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最後の攻城戦・Gちゃんグループホームに入る

8月。
Gちゃんは精神病院へ保護入院の身となり、とりあえず酷暑漬けの日々は終わった。

せん妄(幻覚と幻聴)はいまだおさまらず、怒りも減じていない。
私のもとへもひっきりなしに電話がかかってくるが、公衆電話の表示であれば電話に出ないという方針を貫いて相手をしない日々が続いた。

Gちゃんからの電話が鳴るのを耳だけで聞いて、私は次なる戦への備えに移っていった。
入院中であっても、眼科と心臓外来には通院の必要がある。
介護タクシーを手配し、院内付き添いを依頼する。
Gちゃんの通院時には介助が必要(脱走を未然に防ぐためにも)。

介護体勢を固めたあとは役所巡り。
市役所へ行き(GB住民票、G戸籍謄本、G戸籍抄本、G所得証明、収入印紙)
娘である私も住民票、謄本が必要である。

家裁へ行き、保護者手続きの審判を済ませ、近隣で唯一の私の従兄宅へ行き(保証人)、集めた書類を揃えて病院へ提出する。

高額医療費・標準負担額減額認定証、入院時食事代減額、入院医療援護金の申請。

……のうち、高額医療費~の一件はGちゃんの年金額が基準を超えていたので、「一般」扱いとなり、入院医療費は44400円。
食事代は一食につき250円のところ210円となる。

申請では税理士作成の税申告書のコピーを病院に全部提出して送ってもらったが、県から電子申告の受理証明書がないと手紙が来て再度申請となった。
病院事務方が申告受理証明書添付を見落としたものらしい。
病院へ連絡してみたが、どの書類を送り損ねたのか、事務方では把握できないという返事であり、私のほうで税理士に電話して書類を確認し再送したら受理してもらえたようだった。


次はGBの家の留守中仕置きだ。
実家へ行き、各家電の電源のうちコンセントを抜けるものは全部抜く。
冷蔵庫内の品物を始末している時間はないので、全部を冷凍庫に入れた。

そこでちょっと冷や汗もの……を見つけた。

冷蔵庫内にあったサトウのご飯である。
3個パックもろとも外袋に入ったまま、各パックの縁も開けずにトースターで加熱したとおぼしき、黒焦げ状態で見つかった。

Gちゃんがご飯を炊き損なったときのために「サトウのご飯を買ってこい」というので、いくつか届けておいたのものだ。
トースターで燃えたら、ヘタすりゃ火事だった。
密封したままレンジ加熱してたら爆発したかも。

1年ほど前には、Bちゃんがご飯を炊き損なったとき、Gちゃんは自分でサトウのご飯をレンジで温めていた。
入院前、それもできなくなっていたのだろう。


ーーーーそれはこんな光景だったかもしれない。

ある朝、G老人はご飯を炊き損なった。

食べるものがない。
サトウのご飯を見つけ出し、ちょうどいいやとトースターに入れる。

スイッチを回す。
レンジで温めるということは忘れている。
一つずつ温めることも、パックの縁を少し開けることも、忘れている。

しばらくすると異臭がしてトースターの中でご飯のパックが燃え出す。

なんで火が出るのか?
驚き慌ててスイッチを切ったが、食べられる代物ではない。

燃えさしのサトウのご飯をトースターから出す。
冷ますために冷蔵庫に入れる。
そしてそれっきり忘れる。

お腹は空いたままだ。

食うもんがねえよう……


惨めだったろうなあ、Gちゃん。
米農家に生まれ、戦時中でも食べるものに、特に米には、不自由したことなどなかった人だ。
歳ふり80過ぎてから、お米のご飯が食べられない。

2階では幻影のノムラカントクさんが選手と一緒に騒いでいて、
「ご飯はまだか」催促するのだ。

惨めな上に、困っただろうなあ……。

Gちゃんは。

悪口雑言は達者だが必要なことは人に言えない。

命令はできるけれど、頼むこと、お願いすることはできない。

怒鳴りつけることはできるけれど、謝ることはできない。

若かったころはそれでなんでも片付いたけれど、今はもう何も、自力で解決することはできないのだ。

自分を見ようよ、Gちゃん。
「できない自分」でいいじゃんか。
SOSを出してくれさえすれば、ここまで無残なことにはならなかったと思うよ……。

さて。
サトウのご飯事件は横において、台所の次は居間と和室の片付け。

箪笥の引き出しの中はやはり濡れたままシャツを押し込んだものと見えて、内部全体が湿っており、中の衣類は悪臭くなっていた。
今すぐ全部洗濯し直す余裕はないので、気休めだけど、引き出しを少しずつ開けておく。
仕置きの途中で、両隣のお宅へGちゃんが入院したことを報せに行き、今までご迷惑をおかけしてきたことをお詫びした。

