2019.02.04函館教育大学韓国語授業資料「自分を支える言葉」

「ことばの力学」

~自分を支える言葉の話~ 

最終回は、「ことばの力学」のお話です。同名の書籍を白井恭弘氏[1]が出していますが、あちらは「応用言語学」の本で、今日お話したいのは、「ことばが私たちに与えてくれる力」のお話です。ちょっと

言語学や言語教育を勉強していると、夜中に寝ている時に、ふと、「“ことば”とは一体なんだろう?」と思い浮かぶことがあります。ハングル文字がテトリスブロックのように落ちてきて、押しつぶされそうになる寸前で目が覚め、「何だ、夢か」みたいなことはさすがにありませんけど、「ことばが人を動かす」とか、「ことばによる力」とか、「ことばで人生が変わる」とか、世の中には宗教染みた、「ことば」にまつわる言説が溢れていて、ことばについて「あーだこーだ」いろいろ考えたくなってしまいます。人はなぜ「ことば」を学びたがったり、研究したがったり、時には辞書づくりみたいに「コレクション」したくなってしまうんでしょうか。

辞書を作る苦労話の小説「舟を編む(三浦しをん)」は名作ですけど、ことばに魅せられると、あそこまで狂ったように(いい意味で)人生を辞書編纂に捧げられるのかと驚いてしまいます。また、日本の朝鮮語研究の大家、塚本勲の「朝鮮語を考える」(白帝社,2001)[2]には、先祖代々の山を売って辞書づくりに励むエピソードが出てきますが、韓国・朝鮮語が好きと言えども、自分にはあそこまでできないなと呆れ畏敬の念を禁じえません。今年は、韓国で「말모이」という、日本植民地時代に辞書編纂に勤しんだ方々の物語を映画化したものが公開され、辞書づくりは「ちょっとした」話題になってたりもします[3]。

<韓国で今公開中の映画「말모이」(2019)>

 

1940年代、韓国語がだんだん消えていく京城(植民地時代のソウルの名)を舞台に、とある切っ掛けから朝鮮語学会の辞書編纂に参加することになったパンス(文盲)。そのパンスの視点から、「ことば集め」の過程を描き出す。お金ではなく、「ことば」をなぜ集めるのか疑問を抱いていたパンスだったが、生まれてはじめて文字を読み、母国語の大切さに気づいていく。しかし、日本の監視を避けながらの方言集めが難航。果たして辞書を完成させることはできるのか。光州事件を扱った映画「タクシー運転手」の脚本家、オム・ユナが演出で参加している作品。

 さて、辞書編纂者には適わないにしろ、「ことば」に力があることは、私たちはよく知っています。歌の歌詞に救われたとか[4]、林修先生の「いつやるの?今でしょ」に感化され受験を頑張れたとか、友達の言葉で部活をがんばれたという人もいるでしょう[5]。人は必要な時に必要な言葉に出会うものです。

 先日、教育出版の小学6年の教科書を読んでいたら、「自分を支える言葉(岡本夏木)」という文に出会いました。そこには、養護学校(現特別支援学校)に勤めていた筆者が、中学の卒業式で体験したエピソードが書かれています。普段人々と交わることが不得手で、過去の小学校の卒業式では、卒業証書授与の壇上に上がることができなかったある生徒がいました。しかし、中学の卒業式でその生徒は、りっぱに一人で壇に上がってきたそうです。さらに、壇上のその生徒の様子をよく見ると、彼が何かつぶやいていることに筆者は気づきます。

 

―やがて、彼がつぶやいているのが、一つの言葉の繰り返しであることがわかってきた。

「どうもない、どうもない。」身を洗われるような感じが、私を走った。その子は、集団行動に加わるのをおそれるときや、プールに入ることができないときなど、先生や友達からは、「どうもない、どうもない、だいじょうぶ、がんばれ。」と、事あるごとにはげまし続けれれていたのである。「どうもない。」という語は、彼が最も多く周囲の人たちから投げかけられてきた言葉であろう。(中略)その彼が、今、私の前で、日頃みなから言われてきた言葉を自分で用い、自分で自分をはげましながら、必死に不安にたえようとしているのであった[6]―

 

この文からは、自分を支える「ことば」を得る大切さが伝わってきます。「ことば」というのは誰のものかというと、結局「自分のもの」なわけです。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出る全ての言葉によって生きる」とは聖書の言葉ですが、宗教問わず、「ことば」によって生かされるということはご理解いただけると思います。あまり宗教や政治的な話には踏み込みませんが、今どこかの国で、自分の「ことば」を奪われたり、使用を禁止されたり、ということが起こっていることを心に留めておきたいところです。

