くにゐるふたりの特権

この映画まだ終わらねど抜け出して永遠ほどに謝りたき日

演ずるは優しさ嘘吐くは狡さ 溶けてゆく境界の透明



ここ数年、「つくりもの」から感じる慰めについて考えている。

つくりものというのは、ここでは「意図的に設えられたもの」、「本物を模倣したまがいもの」(専門的な言葉でいえば「キッチュ」)のことを意味している。

なにをもってつくりものと呼ぶかは、議論のあるところだと思うが、ぼくは広く大衆に提供するために用意されたもの(多くは大量生産される)を、広義のつくりものとして捉えている。

このつくりものは、長らくひとびとから軽んじられ、取るに足らないものとされてきた。本物の一部を切り取って分かりやすくパッケージ化したようなつくりものは、本質的に本物に劣るから、軽視されるのも仕方のないことだ。

でも、首都東京から離れた地方都市で生まれ育ったぼくは、これまでの人生において、文化的には本物ではなく、もっぱらつくりもののほうに慣れ親しんできた。

日曜日、朝のアニメを見ながら、おもちゃのCMに心躍らせ、ショッピングセンターに行き、フードコートで昼食を食べ、キャラクターの食玩を買ってもらった子どものころの記憶。

典型的な郊外の風景だが、首都圏に住んでいる人でも、同世代なら似たような幼少期をすごした人が多いと思う。21世紀のぼくたちは、どこでも似たように暮らしている。

子どもに限らず、大人になってもぼくたちの周りはつくりものだらけだ。Netflixでアクション映画を観て、アプリで流行りのマンガを追い、サブスクで音楽をあさる。あるいは旅行雑誌で紹介された定番の観光地をめぐり、お土産のキーチェーンを買い、清潔なビジネスホテルに泊まる。

ぼくたちの生活にはつくりものが溢れている。

つくりものに囲まれながら暮らす日々。「典型的」と形容される、取るに足らない日常生活。

でも、そのような紋切り型の描写は、社会学者がするように、俯瞰でぼくたちの暮らしを眺めたときのものだ。その体験は、ぼくたちそれぞれの一人称で見ると、凡庸ではない固有のものになる。

自分の体験を、取るに足らないと切り捨てることはできない。設られたつくりものは、凡庸で画一化されたものだけれども、ぼくたちの生活のなかでは、結果として、替えのきかない絶対的なものとして立ちあらわれる。

ぼくたちはそんなつくりものを、どう捉えるべきなんだろうか。ぼくはこれまでの凡庸な自身の生活を振り返りながら、そんなことばかり考えていた。

ぼくたちが大人になればなるほど、その目から見るつくりものは陳腐に映るだろう。幼い子どものときには夢の世界のように感じたテーマパークも、年をかさねると偽物らしい部分が目についてくる。流行りのドラマを見ても、作り手の意図が気になりだし、対象を都合よく取り扱う欺瞞を感じとるかもしれない。

さらに、つくりものの大きな問題点は、広がりがないことだ。

たとえば「本物」の絵画作品であれば、それは美術の歴史に依拠している。(歴史に依拠するからこそ本物になるともいえる)それはつまり、その作品を通して、広大な美術史の世界をのぞくことができるということだ。本物同士はつながりあっているから、別の本物へとぼくたちを連れていってくれる。

さらにいえば、ぼくたちは本物を通して、自分の外の世界に触れている。本物はぼくたちを喜ばせるためにつくられたようなものではない。それらは、ただ「そこにある」。本物は決して、ぼくたちのために調整されたりはしていないから、本物に接するとき、ぼくたちは自分自身をを本物に合わせることになる。ぼくたちが本物に合わせていくとき、ぼくたちの意識は外に向く。そのままの自分では理解できないもの、制御できないものに出会うとき、ぼくたちは変化し、気づきを得る。

だけど、つくりものはそうはいかない。文化的な意味づけがなされていないつくりものは、ぼくたちをどこにも連れていってはくれない。外の世界にも触れさせてくれない。ありていにいえば、つくりものは、その場の快楽をもたらすためにつくられている。かつての教養人がこぞってつくりものに否定的な態度をとっていたのも、こんな理由によるだろう。

このように、つくりものを俯瞰で捉えると、くだらない面ばかりが目につく。でもその一方で、ぼくたちは、つくりものに惹かれつづけてもいる。それは、ただ子どものころの思い出が忘れられないというだけでない。大人になってからもなお、つくりもののくだらなさを知りながら、ぼくたちはつくりものを求めている。

ぼくたちはどうしてつくりものだらけの環境に居座ってしまうのか。それは、つくりものが「安全」だからだと、ぼくは思う。

本物は、実はいつも危険をはらんでいる。本物の絵画は、別の本物へとぼくたちを連れていってくれると言った。でもそれはつまり、否応なく「連れていってしまう」ということでもある。本物は、ぼくたちのいまいる場所が全体のごく一部にすぎないことをあばき、別の世界を示す。あるいは、いままさに僕たちが立つその足場を崩し、別の世界に向かうことを強いる。精神的、もしくは物理的に、ぼくたちを変化させてしまうからこそ、本物には価値がある。変化が価値の源泉だから、本物に触れるのにはコストがかかるし、リスクもある。