隣の家の奥さんが、GB留守中のあいだ、雨戸が閉め切りになっているとかえって物騒だから、毎朝、雨戸板二枚ほどを外から開け、夕方閉めてくださると言ってくださった。ありがたいことである……。

雨戸を閉め、窓を施錠し、カーテンを引く。
家中、指差呼称ヨシして安全確認。

ここしばらくは家の手入れはできない。
不在中の備えでホイホイ(置くだけ)駆除剤をそこらじゅうにこれでもかと並べて、玄関から出て、施錠。
仕置き終了である。

GちゃんもBちゃんも、もう二度とこの家で暮らすことはない。
この家は私が独立したあとに建てられた。
だから私は住んだことはない。でも、前の家も含め60年にわたって、GBを見守ってくれた家である。

ありがとう、役目を終える家。
お疲れさんでした。


さて。
次に、やはり金策である。

入院中の個室使用料は1日3150円。
一か月で94500円。
医療費が44400円。
食費ほぼ19000円。
現金保管管理費3150円。
病院施設管理費3150円。
病院預け金一回30000円。
投薬があればお薬代。

しめて月あたり、19万円±α

Bちゃんの外科入院のときは一ヶ月にほぼ7万円。
それに比べるとGちゃんの保護入院は高額である。
でも、Gちゃんの安全が確保できるのだから、お金には代えられない。

ところが。
ここでまた、資金不足問題である。

Gちゃん自身がこうなるとわかっていて入院したわけではないので、通帳もハンコも預かってはいない。
入院費は私が工面しないといけなかった。
3か月入院と仮定して、約60万円。

加えて、ケースワーカーさんから
「今後、グループホーム入所はいかがでしょう」
提案を受けていた。

提案のあったグループホームをネットで調べると、
入居一時金として30万円と少し。
介護費込みで一ヶ月分の支払い17万円弱。
本人準備の家具(ベッド・椅子他)日用品、雑貨などを20万円程度。

しめて、病院と施設とで、120万円ほどが要りようだった。


さあ、どうしよう……

Bちゃんのショートステイと施設入所のときは、私の預貯金をかき集め、足りずに蔵書を売り飛ばして金策したが、それはもうできないし、全然足りない。
Gちゃんの金庫に通帳はあるけれど、金庫の鍵がどこにあるのかわからない。

以前、GBに付き添って何度か行った銀行(メインバンク)に、事情を話して私の戸籍謄本と免許証、Gの保険証と、Gの印鑑、裁判所の保護者審判書謄本で、Gちゃんの貯金をどうにかできないか…と相談したが「無理ですね」それこそ一蹴、である。

まあ、銀行さんですから、当たり前かな。と思われた。
信金も信組もゆうちょも対応は同様で、金策はスタートから行き詰まってしまった。

Bちゃんの通帳を取り出して考えた。
「夫婦間でも110万円を超えると贈与税がかかりますよ」
と銀行員は言ったけれど、Bちゃんの口座からお金をおろして、それを何に使ったかなんて銀行や税務署にわかるか?
こうした場合の贈与税はいったいどこの誰が調べて請求してくるのだろう?
たとえばせんだってのBちゃんの入院費4か月ぶんのうち、2回はGちゃんが、2回は私が払っている。
年間の生活費も、GBの年金額から察するに、ほぼGちゃんが出していただろう。
そこに課税されたなんて話は聞いたことがない。

この際、人道的使用ということで、Bちゃんから借りることにしたらどうだろうか。

Gちゃんはいずれ自分の資産を管理できなくなり、私に手続きその他を丸投げしてくるだろう。
グループホーム入居を順調に進められれば、そのあとで、できれば年内に、Gちゃんの口座からBちゃんの口座へ返せば贈与にならない。
それでいいんじゃないか?

