介護坂は下り坂 6
GB籠城戦 老老戦線最後の抵抗
胡麻粒坂の戦い
○△胃腸病院では診察のとき付き添って、Gちゃんと医師の話を聞いた。
Gちゃんはこの数か月、おなかの調子が整わず硬軟繰り返し、しばしば便秘という状態のようだった。診察室で珍しく、Gちゃんは自分から話し始めた。
「なんかデキてんじゃないかと思ってんですけどね」
Gちゃんの言葉に医師は首を傾げた。
その後、血液検査、尿検査、X線検査の結果が出そろうまで、一時間少々、待合室で待った。
結果、病と判断されるほどの材料は揃わなかったものとみえて、医師はどう説明したものか考えあぐねるふうに、
「うーん、これと言って……」と唸ったきり言葉が出ない。
「痛みはないんですよね?」
「ないです」
「下痢と便秘の繰り返し……食事管理はどうでしょう」
そこで私が、私の介助がない場合の、GBの普段の献立を説明した。
朝、ご飯、味噌汁、ほうれん草。
昼、ご飯、シラス、前日の残り物。
夜、ご飯、煮魚、トマト。
だいたい、こんなものである。これでもBちゃんは炊事一回につき三時間。精一杯のメニューだ。
医師は渋い顔をしていた。食生活がそもそもどうしようもない状態なのだ。
何も言わない医師に向かってGちゃんが、
「私はね、ガンじゃないかって思うんですよ」
自信ありげに言って笑った。
「今までこんなに調子悪いこと、なかったですからね」
「うううーん……」
お医者さん、困ってます。
「なんかこう、腹がいつもごろごろしたり張ったりして」
「そうですか……」
「この腹、どうにかなりませんかね」
どうにかなってほしいのは腹ではなく性格。と言いたかったが私は黙っていた。
「わっかりました……では内視鏡で診てみましょう」
お医者さんが根負けしてしまった。
二日後に検査予約をとり、前日夜から断食と指示が出てその日は帰宅した。
翌日Gちゃんは電話をよこした。
『胃の薬と便秘の薬と下痢止め、買ってこい』
「明日、病院じゃん。薬が要るならお医者さんに言いなよ」
『あの医者、ダメだ。若すぎる』
「若いから、なんなんだ」
『信用できるか、あんな若造』
「じゃあ自分で電話かけな。医者が若造だ、検査はイヤだ、予約は取り消す、そう言って」
Gちゃんは沈黙した。
なんだってんだ、この意気地なしめ。
『薬、買いに行くのか行かねえのか』
「行かない」
気分を害したのか電話は切れた。
その一時間後、今度はBちゃんから電話があった。
『ねえ、漂白剤ってわかる?』
「わかるよ。何か漂白するの?」
次亜塩素酸ナトリウムは、認知症の高齢者には危険物である。せんだっての二度の掃除で私がGB宅から運び出して、処分してしまったもののひとつだ。
その後、週に一度は私が水回り全域を、オヤのカタキやこれいかにと掃除しまくっているので、漂白剤の出番はないはず……なのだが、
『お父さんが、下痢するのはアタシのせいだって言うの』
「漂白剤を、なんに使うって?」
『アタシにはわかんないわ。でもお父さんが漂白剤がいいって言うから……』
危ない、危ない、危ない。
買い薬の一件を私に断られ、Gちゃんは腹いせに、Bちゃんに八つ当たりした。自分の腹具合の不調の原因を、Bちゃんの台所の掃除不行き届きと責め、漂白剤で台所を掃除しろと言ったのではないか。
「そうか……じゃ、明日、持っていってあげる」
嘘である。Bちゃんは覚えていられないからこれで済むのだ。
翌日、Gちゃんを内視鏡検査に連れて行き、途中で医師から説明があって、急遽、ポリープ除去となった。施術後、医師は透明な検体容器に入った、ゴマの半分ほどの、小さな小さなポリープを見せ、
「これで悪いものは取りましたからね、もう大丈夫ですよ」
胃腸薬数種類が出て事は片付いた。
このゴマ粒はのちの検査で良性と診断が降りた。
さらにこのとき処方された薬のうち一種類は下剤だったので、翌日には薬効が現れ、効き過ぎて悲惨な結果になった。