最後に、私が「ことば」の力を感じる詩を紹介して終わりたいと思います。本当に心が動いたというか、「ことば」の力をまざまざと見せ付けられたのは、この詩がはじめてでした。東日本大震災の被災者の方々が、自分たちに送られた支援や応援メッセージに対して「ありがとう」を伝える詩集の中の一篇で、菊田心さんという人が11歳の時に書いた詩です。この詩はラジオで朗読されていて知ったのですが、朗読者が詩を読み終えたその瞬間、涙が溢れてとまらず、嗚咽しながらラジオを聴き続けたのを覚えています。何の迷いもなく、まっすぐ発せられる、この「ありがとう」は、今まで聞いた「ありがとう」とは比べ物にならないものでした。詩を聞いた後、自分にはこのような「ありがとう」を発する心を持ち合わせていないと思うと同時に、自分が持つ「ありがとう」の未熟さに気づきました。明らかに私の知っている言葉の質と重み、そして厚みが違いました。「ことば」の質量を全身で感じた驚きを今も忘れられません。詩は、 https://www.kahoku.co.jp/arigato/ で読むことができます。

もう一つは、尹東柱の「序詞」です。この詩の「一点の恥じることのないことを」や「そしてわたしに与えられた道を/歩いていかねば」という句は、思うようにいかない時や情けなさを覚える時、私を勇気付けてくれます。本当は「植民地時代」という時代背景を考えながら読まなければいけない作品なのですが、現代にも、そして国境を越えて読み継がれるのには、普遍的なテーマがあるからだと思います。この詩は、音読するとわかるのですが、リズムと韻が綺麗で、なおかつ言葉の意味心にすーっと入ってくる感覚にとらわれます。機会があれば、ぜひ映画「동주」の中で朗読されているものを聴いてみてください。

 

 

尹東柱「序詞」(翻訳は映画「동주」内の日本語字幕より)

 

죽는 날까지 하늘을 우러러

死ぬ日まで天を仰ぎ

한 점 부끄럼이 없기를

一点の恥じることのないことを

잎새에 이는 바람에도

葉あいに起きる風にさえ

나는 괴로워했다.

私は思い煩った。

별을 노래하는 마음으로

星を歌う心で

모든 죽어 가는 것을 사랑해야지

全ての絶え入るものをいとおしまねば

그리고 나한테 주어진 길을

そしてわたしに与えられた道を

걸어가야겠다.

歩いていかねば

오늘 밤에도 별이 바람에 스치운다.

今夜も 星が風にかすれて泣いている。



[1] 言語教育を勉強する人は、白井恭弘(2013)「ことばの力学―応用言語学への招待」(岩波書店)と、白井恭弘(2008)「外国語学習の科学―第二言語習得とは何か」(岩波書店)を読んでおいてください。初心者でもスラスラ読めると思います。

[2] 小○館の朝鮮語辞典という、日本の韓日辞典の金字塔があるのですが、実はこれ、塚本勲先生の朝鮮語大辞典の定義を結構パクっています。「朝鮮語を考える」を読むと、実名こそ出していませんが、小○館のパクり行為についてかなりご立腹で、「人が苦労して編んだ辞書を参考に辞書を作るなんて何事だ云々」かなり罵っておられます。余談ですが、塚本先生が大阪外大退官直前のころ韓国語を習っていた方に、「塚本先生ってどうでした?」と尋ねたところ、「退官前の1年は、授業でずっと辞書編纂の苦労話を聞かされつづけて、授業にならなかった」と言っていました(でも話は面白かったそうです)。

[3] まあ、とにかく、ことばに魅せられ、ことばの魅力を伝えようとした人々がいるからこそ、私たちは今「ワンクリック(ワンタッチ?)」で辞書検索が容易にでき、ことばの意味を知り、学び、ことばが使えるようになっているわけです(一部は現代科学に感謝ですけど)。

[4] 阪神淡路大震災直後にSMAPが「がんばりましょう」をMステで歌ったことにより、当時多くの人に希望を与え、彼らのそれ以後の国民的大スターの地位を確立したと言われています。

[5] ちなみに私は大学時代、韓国で日本語教師したいなぁ、でも情報工学専攻だし無理だよなぁとアルクの「日本語教育能力試験に合格する本・平成16年度版」を眺めていたところ、大学の指導教授に、「なんで、できないと思うの。やってみればいいじゃない」と言われたことが契機となり、試験にも合格し、韓国で日本語教師を7年続けられました。普段は何だか頼りなさそーな教授(M先生ごめんなさい)だったんですけど、その時だけはすごい真面目な感じで当たり前そうに言ってくれたので、「だめだと思う前にやってみればいいや」と思えた一言になりました。この教授は卒業後の就職よりも渡韓を選んだ私に「馬鹿だな就職しないで、モラトリアムか。人生詰むぞ」と苦言を呈するのではなく、当たり前に韓国行きを応援してくれました。大学院進学の際も、快く推薦文を書いてくださったことに心より感謝いたします。

[6] 岡本夏木(2015:135)「自分を支える言葉」『小学国語6下ひろがる言葉』教育出版

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