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論文紹介 第一次世界大戦が始まる前に以前の戦術を刷新できなかったのか?

第一次世界大戦(1914~1918)に参戦した国々は、いずれも戦闘で多数の損害を出しましたが、その損害の大きさを説明する際に、軍事技術の進歩に戦力運用の思想が追い付かなくなったという議論がなされることがあります。19世紀末から20世紀の初頭にかけて、確かに軍事技術は目覚ましい進歩を遂げました。そのため、列強の軍隊が新技術の影響を十分に評価できなかったとしても不思議ではないかもしれません。しかし、この説明には問題があるとイギリスの研究者マイケル・ハワードは指摘したことがあります。

まず、第一次世界大戦が勃発する前から、ヨーロッパ列強の軍人の間では技術革新の影響で火力の優勢が次第に強化されつつあることは明確に認識されていたとハワードは指摘しています。ただし、その火力が戦場で攻者を有利にするのか、それとも防者を有利にするのかという点で見解がまとまっていませんでした。ハワードは民間人の研究者であるイワン・ブロッホの著作を取り上げ、そこで火力の増大が防御戦闘に有利という見解があったものの、それが列強の軍人に広く受け入れられ、普及していたわけではなかったと述べています。

「一方の側では、ブロッホが1898年に公刊した何巻にも及ぶ膨大な著書『将来戦』で強調したように、将来は正面への突撃は単にどうしようもなく高価なものとなるだけでなく、統計的に不可能になる、と主張された。(中略)しかし、ブロッホは民間研究者であったし、軍人の側では、新しいテクノロジーは防御と同程度以上に攻撃にも有利に働く、という意見が優位を占めた」

(ハワード、448-9頁)

フランス陸軍大学校で教鞭をとった軍人のフェルディナン・フォッシュは、「その手前にほとんど通過不能な地域が横たわる。そこでは、弾の雨が地面を叩き、掩護された前進経路は残っていない」と書き残しており、攻撃を成功させるためには、この地帯を通過する方法を明らかにする必要があると論じていました(同上、449頁)。このことから、フランス陸軍でも火力の増大が防者の優位を飛躍的に高める可能性があることは認識されていたことは伺えますが、それでもフォッシュ自身の見解としては火力の増大が攻者にとっても優位をもたらすと考えていたことも指摘しておかなければなりません。このように新しい技術が戦闘に及ぼす効果を評価することは簡単ではないのです。

フランス陸軍の歴史に注目すると、1875年の歩兵操典の改訂で歩兵部隊が攻撃を実施するときに採用すべき隊形として、それぞれの兵の間の間隔を広くとる散兵の隊形が重視されるようになったことが確認されています(同上、450頁)。それまでの歩兵部隊は密集状態の戦列を組んだまま行動することが前提だったので、これは大きな歩兵戦術の変更だったといえます。しかし、フランス陸軍では密集隊形を維持するべきだとする保守的見解も根強く残っていました。そのため、散兵を前提とした歩兵戦術の教育訓練、調査研究も十分に実施されていません。

この時期に歩兵部隊を密集させたまま戦場機動させるべきだと考えた軍人がいたことは、現代人の後知恵で考えれば不可解なことですが、当時の軍人の考え方としては、散兵のまま動かすと、戦場で兵が仲間をすぐに見失ってしまい、それが敗走に繋がるはずだとされていました(同上)。そのため、1894年にフランス陸軍の歩兵操典では「肘と肘を接した密集体系で、ラッパとドラムの響きに従って」敵を攻撃せよという規定が盛り込まれていました(同上)。兵士の戦場心理として密集していると安心感があり、また相互監視が働くために、敗走が抑制される側面があることは理解できますが、このような状態では敵の火力が構成する濃密な弾幕で生き残れません。

第一次世界大戦が勃発する直前の歩兵操典の改訂は1904年12月に実施されており、その際にフランス陸軍は散兵を全面的に歩兵戦術に導入する方針を採用しました。ただし、このときにも陸軍内部ではドクトリンの妥当性をめぐる論争が起きており、その結果として教範の改定で意図された歩兵戦術の刷新に繋がらなかったことをハワードは問題として指摘しています(同上、453頁)。一部の軍人は新しい歩兵戦術として機動面に新たな運用思想を持ち込むことも検討していましたが、そのような研究が完成する前に第一次世界大戦が勃発しました。

