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Gと介護の不思議なセカイ


その年の秋。

結腸が破れたBちゃんは市立病院に緊急搬送され、6時間に及ぶ手術の後、入院した。

事変勃発・Bちゃんの入院 

↑GB包囲網の1話目がここにあたります。


重度の便秘を原因とする結腸穿孔により、破れた腸から腹腔内に飛び散った多くの内容物は体内のあちこちで毒素となって悪さをし、高熱、腎不全、頻脈その他を起こし、Bちゃんは意識不明のまま再度の呼吸停止となったりして、危険な状態が続いていた。

私は毎日、Gちゃんを連れて集中治療室へ面会に通っていた。
Bちゃんは手術後3日目に一度だけうっすらと意識が戻ったものの、声をかけても反応はない。

意識があるのかないのか、眠っているのか、目を開けられないのか、まったくわからない状態で一週間が過ぎ、その時点でも危険であることに変わりは無かった。

たくさんの機械と多くの管がBちゃんを取り囲み、かろうじて命をつないでいる。
呼吸機の音、心電図の音、体温や心拍数を示す画面。こうした場所に立ったのは何度目だろうかと考える。多すぎてわからん。なのであまり動揺しない。

Bちゃんはもともと肥満傾向にあったが、7日目あたりに顔まわりに変化が起きた。
顔がだらーっと広がったのである。
ほおやあご、首まわりの筋肉が力を失ったのか、脂肪の重さに引っ張られ(?)、顔が異様に大きくひらべったく垂れた。
今まで見たことのない面相だった。ガーデニングに使う寄せ植え用の浅丸コンテナを伏せた形に似ている。これで何号くらいかな? と、のぞき込んでしげしげと観察した。

「Bちゃん、聞こえる?」
聞こえてなくてもいい、声をかけてみる。
管だらけの手もそっと握ってみる。
熱があった。むくんでいた。というより膨れていた。ぶよぶよとした力のない手と腕……。
すると後ろに立っているGちゃんが、
「ハッハ、バーサン、いよいよおしめえだな、やだやだ、こんなになってまで生きていたいのか、ヘッ!」
Gちゃんらしい毒舌を吐く。
ベッド脇で看護師さんが苦笑いしていた。

集中治療室では面会時刻に規制があり、面会時間も短くて、長居ができない。そのため、すぐに退室してしまうのだが、この日あたりからGちゃんは、病院へ行くのが面倒になったらしく、
「行ったって目ぇ覚まさねえんじゃ、どうしようもねえべ」
だから病院へは行かないと言い出した。
Gちゃんの送り迎えに費やす時間が一時間ほど省けるので、
「あ、そう」
私の返事もシンプルだ。
この期に及んで、
「夫婦なんだから毎日来たら?」
というようなことは言わない。

目と足と心臓の持病のために、Gちゃん自身はおおむね「引きこもり老人」である。
自力でできない調理については、日に二回、配食サービスが食事を運んでくれる。
眼科通院はタクシーを使うようになっていたし、心臓外来は一か月先だ。
とりあえず、このままでいいかなと、Gちゃんから目を離していた10月末。

そうは問屋がおろしません。
別の問題が持ち上がった。Gちゃんが不思議な世界へ足を踏み入れ、せん妄、すなわち幻覚・幻聴が始まったのだった。


Bちゃんの見舞いに私ひとりで行き、Gちゃんの家には寄らずに帰宅した日、電話がかかってきた。

『バーサン、そっちへ行ってんのか』

はい? なんだいそりゃ。
「病院にいるよ。うちにいるわけないじゃん」
何冗談言ってるんだろう。くらいの調子で返したのだが、
『バーサンの服が多くって邪魔でしょうがねえ』
Gちゃんの話は脈絡がなかった。
「そのうち片付ければいいでしょ」
『あれは、あれだな。欲が深いな』
はあ?
「誰が欲が深いの?」
『ふふーん、あの人だ。バーサンだ』
酔ってるのか?
『こんなにため込みやがってよ。いやになっちまうだ』
「はあ……?」
『オメエあれだべ? 今、カネねえんだべ』
「うん。仕事してないから」
っていうか、Gちゃんにはあえて言わないようにしているけれども、GB2人にかかる介護費用、配食サービス、施設費、病院費、その他諸々のために、私の資産はやせる一方なんである。
『へっ、しょうもねえ』
そして電話は切れた。

なんだったんだ?
とまあ、疑問符が集団で飛んだけれども、Gちゃんの話が気まぐれなのは珍しくないので、そのままにしておいた。

すると2時間ほどしてGちゃんから、また電話がかかってきた。
『バーサン、いるか、そっちに』

あっ……。
あかーん……!!!!