つくりものは、そんな本物から危険性を取りはらってできたものだ。キャラクターのぬいぐるみは、ぼくたちをどこにも連れていったりしない。いまいる場所にいるまま、触れることを認めてくれる。あるいは物理的な意味で、自然の脅威に満ちた場所を旅するのは死と隣り合わせだけれど、ディズニーランドのジャングルクルーズで人は傷つかない。人の手によって安全な仕組みをつくり、みんなが楽しめるエンターテインメントに仕立てあげている。

ぼくたちは本物を求めている。だけど本物を恐れている。

ぼくたちはつくりものに退屈している。だけどつくりものを求めている。

ぼくの香港・マカオ旅行は、いわゆるバックパッカーというようなスタイルだった。リュックサックひとつで気ままに現地をめぐる。ひとりだし、できるだけお金をかけずにいろいろな体験をしたいと思ってのことだった。

一般的に、バックパッカーというのは、観光地を見るだけでなく、地元の住人と出会うことにも興味があるという。ぼくもその例に漏れず、せっかくなら現地の暮らしに触れたいと思った。観光客のために用意されたものではない、本物の暮らしだ。

でもぼくは一方で、香港・マカオでつくりものを探してもいた。そして、探さずとも目に入ることになった。香港もマカオも、つくりものにあふれた場所だったからだ。香港は、資本主義を体現する都市として、安全な刺激を求める人たちの欲望を満たすため、発展を遂げていた。街にはいたるところにショッピングモールがあり、国際的なブランドの商品が並んでいる。マカオでは、埋立地に巨大なカジノホテルがそびえたち、フードコートで馴染みの料理が提供されていた。

ぼくは、香港・マカオでつくりものを感じた。イオンのゲームコーナー、ドン・キホーテのお惣菜、セブンイレブンのお菓子。かなり多くの日本の企業や製品が入りこんでおり、ぼくが見知った景色とほど遠くないものがそこにはあった。日本国内だけでなく、国外までも、つくりものによって画一化されている。

「本物」を求めるバックパッカーにとっては、嘆かわしい光景かもしれない。でもそれらは、いまの香港・マカオをたしかに構成する要素だ。アウトサイダーのために用意された幻想ではなく、住人たちも、ぼくたち観光客と同じように、ショッピングセンターに行くし、フードコートで食事を楽しむ。そして、それぞれの育ってきた環境に即した固有の、つくりものとの触れ合いがある。

ぼくたちも彼らと同じように、つくりものを体験しているのなら、旅先でつくりものに触れる体験は、はたして「本物ではない」と一蹴されるようなものなのだろうか。旅先でのつくりものとの触れ合いは、決して虚構ではなく、ぼくたちの眼前にある一個の「もの」とのリアルな触れ合いだ。本物もつくりものも、どちらもぼくたちの現実の一部だ。ぼくはつくりものを通して、現地での生活に思いを馳せている。

つくりものはこれまで、価値の低いものと見なされてきた。俯瞰で考えれば、それは正しい。だけどぼくたちは、つくりものに囲まれながら生きている。だから、そこに価値がないとされるのは、寂しいし、つらい。つくりものに価値がないなら、つくりものに囲まれた自分の人生そのものも、無価値のように思えてくる。「つくりもの」の烙印を押されることで、ぼくたちは、自身の凡庸さを突きつけられる。

ぼくたちが、本物を求めだすのは、こんなふうに、つくりものの空虚さに不安を感じるからだ。本物の旅、本物の作品、本物の関係、本物の体験。本物は価値があると、だれもが信じている。だから本物に囲まれることで、ぼくたちは、自分の価値も高まっていくような感覚になる。

だけど、繰り返すように、本物は危険なものだ。本物に囲まれた生活は、絶えずいまここにいるぼくたちの足元をぐらつかせる。

本物はそのもの自体に価値があるのではない。本物によって、ぼくたちが別の場所にいけるからこそ、本物には価値があるのだ。本物に囲まれながら、自分の身と心を変化させないままでいることもできるけれど、そのときにはもはや、本物の価値は失われているだろう。

本物は、名誉や金銭的な価値をもつこともある。この価値が目的になって、人を奮い立たせたり、安心感を与えてくれたりすることもあるから、決して軽視はできない。だけど、その本物によって外を向くことなく、ただラベリングされた「本物の価値」を享受するだけなら、それはつくりものに囲まれた生活と同じくらいに凡庸だ。そのときぼくたちは退屈して、結局寂しさを感じることになる。

本物を本物として経験して、凡庸さから抜け出すには、やはり、相応のリスクを負って、自分を外に開いていく必要がある。

本物の経験は、平たい言葉でいえば、ぼくたちを大人にしてくれる。いままで気がつかなかったことに気がつく。知らなかったことが理解できる。そうして変わっていくときに、ぼくたちは過去の自分を乗り越えなければいけないことがある。大人になるということは、傷つくことでもある。痛みとともに、過去の自分と別れを告げながら、ぼくたちは変化して、ようやく本物の価値を実感する。

