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母に学ぶ 地域コミュニティの真髄

「地域コミュニティ」なんて言葉には、1ミリたりとも興味がないであろう、うちの母。清掃活動とか”火の用心”といった町内会の活動には最低限参加するけど、積極的に動くタイプではない。マイペースに適当に平和に生きている母から、こないだ意外な形で「これが地域コミュニティの真髄か」と学んだ出来事があった。




「火傷をしたから散歩に行く」?


料理をしている途中で火傷をした母。


「火傷したから、ちょっと散歩してくる」と言って出て行った。火傷したから散歩? どういうことだ。

10~15分ほどで帰ってきた母の手にはアロエの葉があった。

「火傷にはアロエが効く」というのは母の母、つまりわたしの祖母直伝の、いわゆる”おばあちゃんの知恵袋”。母は、アロエを求めて近所を歩いて回っていたのだ。

最初に行ったAさんの家は「ちょっと今、手が離せない」ということで、次はBさんの家に行ってゲットしたとのこと。

アロエがあるかは知らなかったが、AさんもBさんも草花の鉢がたくさん置いてある家だったので、とりあえずピンポンを鳴らして聞いてみたらしい。


AさんもBさんも母とは約40年来の付き合いなので、気軽にピンポンを押せる仲なのだろう。ただ、Aさんはよく話しているが、わたしは母がBさんと話している姿を見たことがない。わたしが知らないだけだろうが、まさか突然アロエをもらいに行ける関係とは思わず、ちょっとびっくりした。

(わたしは子どものころから人の顔や名前を覚えられず、近しい関係でないと、ご近所さんでも分からない。ということで、Aさんは分かるけどBさんは分からない。親の近所づきあいもイマイチ把握していない)


母の思考回路を整理すると、

火傷した
→ アロエがほしい
→ でも家にない
→ 近所で育てている人がいるだろうから、もらいに行こう

ってとこだろうか。

よくわからんけどすげーな、、と感心していたら、用事を済ませたAさんがわざわざうちに来てくれた。「火傷をしたからアロエが欲しかったのよ~」と母が説明すると、「そうでしたか! うちはアロエないんです」とAさん。あらそうなの~、そうなんです~、みたいな会話をしてAさんは帰った。


数日後、「まだ火傷が治らない」と母はふたたびBさんにアロエをもらいに行った。「また行くんかい!」とまたびっくり。

さらに数日後、気づいたらうちにアロエの鉢植えがあった。「え、なにこれ?」と聞くと、Cさんと立ち話をしていて、母が「火傷してアロエ塗ってるの」というと、「うちのあげるわ」とくれたらしい。


みんな優しい。


薄くなっても消えてない


確かにわたしの幼少期は、当時でも絶滅寸前の「3丁目の夕日」のような濃いコミュニティの雰囲気があった。けど、そんなことも今は昔。最近はご近所同士の立ち話も少なく、かなり静かになっていた。マンションが建ったり世代交代も進んでいる。しかし古い関係性は静かに続いていた。


普段はすれ違いざまに挨拶するくらい。家の前や道でばったり出会ったらしゃべるけど、そんなに深い付き合いでもない。けど、困ったときはお互いさま。

こういう緩い関係っていいよなあ。母と歩んできた人生が違うので仕方ない面はあるとはいえ、わたしはそういう関係を築いてきてなかったな、と少し反省した。とりあえずご近所さんの顔覚えなきゃ。。


自分のいる場所が「居場所」


ちなみに、母はいつも家の前の草花の手入れをしている。うちは人通りの多い道なので、特に通勤通学時は老若男女があいさつしてくる。どこに住んでるかよく分からない人も声をかけてくるらしい。おそらくだが、母と立ち話するために回り道する人もたまにいる気がする。

人間関係が希薄になってきているけれど、本当はコミュニケーションを取りたいという人も多いのだろう。昔は頑張らなくても、放っておいてもなんとなくつながってる気がしたけど、今はどこか特別な場所が必要という感じがする。「居場所づくり」なんてことばもよく聞く。


わたしはどちらかというと、無理にコミュニケーション取る必要はないと思うタイプだが、なさすぎるのもそれはそれで寂しいもんだ。いまはネットがあるから、距離に関係なく、気の合う人や通じ合える人とだけ繋がれる。実際、趣味の世界で繋がるのはアリだし、方向性が同じ人の方が理解が早い。


ただ、地域となると少し話が変わってくる。「別に、地域で繋がりなんてなくても、ヨソであれば大丈夫なんじゃない?」っていう思いもどこかにあった。「地域コミュニティ」とか「活性化がうんぬん」とか敢えていうと、息苦しさを覚えるし。


でも、そんな声高にいわなくても人と繋がることはできるのだ、ということに今回初めて気づいた。明確な意志を持って集まった人たちではないけれど、少なくとも「この土地に住もう」と思ったのは共通なわけで。それが偶然だとしても。


偶然居合わせた土地や狭い関係性に縛られる必要はない。ただ、それなりの距離感の関係っていうのはできる。屁理屈かもしれないけど、必要なのは「居場所づくり」ではなく、「どこに行くでもなく、どこでも居場所」だった頃の関係性を取り戻すこと。あ、そのきっかけがとりあえずの人工的な「居場所」なのか。


シンプルだけど大事なこと


母の場合、長年にわたって関係性を築いてきたということもあってご近所さんとのつながりが濃いのは確かだが、やっぱり”あいさつ”が大きいんじゃないかと思う。

うちは見通しの良い道にあるので、みんなの目に留まりやすいのと、母が元気で愛想がよいので声をかけやすいのが理由だろう(わたしだったら声をかけられない気がする、、)。名前も知らない人が挨拶してくれたり、小さい子どもとよくしゃべっている。最近は自転車で通る外国人留学生? もあいさつをするらしい。


先日は、「ちょっとDさんの家に行ってくるわ~」と家庭菜園で育てたゴーヤを手土産に出かけていった母。先月はトマトを通りすがりの誰かにあげていた。昨年はEさんやFさんから大量の庭木の果物をいただいた。わたしは愛想はないがお菓子作りが得意なので、おいしいお菓子に加工して母経由でお返しした。すると、母の留守中にEさんが来て「あら、こないだはお菓子ありがとう。とってもおいしかったわ」などと言ってくれて、「いえいえこちらこそ」と、Eさんの顔と名前を覚えるチャンスが巡ってきた。

人の顔が覚えられないのでご近所づきあいに苦手意識はあるけど、こうして自然に交流できるのは母のおかげであり、ありがたい。褒められるとうれしいので、またお菓子プレゼントしよう、なんて張り切ったりもする。


近所にはわたしのようなコミュ障気味の人はほかにもいる。わたしは母に助けられているけど、そうじゃない人もいるだろう。でもどんな人だろうと、頑張ることなく、そのままでくつろげる場所だったらいいな。特別な場所でなく、生活の基盤を置いている場所なのだから。そして、やろうと思えばできるはず。千里の道も一歩からということで、とりあえずわたしは人の顔を覚えてあいさつ、かな。

***

アロエの一件のあとしばらくして、新聞のテレビ欄で「火傷にアロエが効くのは間違い⁉」みたいな文言を発見した。なんというタイミングでしょう。母に教えてあげると「ええー?」と言っていたがそのまま忘れていた。ま、そんなことはどっちでもいいのよ。



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