とうとう、来てしまった。
Gちゃんの認知症がいっきに進行したのである。
日をおかず、Gちゃんをかかりつけ内科医に連れていった。
あらかじめGちゃんの不思議発言を書き並べた紙を用意し、『こういう言動がありました、意見書お願いします』レポートにして届けておいた。

お医者さんの意見書は介護認定の要である。
Gちゃんの認定がどうなるか、いつ下りてくるのかはわからないが、少なくとも要介護1を見越してたてたばかりの現状の介護計画は継続したい。

じつは、Gちゃんのこの時期の介護認定切れは私に責任がある。

Gちゃんが最初に他県の眼科に入院すると決まった2年前、私がGBそろっての介護申請をした。
そのとき、市役所からGちゃんの入院を理由に申請を断られ、年が明けてGちゃんは認定なしで入院退院、その後に申請した。

ほどなくしてBちゃんには要介護1が降り、遅れてGちゃんにも要介護1の認定。
これでふたり揃ってデイサービス~と、喜んだのも束の間で、デイサービス2日前に突如GBが介護拒否した(GBの二回崩れ)(大友家の皆様ごめんなさい)

半年後の介護度の見直しでBちゃんは引き続き要介護1を得たが、Gちゃんは2度目の眼科入院で、見直し手続きが遅れた。

そののち退院後に一騒動あってその後もあれこれ大荒れでさらに手続きが遅れ、そして認定切れした。

ところで介護申請は新認定の場合、半年後に見直しが入る(当時の認定方法)(今はどうなってるのか不明)

誰が決めたこんな手順。はっきり言って、時間と体力と人件費の無駄遣い、である。
たとえば。

新規に申請をする場合、一月に申請するとして、まず市役所で申請書を書いて提出する。
一月~二月に高齢者は家族ともに、主治医の診断を受けに行き、「主治医の意見書」をお願いする。
医師が多忙だと意見書はなかなか出ない。意見書が遅ければ役所から、「意見書が提出されていない」遅延お知らせ意見書督促の手紙が家族宛てにバンバン来る。家族に通達したって、出ないものは出ないんじゃ~。

かかりつけ内科医の先生に意見書をお願いすると、家庭内の事情もはかってくださって早め早めに書いて提出してくださるのだが。
大きな総合病院で、週に一日しか医師が病院にいないというようなサイクルだと、意見書も遅れがちで、最大1か月半待ちという経験がある。

それやこれやで、
二月に意見書の提出が順調に済むとして、家族にはその連絡は来ない。
医師が意見書に書いた内容を家族が読むことはおろか知ることもできない。

三月に市役所から、訪問調査実施の予定確認の電話がかかってくる。
訪問調査員の都合と、高齢者家族のスケジュール調整。これがうまくかみ合わないとこの先さらに、一か月ほど待たねばならない。

四月に「訪問調査員」が自宅へ来て、高齢者と家族にここ一か月の状態を、一時間程度聞いていく。

早ければ五月に要介護、要支援の認定が降りる。

認定が降りると、介護計画の立案に入り、高齢者も家族もケアマネージャーさんとあれこれ相談するのだが、一回の相談で全部決まるはずもなく、二度、三度と練っていって、これを五月~六月とすると。

五月になるが早いか、また市役所から、
「半年たちましたので介護度の見直しです」の手紙が来る。

六月末に認定が切れるからである。
遅くとも認定が切れる六週間前に申請を済ませよと書かれているので、介護計画も整わないうちに家族はまた一連の申請手続きを最初から繰り返さなければならない。

それでも二度目の認定が前回同様なら、たとえば
要介護1→要介護1…なら介護計画も活きるが
要介護1→要支援…に変わったりすると、介護内容も最初から練り直しという、無残なことになるのだ。(今は制度が違うかもしれない)