本物は危険なものだ。変わっていくことは価値あることかもしれないけれど、一度変化すると戻ることはできない。どう変わっていくかさえ分からない。しばしば本物は、求めてもいないのにあらわれて、ぼくたちを傷つけていく。

ぼくたちはそれでも、本物との出会いに、価値を見出さずににいられない。本物と出会わなければ、いまの自分がいないことは、たしかに分かっているからだ。

現代は、本物とつくりものの区別がつきにくくなっている時代だ。それは、大きな話をすれば、大衆社会が成熟し、システムがそれと分からないかたちで(特定の誰かの意図をそのまま反映したりせず)世界をおおっているからだろう。そのシステムによってつくられるつくりものが、空気のように常にぼくたちのそばにある。

本物はぼくたちを別の場所に連れていき、つくりものはぼくたちをその場に留める。だけどいまでは、本物とつくりものを区別すること自体が、あまり意味のないことだと見なされるようになった。ぼくたちは本物をその場の快楽のために消費することもあるし、つくりものに感銘を受けて人生が変わることもある。

つくりものは、ぼくたちの生活を安全に彩るためのもので、本物のような衝撃を与えることはない。だけれども、毎日の食事がぼくたちをかたちづくるように、つくりものは、人生における日々の変化のすぐそばにある。ぼくたちはそれぞれが、固有の体験を通して変化していく。その変化の重要な役割を、つくりものが果たすことがある。あらゆるものが量的なデータとして扱われる現代において、本物とつくりもののあいだに優劣はなくなっている。本物とつくりものを見分ける目が失われつつある。それはただ、受け手の感性の問題になる。

だからぼくたちはときに、つくりものとの出会いにも、価値を見出してしまう。つくりものの空虚さに不安を感じて価値ある本物を求めるかわりに、いま目の前にあるつくりものを、自分にとって価値のあるものにする。それは、みんなに共有される本物の価値とは違う、自分だけが見出す価値だ。

つくりものには、もともとさしたる意味が与えられていない。ただ単純な欲求を満たすために、分かりやすくつくられている。だけど、あまりにもたくさんのつくりものが氾濫してしまった現在、ぼくたちはそんなつくりものにさえ意味を感じとる。

それは外に開かれた意味ではない。自分の内に深く入りこみ、過去の経験と紐付けることで立ちあらわれる、ひとりの人生における意味だ。

その意味はとても個人的なものだから、だれかと共有されることはないし、する必要もない。ただそのつくりものが目の前にあらわれた偶然性に依って、それぞれが勝手に解釈して、意味が生まれる。その意味は周りから見ると、陳腐で矮小なこともあるけれど、個人にとっては、揺らぎのない価値をもつ。

本物のもつ価値が、ぼくたちを別の場所に連れていく価値なら、つくりものがもつ価値は、ぼくたちをつなぎとめる価値だ。つくりものに価値を見出しつづける自分が、過去から現在にわたって、ずっとそこにいる。それは、替えの効かない個としての自分だ。つくりものは、ぼくたちの人生に一貫性を与えてくれる。

つくりものがぼくたちを変化させるとき、ぼくたちは徹底的に内を向いている。いくつかのつくりものに与えた意味がつながり、結びつくことで、ぼくたちは変わっていく。これは本物による外向きの変化とは、本質的に異なるだろう。いわばこれは、自分の人生に勝手に伏線を見出して、自分で回収するようなものだ。お手製の意味が思いもよらぬ別の意味を生み出して、予想外の気付きを与えてくれる。

ぼくは香港・マカオで、つくりものを感じた。そしてそのとき、つくりものに意味を見出した。

短歌をつくることは、つくりものに見出した個人的な意味を、言葉にすることだと思った。目の前にあるものを、自分の経験や想像とつなげながら、自由に意味づけていく。凡庸な景色を組み替えて、自分のものにしていく。短歌をつくることで、つくりものの意味が絡み合い、新たな意味が生まれるような気がした。

個人的な意味を言葉にしたぼくの短歌は、本来、人と共有できるようなものではない。でもその一方で、誰かの個人的な意味と、ぼくのつくった短歌が共鳴することもあるだろう。人は生きているうちに、多かれ少なかれ、一般化できない個人的な意味を見出している。短歌は、その意味をほかの人と共有するための媒体になる。ぼくたちは短歌を通して、詠み手の個人的な意味に思いを馳せながら、一方で、自分自身の個人的な意味を反芻し、強く噛み締めてもいる。

現代における短歌は、慰めの手段になっている。それは、本物によって傷つけられた人々が、短歌を通して自分だけの意味を見つけることができるからだと思う。短歌は、「わたしだけの価値」をかたちにするのを許してくれる。

こんな文章を書きながら、自分があまりに内へ内へと潜りすぎているのではないかと、また心配になった。外にさらされて自分の軸がぶれてしまう怖さとおなじように、自分だけの価値を大事にしすぎることで、周りが見えなくなる怖さもある。外を見て、内を見て、変化する。結局はバランスの問題だ。

本物とつくりものに囲まれながら、いつもぼくは自分の立ち位置を考えてしまう。

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