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介護坂は下り坂4

 危ない火の話


 Gちゃんの視力があやしいことになってると感じたその日、実家を出たあとで、GBの平時のかかりつけ眼科医院へ電話をかけてみた。
 移植手術を勧めてくれた眼科医院で、術後経過も診てもらっているし、医師の診断もされている。


 通院患者の目の視力の程度、見え方についてお聞きしたいと言うと、
『お教えできません』
 事務の人の素っ気ない返事ではあった。
 これは当然で、どこの馬の骨ともわからぬ相手に、患者のことを電話で聞かれて答えるようなことは普通しない。
 だが、Gちゃんの目のことで私も何度も通った眼科だし、Gちゃんの保険証番号、診察券番号も控えてある。
 これで私の身分証明書代わりに運転免許証を持って、眼科に行けば教えてもらえると私は思っていた。……というより地方の個人病院ではたいてい教えてもらえるんである(法律がどうなっているのかはイマイチわかりません)。


「私ひとりでそちらへ行ってお聞きしてもいいですか。以前、何度も付き添いで行って移植手術直前の説明も受けた家族なんですけれど」
 しばし間があいて、受付さんが他の誰かと相談したらしく、
『調べてみましたが、こちらではわかりません』
「あの、わからないというのは測定してるけれど、教えられないということですか、それとも、測定ができなくてわからないということですか」
 しばらく沈黙があり、
『もう一度調べて電話します』
という返事だった。


 市役所へ障害者手帳の申請に行くにしても眼科主治医の診断書は必要となるだろう。
 障害者手帳を出してもらえるレベルかどうか、事前にたしかめておきたかった。
 眼科医院から電話はかかって来なかった。
 三日後、私は再び電話した。
「先日電話でお聞きした視力と見え方について、お返事待ってるんですが、どうなっていますか」
『それはこちらの誰が伺ったのでしょう』
「お名前はちょっとわからないんですが……三日前です」
『お話を伺った者の名前がわかりませんとお返事できません』
「では今からもう一度、お願いします」
 視力の程度と見え具合を知りたいと告げると、
『お教えしてもいいかどうか医師に聞いてこちらから電話します』
 で、また三日過ぎてもなしのつぶてだった。

 その翌日には術後検査だったので、私もGちゃんも一日がかりの遠征通院である。
 この日、予約時間から診察時間まで三時間待ち。待合室では患者さんが看護師さんに「遅い」と声高に抗議したりしてて、ちょっと雰囲気が悪かった。
 なので、私はここで質問するのを諦めた。千葉の病院では移植後の角膜が、目にしっかりとくっついているかどうかを調べるのであり、見え方を診察するわけではない。
 待ち時間のわりに診察時間は短く、三分程度というスピード診察だった。大病院ではこういうことはままあるのだ。

 千葉へ行った翌日、私はふたたび地元の眼科医院へ電話をかけた。するとまた、
『それを伺った者の名前がわかりませんので、調べてあとで連絡します』
という返事であった。
 ここでハイそうですかと言ったら同じことの繰り返しになりそうだなあとは思った。さらなる引き延ばしは勘弁してもらいたい。
「お返事をいただけるというお話で、これで三度目の問い合わせなんですが」
『そうですか。医師に伝えて後ほど電話します』
 そしてその連絡は来ないのである。
 これでだめ押しと、数日後さらにもう一度、
「見え具合について診断書をいただいて、障害者手帳の申請をしたいのですが、先生に診断書を書いていただけますか」
『前例がありませんので、なんとも……』
 事務方さんは言いにくそうにそう言い、このときはさすがにその場で事務方同士の相談があったのか、しばらくすると電話がかかってきて、
『他院の医師へ治療をお願いするなどの紹介状はお出しできますが、それ以外のこと(障害者手帳申請等)に診断書というのは、今まで出したことがありませんし、たぶんこれからもお出しできないと思います』
『思います』ですか……。
 それはいったい、どなたが『思った』のでしょうか。
 つまりダメってことで、何故ダメかというと、
前例がないから『たぶんダメだと(事務方が)思う』という返事なのである。
 病院の方針が、診察診断以外は受け付けないというなら、いたしかたない。が、多年にわたって(主にGBのことで)さまざまな病院とおつきあいしてきたけれど、問い合わせ数回で得られた答えがこれだけ……というのは初めて遭遇する事態だった。
 だがまあ、病院の返事がこうであれば患者の家族にできることは何もない。見えないのは身体的な問題であって、介護的な問題ではないので、障害のほうで認定してもらえれば……という道筋は今回は行き止まりとなり、諦め。という結果になった。


 Gちゃんの衰えは目立たずゆっくりと進んでいた。
 Gちゃんの話を聞いていて、どんなに注意深く耳を傾けていても、何を言っているのかわからん……というようなことが増えていった。
 耳も急激に衰えた。なので、かなり近いところでGちゃんの悪口を(まあたわいないことだけども)Bちゃんと花咲かせていても聞こえていない。
 以前だったら直ちに怒号だったような話題でも、反応がない、というようなことも増えていった。


 ただし本来の性格、つまり、家族に対しては暴圧的・外へ出たら小心者。という傾向は変わらなかった。
 Bちゃんの安全が案じられる日々だった。Gちゃんの衰えは怒りに直結している。
 その怒りの行き先は全部、Bちゃんだ。
 見えないぶん、聞こえないぶん、そして思いのままに動けない分ぶん、いらだちは高まり、ささいなことで暴発する。
 Bちゃんが食卓へ箸を出し忘れたというような、ちょっとしたことで声を荒げた。
 炊事に手間取るBちゃんの後ろに張り付くようにして、一時間二時間と文句を言い続けてみたり、Bちゃんの焦げ付かせた料理を鍋ごと窓から庭へ投げ捨てたりした。
 そのたびにBちゃんもまた怯え、反抗し、いらついて、認知症の状態は悪化していく。
 そうなっても外からの手助け、つまりヘルパーさんが入ることをGちゃんは拒否していた。
 綱渡りのような生活と、外から見ると思うのだが、本人は壮年期と変わらずちゃんとやっていると思っている。日常がそのまま危険行為で、危ぶまれる日々が続く。


 Bちゃんは火の始末がいよいよいけなくなってきた。
 丸形の石油ストーブ(火鉢型、ごとく付きで煮炊きもできるタイプ)の、『点火スイッチを押して回し、着火を待って戻す』ことができないのである。
 そこでGちゃんが(よせばいいのに)チャッカマンを与えた。Bちゃんはストーブのスイッチを押しながら、チャッカマンでボボボッとムリヤリ着火するという、危険な方法をとるようになった。
 そしてそれもできなくなった。
 ヤカンを持ってきて、スイッチを押して、チャッカマンを使う、この三つができない。
 ヤカンを持ったまま、チャッカマンを持つ。手は二本だからスイッチが回せない。
 ヤカンを横に置いてスイッチを回せばいいのだが、それがわからない。
 ヤカンを持ったまま、スイッチを押さずに、ストーブにチャッカマンを押しつける。
 カチカチカチ……カチカチカチ……これを何分でもやっている。
 Gちゃんが『茶はまだか』急かしにきてBちゃんのカチカチに気づき、怒って怒鳴る、手が出る、Bちゃんが泣きわめく。
 私が騒ぎに気づいて草むしりをやめ、家に飛び込んでみれば、転がったやかん、床にこぼれた水、仁王立ちで怒鳴っているGちゃんと、しゃがみ込んで泣いているBちゃん、ストーブの放熱部から煙、立ちこめる異臭……。

これが老老最後の抵抗、救いの見えない籠城暮らしの実態だった。


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