だがGB戦たけなわのこの時期、介護基準の変更(?)のようなものがあったらしく、見直しとは名ばかりの「ランク落とし」みたいなことになって、介護度が変わり、介護家族の負担増につながって、アタフタした家庭も多かったではないだろうか。

また、四月をはさむ二か月と年末年始を挟む二か月は、認定の停滞恐るべしで調査も認決定もそれぞれ二か月待ちということもあった。

かくて認定が降りてないのに
「更新せよ」
「意見書が出ていない」
の手紙が次々来るという、異様な事態も起きるのである。
申請と更新のたびに、10枚以上の書類ワンセットが、必ず同封されてくる。
兵糧(税)が有り余ってる役所の辞書に「コストダウン」という言葉はないのだろうか。

ちなみに医師の意見書が遅いときは家族宛に手紙が来て矢の催促だが、役所の事情で進行が遅れたときは、ナシのつぶてで事情説明なしである。

さてGBの場合は二人分だから、

B申請→受診→調査→認定→計画→更新申請→受診→調査→決定→計画→実施……までのセットを要介護1、(あとで要介護2、要介護4、要介護5と更新)

G申請→受診→調査→認定→計画→更新申請→受診→調査→(のちにランク落ち)不服→区分変更申請→受診→調査→認定→計画→実施

……となったわけであり、そこに加えて前半には、
Gの入院退院入院退院、
GBの介護拒否
Bの夜間徘徊、
Bの施設ステイ
Gの暴力事件
Bの通院(内・眼・泌・消)
Gの通院(眼・他県で眼、歯・心臓・消・泌尿器、神経)
私の体調不良(抜歯)
…といった出来事がてんこ盛りとなり、

どうせいっちゅうんじゃー!!!!

私は叫び、Gの更新申請を投げ捨てた。
結果、Gの介護認定が一時期、失効していた。
(あくまでも、GB戦当時の状況です。今はどうなっているのかわかりません、あしからず)


私とGBは隣市に住んでいるので、時間はかかるが、それでも市役所に行ったり、通院に付き添ったり、訪問調査員と面談したり、ケアマネさんと打ち合わせもできるわけだが、遠く離れて住まう親子はどうしているんだろう?

……というようなことを、とある介護業務従事者さんに聞いたら、
「GBさんのところは順調に進んでいるほうですよ」

彼女の話してくれたところでは、
GBの場合には、
介護の方針を決めるのは私ひとりだから、
私が「こうすると決めたらそのまま計画決定」して
介護の実施まで行き着ける
のだが、これがまず難しいという。

高齢者の子(兄弟姉妹)の間の介護方針に差があると、計画そのものが決まるまで時間がかかるし、決まりかけた介護計画が親族の異議で振り出しに戻ることもあるらしい。

高齢者(親)の息子と、息子の妻のあいだでも方針に差はできる。
体力的、時間的な負担の少ない介護を選びたい妻と、自分の親の介護は妻がすべきと(男女観の差ないしは価値観の差、経済の問題)決めてかかってくる夫が、介護計画の相談の途中で離婚になってしまうこともあるそうだ。

介護家族とそれ以外の家族のあいだで、介護に関係ない争いも持ち上がる。
父親を介護して看取った無職次男が、
「同居して介護したんだから遺産も多くて当然」
別居長男の家族が、
「介護したくても遠いからしかたがなかった、遺産は法律通りに」
争ったあげく、残された母親の介護をそっちのけにして、裁判まで行っちゃったこともあるとか。

あるいは、とうに自立不可能となっている独居高齢者に、家族はいるはずなのだが、相談の場に誰も出てこない上に、
「そっちで全部決めて適当にやってくれ」
完全丸投げであり、重ねて「来てください」と促すと、
「そっちはそれが仕事だろう!」
逆ギレ中年がいたりして、怖いのだそうな。