だというのに、Gちゃんはその後も下剤を飲み続け、もっといけないことになった。
Gちゃんはトイレでの失敗を繰り返し、便座シートと床に敷くマットを買ってこいと、電話が毎日のようにかかってくる。
「効いてきたら、飲むのはやめなさいってお医者さんが言ったじゃん、薬、やめなよ」
『ふん、腐った薬出しやがっただ』
「なら、余計やめたらいいんじゃない?」
『けっ、あの医者、若造が、なんにもわかっちゃいねえ』
おーい、聞いてますかあ……。うち続く下痢で、腹は空っぽになり、渋ったまま何も出なくなる。すると「今度は出ない」すわ便秘、と思うらしくてまた薬を飲む。飲んだそばからまた腹具合がおかしくなる。もうどうにもならないGちゃんである。
偽薬……って出してもらえないかなあ。ビタミン剤かなんかでいいんだけどなあ。そのうち薬を飲み尽くしたか、だんだんに復調していって、結局、なんでもなくなった。
Gちゃんめ、何が『ガンかもしれない』だ。泰山鳴動して胡麻半粒、である。
このときの胃腸専門の病院は、城下北側の急坂の途中にあった。なので、この一連の騒動を『胡麻粒坂の戦い』と名付けることとする。
そうしたことがあったので、
「Gちゃん、一日一回、配食サービスを 利用したらどうだろうね」
ごくおだやか~に話をふってみた。
「高ぇべ」
じつはそうでもない。一食、おかず白飯つきで700円程度。ふたりで一か月四万円ちょっと。本当は二食を配食にすれば栄養状態はずっと良くなるのだが、月に八万円になるとGちゃんの財布が閉じる。
「四万かあ」と、Gちゃんは考え込んだ。
「食べる量も、種類も今のままだと足りないと思うよ。Gちゃんのお腹も入院中はなんともなかったんでしょ」
「そうだ。バーサン、ろくなもの作りゃしねえからな」
「だから、配達してもらって、食べようよ」
「オメエが日に三度、うちに来て作りゃいいだ」
そうは行くか。
「試食サービスもあるから。試してみない?」
「ダメだ」
「なんで」
「バーサンがダメだって言うだ」
言わないよ、そんなこと。
「それにな、配達なんか頼んだらバーサンが働かねえ」
「もう自立できないって先生も言ったじゃん。炊事は無理なんだよ」
「そんなことあるか、バカめが」
「このままだと栄養失調になるよ」
「だから、オメエが来て作りゃいいだ」
水掛け論である。私が朝昼晩と通えないことを知ってて言うのだから、始末が悪い。
説得ならず。諦めて帰宅した。
帰宅してから各配食サービス会社のメニュー内容を比較検討し、
「月四万なら私にもぎりぎり払えるか」
そう考えている自分に気づき、はー……とため息をついた。
こうやって、私が手出しするからだめなのだ。GBの二回崩れで骨身に染みたはずなのに。懲りてない自分。どうしてこう、すぐに「なんとかできないか」と考えてしまうのだろう。
放っておくことも介護のうち。
このころ、私はこの不思議な事実に気づき始めていた。
日常、こころがけて手を出さない。むろん、Gちゃんが思い直して配食サービスを利用したいと言い出したら、手配はする。公的介護を受けたいと言ったら、その道を整える。
それまで、待つ。待ってるあいだに、どんなトラブルが起きようと、災難に見舞われようと、それは彼らが選び取った人生なのである。
そして
Gちゃんの心でも骨でもいい、ボッキリ折れてからでないと介護は入らない。
介護する側の覚悟というのはこういうことなのだ。
と、自分に言い聞かせて配食サービス一覧表を片付けた。
そして記録的な猛暑の夏を経て二〇一〇年秋。
折れはしなかったが、切れた。
切れたのはBちゃんの腸であった。
介護坂は下り坂&老老戦線最後の抵抗ここまで
次回 Gと介護の不思議な世界〜最後の攻城戦 に続く
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