後日、銀行へ行き、Gちゃんに必要な経費をBちゃんの口座からおろした。
Bちゃんの通帳と印鑑を預かっておいて本当に良かった。
これがなかったら私はサラ金に走らなければならなかったかも。万事休すだった。

Bちゃんの通帳は今や、GBふたりの命綱である。

ふたりがどれくらいのお金を使っているのかは、昨年、Bちゃんが入院したときから出納帳をつけて、一円と違わず記録してある。
じつは私は、金銭計算が大嫌いで、昔のあだ名は本名+マリア・ドンブリーナ。
まあ、たいがいどんぶり勘定であり、毎年の所得税の申告なんて面倒でヤでヤでしょうがない……ので、ここ10年ほどの申告は税理士さんに丸投げである。
しかし今回はBちゃんのお金なので、税理士さんに頼むわけにはいかない。
四苦八苦しつつ丁寧に、できうる限り正確に記載していった。

Gちゃんのグループホーム入所のための金策が整ったのち、病院のケースワーカーさんに連絡した。
しばらくすると、グループホーム長さんから、
「一度、見学がてらおいでください」
と、電話がかかってきた。
ホームへ出向いていって、ホーム長さんと面談し、現状と既往症、通院等について話した後、Gちゃんを含めた三者面談を行う方向へ、話は進んだ。

入院一か月を少し過ぎたころで、Gちゃんはちょっとだけ、おとなしくなっていた。
日に10数回の公衆電話も、この頃になると日に3回程度に減っていて、会った感じでは、せん妄は減ったか消えたか、話題には上がってこない。

三者面談中、Gちゃんはホーム長さんの説明をどれほど理解していただろう。
グループホームはGちゃんの知識の中にない。
話を聞き終えたあと、Gちゃんは、
「ホームってやつは……私には無理だと思うね」
ぼそぼそと、呟くように言った。
「人に気を遣うのも……もうイヤだしね」
そうだろうなぁ。
家で唯一の暴君として君臨していたときのようにはいかないもんね。

あまり手応えはなく、面談を終えてホーム長さんは帰っていかれた。
グループホーム入所の、基本の基は「本人が入所を理解し、同意すること」なので、Gちゃんにはつらいかもしれないが、もう少し、干さないといけない。

果たせるかな、2日ほど経ってからの電話で、
『なにがホームだ、バカめが!』
想像通り、Gちゃんは怒りシントーニ・マックスであった。

『よけいなことしやがってオメエはよ』
「Gちゃん、家でひとりで暮らすのは無理だと思うよ」
『何が無理だ、今までだってひとりでやってきただ』
「今まではそうでも、これからのことは別」
『しのごの言ってねえで、迎えに来い』
「行かない」

あまりにはっきり拒否されたので勝手が違ったのだろう、Gちゃんは黙り込んだ。

「第一、退院許可、出てないでしょうが」
『オメエが来ればいつでも退院していいと医者が言った』
「聞いてないな、そんな話」
『オメエは黙って迎えに来りゃいいだ』
「お医者さんが退院していいと言ったらすぐ行くけど」
『俺が出るっていったら出るだ!』

前触れなく電話は切れた。
この電話のあと、夜討ち朝駆け電話再び、みたいな状態になった。
放置一手で知らん顔、怒っているうちは相手にしない。

その間、私はあちこちのデパートや衣料品店に行き、Gちゃんのホーム用ベッド、ベッドマット、箪笥、布団、枕、シーツ、パジャマ、下着、衣類など、次々と買いそろえていった。

グループホームへの振り込み専用口座を作り、入居金の支払いを済ませ、契約書の記入を終え、提出書類も揃った。
あとは入居後、不足のものがあれば少しずつ買って届ければいい。

入居先の介護士さんにお見せする各病院のリスト、既往症一覧表、処方されている薬の
一覧表など、ほぼ全部の準備が整ったのは10月半ば。

このころになるとGちゃんからの電話回数は日に二回程度まで減っていた。

ある朝、Gちゃんからの電話に出てみると、
『ホームてのは……どういうところだ?』

山が動いた。

「放っておくことも介護のうち」戦法の、ささやかな、しかし明確な勝利であった。

10月末、Gちゃんグループホーム入居。

Bちゃんの結腸が切れた日(事変勃発)から、数えてちょうど12か月と12日めのことである

これをもってGB包囲網戦は終戦を迎えた。

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さて、高齢者ふたりの余生と往生とそののちのあれやこれやで戦後処理に6年。
▪️保険金奪還戦争勃発
Gちゃんの死去にともない
▪️遺産相続問題
▪️成年後見人問題
Bちゃんの死去ののち
▪️墓問題
▪️家屋処分問題
等の、解決せねばならないあれこれが続きます。

どれもこれも、戦中は必死だったけれども、振り返ってみると笑えるエピソード満載だったと思います。
また、介護と終末期含めての雑感、高齢者介護をする上で避け得ないいくつかの問題については、番外編にまとめました。

本編番外編ともに、笑ってお読みいただけたら幸いであります。
最後までおつきあいくださりありがとうございました。



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