また、歩行困難な状態で外出がほほ不可能な高齢者さん(女性)の家へ、年末の様子を聞きに行ったら、
「あんぱんを12個買ってきてください」
とおっしゃるから、驚いてわけを尋ねたら、息子さんふたりはそれぞれ仕事、旅行で、娘さんひとりは夫側実家へ帰省という理由で、三が日が明けるまで、ひとりもおいでになれないというご事情だったそうである。
「パンだけでなく何かしら考えてお助けしようとは思ってますけれども」
たぶん、この相談員さんの自腹で準備となるのだろう、何かこう、やるせないお話である。
「難しいですよ。本当に」
労苦のにじむ笑顔であった。

そうか~。私のところはこれでも楽なほうなんだ。
介護計画や方法について苦情を言ってくる人はいない。
GBのケースでは過去にGB連合軍が介護拒否したけれども、これからは拒否もなるまい。

Gちゃんに家事の介護をつけ、配食サービス、介護タクシー、今後の計画立案と、全部私一人でなんの反対もなく決めているわけだから、その一点で「順調」なのはたしかだ。
むしろありがたい状況なのかも……と思ったことである。

Bちゃんの入院翌日から、Gちゃんの家には掃除と軽い家事のヘルプが入り(認定前でも依頼できる)、市内の通院にタクシー送迎の手配はしてある。

朝食は「できあい開封のみ」「お湯だけ調理」の食品を、これでもか! ってくらい、私が運び込み、昼夜は配食サービスが来る。

Gちゃんは配食サービスのおかずにもご飯にも
「不味くて食えやしねえ」
「これであの値段かよ」
「残り物、持ってきてやがる」
等々、その他にも、山ほど文句を言った。

そこで私は一覧表を持っていって、
「美味しいと評判のところもあるよ。高いけど」
「高いってどれくらいよ」
「一食1000円」
「げっ、冗談じゃねえや」
結局、そのままでいいと、サービスを受け続けることになった。

家事ヘルパーさんのことも、Gちゃんは面と向かっては何も言えない人なので、隠れて私に、
「むやみと早いぜ。あれで掃除になってんのか」
「掃除なんか自分でやればタダだ」
だとか言っていたが、そのうちヘルパーさんの明るい人柄に慣れたのか、文句も言わなくなった。
このまま行けば順調に介護が進むはずだったのだが……。

このころからGちゃんの言動は、日を追うごとに怪しくおかしくなっていった。
「なんだ、あの車はよ」
病院へ向かう車の中でふいに怒り出したりする。
「あんなにビカビカ、ランプだか灯りだかつけやがって」
「え? どこにそんな車があった?」
「前の車だ。呆れたな」
すぐ目の前にあるのは白い輸送コンテナ車である。背面は白一色で社名も書かれてはいない。
「今時はあんな車ばっかしだ、くっだらねえ」
イヤGちゃん。そんな車はどこにもないよ。
第一、こんな昼ひなかからビカビカさせないし、たとえさせてたって、この晴天下では見えないよ。
とは思うが、強く否定すれば認知症に悪い。
「そうだねえ……」
あとは適当に相づちで済ます。

* 後年
『見てしまう人びと』幻覚の脳科学ーオリヴァーサックス著 太田直子訳 早川書房
を読んで、この現象には、シャルル・ボネ症候群という名前があると知り、なるほどと納得した。

かと思うと、視力とは関係なく、
「昨日、バーサンが家に帰って来た」
半年前にBちゃんが言ったのとよく似た作話か、せん妄か、わからないことを言い出す。

「バーサンと看護師が庭で草むしりしてただ」
それはすごい。なかなか出ない発想である。

またある日は、
「近所の工場で月を打ち上げやがって、見物客が大勢、うちの庭に入り込んできて、うるさくて迷惑だ」
コメントのしようのない話も出た。

「バーサンも一緒に騒いでて、うるせえだ」
「今度会ったら静かにしてって言っとくよ」
「おう、言っとけ」
みたいな会話になる。

しばらくするとGちゃんから異臭がし始めた。着替えてないなとすぐにわかる臭い具合である。さきの冬に、私がBちゃんに買ったダウンジャケットをどこからか探し出して、
「寒くなくていいだ」
Gちゃんは家の中でも四六時中、着続けて、それが染みだらけになり、黒ずんでもおかまいなしだった。
実家の室内は(比較的温暖な地だが)Gちゃんが暖房をしないので、室温と外気温が同じであり、かなりの寒さとなった。
その代わりこたつは効かせすぎて熱く、足が低温火傷しそうなレベルにしている。