以上の経緯を踏まえると、1914年当時のフランス陸軍の本質的な問題は戦術能力の低さであったとハワードは考えています(同上、458頁)。フランス陸軍の士官の多くは自分が戦闘で直面する問題を十分に研究できておらず、「戦争が始まったとき、フランス軍の各級指揮官は、何らかの体系的な訓練計画にしたがって反応するよりも、直感的に反応した」とされています(同上)。結果として、1914年8月上旬から西部戦線にフランスが投入した150万名の部隊のおよそ25%に当たる38万5000名の兵士をわずか6週間で失いました(同上)。この時期の損害の特徴は、陣地攻撃ではなく、遭遇戦の中で発生したことであり、当時は敵と味方がいずれも陣地に籠っていない状況でした。

西部戦線が塹壕戦の様相を呈するようになったのは1915年以降のことであるため、ハワードは火力の重要性が見出されたのは、その時期以降であると述べています。この時期からフランス陸軍は歩兵戦術と砲兵戦術を組み合わせた運用を模索し、歩兵を火力で掩護することを戦術的原則として確立するようになっていきました。

「しばしば攻撃は成功したが、ドイツ軍陣地に侵入して設定された橋頭堡は、十分に長期間保持するように早期に増援できなかったので、これらの失地を回復するためにドイツ軍が迅速に行った逆襲に抵抗できなかった。そして連合軍は多大の損害を出して出発地点に押し戻されるのがつねだった。唯一の解決策は逆襲に対して脆弱でない橋頭堡を確立するために、十分に広い戦線で攻撃すること、それも防者の抵抗力を全面的に破壊するほど猛烈な砲兵火力の掩護の下に攻撃することであると思われた」

(同上、459頁)

1916年のソンムの戦いでイギリス陸軍は突撃に先立ち集中的な砲撃を加えていますが、強固な地下壕を持つドイツの防御陣地を完全に破壊し尽くすことができず、手痛い反撃を受けて甚大な損害を出しています(同上、459-60頁)。その後も熾烈な戦闘は続きますが、ハワードは結論において、第一次世界大戦が大きな損害を出した原因として攻撃を重視するドクトリンにあったという見解を退け、「1914年以前に流行した攻勢のドクトリンと第一次世界大戦間に生じたおそるべき大損害とをあまりにも密接に結びつけようとするのは誤りだろう」と主張しています(同上、460頁)。より根本的に重要だったのは軍隊の戦闘開発の未成熟さであり、特に19世紀的な密集隊形に固執した根拠とされた戦場心理の考察に関しては「1914年以前に書かれたものの大部分は、あらゆる時代の戦争に妥当する心理を言い直しただけに過ぎない」と厳しい評価が与えられています(同上、461頁)。「必要な規模で火力と運動を結合する」ことの戦術的な重要性が戦前に軽視されていた弊害は、非常に大きなものがあったというのがハワードの見方です(同上、461頁)。

私の評価と照らし合わせれば、フランス陸軍に対するハワードの評価はやや厳しすぎるようにも感じられます。というのも、第一次世界大戦の戦闘からフランス陸軍は素早く教訓を吸収し、その後の塹壕戦の基礎となる戦術的原則を続々と確立しているためです。ただ、そこに至るまでは19世紀的な戦略・戦術のドクトリンを組織的に保持し、20世紀の新技術に適応することができなかった側面があったことは否定しがたいでしょう。歩兵戦術の変遷において過去の戦術の考え方を捨てようとしながらも、それが徹底できていないことは新たな技術の軍事的な可能性を特定できても、それを組織の共通の知識として、運用に反映させるに至るまでのプロセスが決して簡単ではないことを示していると思います。

参考文献

マイケル・ハワード「火力に逆らう男たち―1914年の攻勢ドクトリン」ピーター・パレット『現代戦略思想の系譜 マキャヴェリから核時代まで』防衛大学校・「戦争・戦略の変遷」研究会訳、ダイヤモンド社、1989年、447-461頁

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