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傘(未改稿)

もうすぐ卒業ということで、私の卒業に関する、あるエピソードを話したいと思います。たった3年間の高校生活が終わるだけなのになぜかそわそわしてしまいますよね。それは
「卒業」というものが、少なくとも何かを変えてしまう力を持っているからなのだと思います。
これは、私が中学の時の話なのですが、恥ずかしながら、当時私には好きな人がいました。そのきっかけも、他愛もないもので、ある梅雨の日に私が友達に傘を貸したことが、発端でした。
梅雨の時期には珍しく、その一週間は雨が降らなかったのですが、その日はそれまでの鬱憤を晴らすかのように降り注いでいました。私は友達に傘を貸してからしばらく経って、もう一本の傘を忘れていることに気が付きました。貸すと言った手前、返してもらうことも出来ず、私は放課後の正面玄関で立ち尽くしていました。乾いた体で帰ることを諦めはじめていたのですが、その時にふと、声をかけられたのです。仮にA君とします。Aくんと一対で話すのは、これがはじめてでした。「部活が休みになった」そう言って朗らかに笑う彼の右手には、無骨そうな黒い傘が握られていました。そこから、自然と傘の話になったのだと思います。私が友達に傘を貸してしまった話をすると、彼はまるで日常会話を話すかのように、こう提案しました。
「俺の傘入ってったらどう?」
彼があまりにも当然のように提案するので、私は動揺しました。
「もしかしたら、勘違いされるかもよ?」
そんな一言を言う勇気も起きず、かといって断れるだけの茶目っ気もなく、人がいないのを良いことに、私は彼の傘に入りました。雨の音が響く中、私たちは細々と、直近のテストの話などをしながら帰りました。
彼の無骨な傘の取っ手には、同じくらい力強そうな彼の手が備えてあったのですが、Aくんは思いがけず、両方の手でそれを掴んでいました。彼の大人びたイメージとはかけ離れた、子供のような一面を見て、気が緩んでしまったのか、私は言いそびれたあの一言を、ふと、口にしてしまいました。
「これってさ…誰かに見られたら、勘違いされちゃうかもよ?」
「え?それってどういう…」
言うか言い終わらないかのうちに、彼の顔が少し紅潮したのを感じました。彼が顔を反らしてしまったのを見て、私は後悔しました。
私たちは無言のまま、雨の音だけが響く時間が続きました。カタツムリが、少しずつ、少しずつ歩いていくような、そんな間が続いたあと、Aくんが顔を反らしたまま、ぼそりと呟きました。
「…ぁ…ち…てもいいよ」
雨のお陰か、途切れ途切れにしか、聞こえませんでしたが、私には
「…別に勘違いされてもいいよ」
と聞こえたように思いました。本当にそう言っていたのか、私の勘違いだったのかはもうついぞ分かりませんが、掠れながら、絞り出したような彼の声は「好意」として受け取ってもいいような気がしました。Aくんと私は頭一つ分くらい背が違って、それに加えて傘を両手で掴んでいるせいで、こっちに傘を寄せるのも精一杯ですが、Aくんは自分の肩が濡れるのも厭わずに、私を濡らさないようにしてくれていました。
「…片手で持てばいいんじゃない?」
私がそう言うと、Aくんは今まで気が付かなかったのか、恥ずかしそうに片手を放しました。
「どうしても癖って直らないよね」
照れ隠しのように、彼が言いました。

それからのことはあまり覚えていませんが、家にたどり着いてから、のぼせるような気持ちで、濡れた袖を乾かしたのは覚えています。その日から、度々、Aくんのことを意識するようになりました。見ているつもりは無いのにふと、視線を送っている自分に気付いて恥ずかしくなることもありました。Aくんも私の視線によく答えてくれました。私もAくんのことが嫌いではありませんでした。でも嫌だと思いました。今まで話していなかったのに、少し傘を分けてもらっただけで意識するのは、浅はかではないでしょうか。どこにでもあるような陳腐な出来事で自分の心が揺らぐのが嫌だったのです。そしてAくんとは何も進展もないまま、中学を卒業することになりました。結局Aくんとの思い出は、あの出来事だけでした。別の高校に通うことになった私たちは、当然のように疎遠になりました。高校生活も馴染んできたある梅雨の日のことでした。私は傘を忘れてしまい、友達に一本の折り畳み傘を貸してもらいました。自分のものではないその傘は、やけに異物感がありました。家の最寄り駅に着いてから、ふと外に目をやると、雨の前で立ち尽くしている、男女二人組が目に入りました。男のほうはAくんでした。また少し背が延びて、大きく感じられました。もう片割れは多分、Aくんと同じ高校の生徒なのでしょう。二人は友達では無さそうな雰囲気でした。ふとAくんが、傘を開くと、二人は傘を分けながら、外に歩いていきました。ぼんやりと見えたのですが、Aくんは、傘の取っ手を両手で掴んでいるようでした。二人は突き当たりまで行くと、左折して、見えなくなりました。卒業というのは、そういうものだと思います。

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