こたつオンリーの毎日。
お金がもったいないと言って、エアコンはおろかストーブも使わず、ダウンジャケットを着たまま、日がな一日こたつにいて、見えない目でテレビを見ている。

幻覚世界は日増しに膨らむが、現実世界でのGちゃんはどんどん小さくなっていく。

動かず外へも出ず、萎縮する一方である。

いい状態ではないなあ……そう思うのだが、GBいずれにも目配りを要する現状では、毎日の実家通いが精一杯だった。


Bちゃんが入院してから、Gちゃんが記憶障害、せん妄になるまで、わずかに10日。

そしてほんの一か月ほどでせん妄、幻覚、幻聴と、猛スピードでGちゃんの世界は作り替えられていく。

『トシいってからヨメがいなくなるとオトコは早いよ(衰えが)……』

巷説の通りになった。

自分の見聞きしているものが幻覚であるとは、Gちゃんは当然、思ってはいない。
Gちゃんをよく知らない人が聞いたら、ありふれた世間話で済むような内容もある。
Gちゃんは外部の人とは接したがらないので、外へ出ると極端な無口だ。
黙っていればただのお年寄りであり、ちょっと見には「物静かなおじいさん」。

このあたりが認知症高齢者の、難しいところなのである。

だがしかし、Gちゃんのケアのために実家へ行くと、ご近所さんから、ちらほらと、
「お父さん、だいぶおかしいよ」
「ひとりで大丈夫なの?」
私がいないあいだのGちゃんの異常行動が耳に入ってくるようになった。

Gちゃんがご近所さんへ回覧板を持っていって、
「昨日、うちのやつが帰ってきたんですよ」
「俺が風呂に入ってるときにバーサンが部屋を散らかして困ってるんですよ」
そのあたりはまだいいにしても、薄ら笑いを浮かべて、
「うちのヤツ、お宅にいるんでしょ」
あたりになるとご近所でも、
「なんかアブナイな」
危機感を感じられてか、代わる代わる私に教えてくれるようになった。

なにせGBの喧嘩が派手だったことは、ご近所さんの皆さん、ご存じである。
六十年間、派手派手だったわけで、家から漏れる物音で、何が起きていたのか、皆さん察しておられたことだろう。
それがBちゃんの入院で一転、シーンと静かになった。

残った老人は妙なことを口走る。心配だけど不気味。
まあ、無理もない話ではある。

Bちゃんが入院した直後に私が案じたこと、つまり

『GちゃんはBちゃんを暴力暴言でもって支配して、従わせることで自分の威力を確認し、満足感を得ていたから、急にはけ口を失うと危ないかもしれない』

という予想そのままの事態になった。

Gちゃんがあまりに「邪魔だ、捨てる」と言い張るので、しかたなくBちゃんの服を三袋ほど捨てた日の夜、Gちゃんから電話がかかってきた。

『オメエ、うちの金、持っていったべ』

うーむむ……。
記憶障害+モノ盗られ妄想か。

「持ってきてないよ」
『俺が昨日おろしてきた金がねえ』
「昨日、お金おろしてないでしょ」
『一昨日だ』
「一昨日は日曜だよ」

しばしの沈黙……。

『そういやそうだ、ハッハッハ』
「こたつの天板の下に置いてあるんじゃないの?」
Gちゃんがしばしば、天板とこたつ布団の隙間にお金を押し込んで、隠しているのは知っている。
『あ、あった』
安堵したのも束の間、
『オメエ、どうして俺がここに金、置いてるって知ってやがんだ』
おっと。今度はそっちかい。
「このあいだ、私がお米を持っていったとき、ここにお金を置いてあるって言って、板あげて見せてくれたの、Gちゃんでしょ」
『へっ!』
で、突然、電話は切れた。

この問題はしぶとく生き続けた。Gちゃんは猜疑心のあまり、大事な金庫の鍵をどこかに隠した。
金庫にはGBふたりのすべての通帳と保険契約書、実印などが入っているのだが、予想にたがわずGちゃんは、鍵の行方を見失ってしまったのだった…。


換気扇危機一髪  に続く

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