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第一次世界大戦前に予算管理で失敗していた英国海軍の調達行政

1914年に第一次世界大戦が勃発するまでのイギリスの国防政策を調査すると、1884年から1914年までの間に、陸軍予算と海軍予算の増加の仕方に大きな違いがあったことが分かります。

1884年の陸軍予算は1610万ポンド、海軍予算は1070万ポンドで、陸軍により多くの予算が配分されていました。しかし、1914年には陸軍予算は2830万ポンド、海軍予算は4880万ポンドで、海軍の予算規模が陸軍を上回っています。1884年から1914年にかけて陸軍予算は2倍にも増えていませんが、海軍予算が5倍近くに増えています(Mitchell 1971: 397-8)。

この興味深い史実を指摘しているのが歴史学者のウィリアム・マクニールであり、彼の著作『戦争の世界史(The Pursuit of Power, Technology, Armed Force, and Society since A.D. 1000)』(1982)は、イギリス海軍が19世紀末から20世紀初頭に研究開発の費用膨張に歯止めをかけることができなかったことが明らかにされています。

まず、この事象の背景的な要因として、イギリス海軍の会計では、ロンドンの金融街で独自に資金を調達するという慣行があったことを指摘しておかなければなりません(邦訳『戦争の世界史』下巻140頁)。緊急事態が発生すると、海軍本部は議会を通さずに独自の権限で借入を行うことがあり、これには議会の予算統制が及んでいませんでした。ただ、緊急事態が収束すれば、海軍本部は借入を返済していたので、この問題が深刻な影響をもたらすことはなく、あくまでも一時的な会計運用として許容されてきました(同上)。

マクニールは、この状況が変化し始めたのが1880年代からであったと述べています。この時期には多方面で軍事技術の革新が起きており、イギリス海軍としても研究開発に多額の資金をつぎ込むようになりました。この研究開発で注目すべきは、それまでと技術開発の進め方が質的に変わったことでした。

「1880年代以前には、発明はほとんど常に個人の仕事であった。もちろん時には発明家が、幾人かの技術者や熟練した機械工などの補助者から、試作品をこしらえてもらったり、その他自分のアイディアを実物に具現化するうえで必要な助けを借りることはあったけれども」(同上、123頁)
「だが実は、1880年代から以降、海軍本部は、民間企業が要求するような購買保証をルーティンとして与えるようになったのである。新しい大砲にせよ、動力機関にせよ、軍艦にせよ、海軍の技官たちが、望ましい性能の諸元をこちらから指定して、それに合致した設計をもってこられるならきてみろ、買い上げてやるから、と民間の技術者たちに挑戦した。こうして発明は意図的にするもの、させるものになった。もちろんある限界内でではあったが、先に戦術的・戦略的な計画があって、それに合わせた性能の軍艦が後から造られるようになったのであり、その逆ではなくなったのである」(同上、124頁)

マクニールは、このようにして開発された技術をコマンド・テクノロジー(command technology)と呼んでいます。コマンド・テクノロジーの一例として挙げられているのが速射砲です。速射砲は、水上艦艇が高速で接近して魚雷による攻撃を試みる水雷艇に対処するために考案された武装でした。要求された性能は総重量1,000ポンド以内、3名で操作が可能で、6ポンド砲弾を毎分12発で発射できることでした(同上、125頁)。この事業は成功を収め、1887年に採用されたアームストロング速射砲は高く評価されました。アームストロング速射砲には油圧駆動の駐退筒が備わっており、射撃するたびに砲身を自動的に初期位置に戻すことができるので、以前に比べて正確な砲撃を連続させることが容易になりました(同上、126頁)。イギリス海軍は、水雷艇を上回る速さで移動し、主力艦を掩護できる「水雷艇破壊艦」の研究開発も推進していますが、これもコマンド・テクノロジーに基づいて開発されました。その艦艇は1893年に同時代の水雷艇より優速の26ノット以上の速度で移動できることが公式に認められました(同上、128頁)。このタイプの艦艇は、その後に駆逐艦と呼ばれるようになります(同上)。

さらに、コマンド・テクノロジーによって戦艦ドレッドノートの配備が可能になったことも重要な事例として取り上げられています。イギリス海軍は、1906年にドレッドノートを進水させましたが、この戦艦には主力艦として高い戦闘力を持たせるため、さまざまな革新的な技術が導入されました。火力の面では10門の12インチ(305ミリ)砲で斉射する能力が付与されたことが重要ですが、機動の面では燃料を石炭から石油に転換し、海軍史で初めて蒸気タービン機関を導入したことによって、高い出力を得ることができました(同上、132頁)。ドレッドノートの速力は21ノットで、同時代の主力艦と比較すると、2ノットから3ノット優速でした(同上、129頁)。つまり、ドレッドノートは他の戦艦と交戦する際に機動の面で優位に立ち、戦術的に射距離を自由に選択できるように設計されていたのです。

ただし、こうした技術開発の費用は高くつきました。ドイツ海軍との軍拡競争が激化していたことも背景としてあり、海軍の支出は危険水域にまで上昇していました。1909年には政治問題として表面化します。このことについてマクニールはイギリス海軍にとって「コストの超過分を借り入れで埋める誘惑には抵抗しがたくなった。借り入れをしなければ、新造艦の完成が遅れたり、何らかの重大な技術開発で、ドイツ人がイギリス海軍を追い越すのを許してしまうかもしれない。だが、超過コストを埋める借り入れがあまりにも巨額になれば、年々の利息の支払いが早晩経常予算にくいこんでくるだろう」と述べています(同上、140-1頁)。多くの議員は海軍が予算の範囲で調達を行っていると思っていたので、このような問題は寝耳に水でした(同上、141頁)。

1909年、デビッド・ロイド・ジョージ大蔵大臣は、富裕層に対する課税負担を引き上げるという不人気な方法で、この海軍の債務に決着をつけました(人民予算)。ただ、この問題は根本的な解決を見たわけではありません。海軍の調達行政では、引き続き無理な予算の確保が続けられました。当時、ウィンストン・チャーチル商務大臣は皮肉をこめて、海軍本部は6隻を要求し、財政の専門家は4隻なら造ってもよいと認め、そして最終的には8隻が建造されることになったと述べていました(同上、121-2頁)。このような費用を度外視した国防政策は長期的に持続可能でないことは明らかでしたが、当時はまだ費用分析の概念それ自体が確立されておらず、軍隊の調達行政を効率化するための理論的な基礎が欠けていました。

参考文献

マクニール『戦争の世界史』 高橋均訳、中央公論新社、2014年
Mitchell, B. R. (1971). Abstracts of British Historical Statistics. Cambridge University Press.

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