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精神科医R.D.レイン論 1-① クレペリニズムの裏面へ

クレペリンの講義にて

1900年頃のドイツ、病院の講堂にて。

統合失調症や躁うつ病の疾患概念をまとめあげるなど、今日の精神医学の礎を築いたエミール・クレペリン教授は、「緊張病性興奮」――今日で言う統合失調症の一亜型――と診断された一人の患者を講堂に招き入れる。その昔は、医学教育のために、講義の舞台で実際に患者を診察してみせる、といったことがしばしば行われていたのだった。

本日諸君にご供覧にいれている患者はほとんどかつがれるようにして入室しなければならなかった。[…]患者は目をつぶったまますわり、周囲に全く注意を払わない。話しかけられても見上げようともせず、はじめ低い声で答え、だんだん大声を張り上げる。いまいるのはどこかと尋ねられると彼は言う。〈あなたもそれを知りたいの。だれが判定されているか、判定されるか、判定されることになっているか、わかっている。みんな知っている。お話できる。でもそうしたくない〉と。名前をきかれると彼は声を張り上げる。〈あなたの名前は何というの。彼は何を閉じているか。目を閉じている。何を聞いているか。彼は理解しない。理解しているのじゃない。どんなふうに?だれが?どこで?いつ?彼は何を言おうとしているのか。私が彼に見るように言っても、彼はちゃんと見ない。ほら、ちょっとみてごらん。これは何ですか。どうしたの。よく見て。しかし彼は見ない。ねえ、いったいどうしたの。なぜちっとも答えようとしないの。また鉄面皮になろうとしているの。どうしてそんなに鉄面皮になれるんだ。私だよ。教えてあげよう。だが、あなたは私のために売春しない。生意気になっちゃいけないよ。鉄面皮な不潔な野郎だ。[…]〉。しまいに彼は全く言葉にならない声でわめく。

(R.D.レイン『引き裂かれた自己』(以下DS)邦訳p32)

そして、クレペリンはこう付け加える、「彼は疑いもなくすべての質問を理解したけれども、有益な情報の一片もわれわれに与えなかった。彼の話は…ただ一連のばらばらの文章にすぎず、全般的状況になんらの関連も持たなかった」(DS32)、と。

さて、今日の私たちは、レインが処女作の導入部で引用しているこの一場面に何を読み取り、何を聞き取るだろうか。

クレペリンが解説するような、緊張病ゆえの滅裂な言動や、脈絡のない興奮、といったものであろうか。

しかし実際には、クレペリンの精緻な描写によって、百年の時を経て浮かび上がってくるのは、皮肉にも、精神病の何たるかよりも、精神病と診断された者の、ひとつの叫びである。レインによるコメントを待つまでもなく、この患者は「このような尋問形式にひどく憤慨しているのであろう[…]彼は判定されたり検査されたりすることに抗議している。彼は自分の本当に言わんとするところに耳を傾けてほしいのである」(DS32)ということが、分かる。

ただし、ここでレインは、必ずしも診断そのものの是非――「この患者に精神病という診断は誤りだ」とか「精神科の診断などそもそもレッテル貼りに過ぎない」といった――を問うているわけではない。それよりもまず、精神科における「診断」が、どのように「機能」してしまうのか、ということを問うている。

有機体/人間 ――2つの経験的ゲシュタルト

主流派精神医学の権威たるクレペリンの講義録の中から、あえてこのような箇所を抜き出してくるこの感覚、客観的であるはずの症状記述の背後にある叫びを聞き取らずにはいられない感性。そこにはすでに、レインの一貫したエートスが現れている。それも、単に情緒的な共感といったものではなく、確たる一つの方法論として。

精神医学的な症例記述のほとんどは、クレペリンが報告したような具体的やりとりまでは描かれていない。しかし実際には、このような直接的なやりとりなくして、その「症状」や「診断」を見定めることはできない。だから、記述からこぼれ落ちているとしても、程度の差はあれど常に、標準的な教科書に記述されてあるのは「精神科医をも含む行動野の中での人びとが示す行動」であり、「患者の行動はある程度、同一の行動の場における精神科医の行動の函数」であり、つまりは「標準的精神科患者は標準的精神科医の函数であり、また標準的精神病院の函数」(DS31)だ、ということになる。

このように、患者を一個の「対象」として――独立し、孤立し、自己完結した対象物として――みるのではなく、あくまでも、他者との関係性において理解する、あるいは関係性そのものとして理解することが、いつも、レインのアプローチにおける通底音として、ある。とはいえ、そのように語るのは、「客観的に理解しようとしても、主観的にならざるをえない」などといった、否定的な側面を単に強調したいがためではない。「客観的」「中立的」とみなされているものが常に適切なのか、ということ自体を問うているのだ、とみるべきだろう。レインは次のようにも述べていた、

より〈科学的〉であり〈客観的〉であろうとする臨床精神科医は、眼前の患者の〈客観的に〉観察可能な行動にのみ自分を限定すべきだというかもしれない。これに対するもっとも簡明な答えは、それが不可能だということである。〈疾病〉の〈徴候〉を認めるということは中立的に見るということではない。微笑を口輪筋の収縮と見ることはなにも中立的ではない。われわれはある人物と関係を持つやいなや、彼を何らか特定の仕方で見、〈彼の〉行動にわれわれの説明や解釈を加えずにはいられない。患者の側の反応性の欠如のためにわれわれが立往生し当惑させられ、われわれの接近に答える何者も存在しないとわれわれが感じるようなネガティヴな場合でも、事態は同様である。(DS35)

人が人として人にかかわるかぎり、避けることのできない視点。それは、単なる因果関係ではなく、人と人との「関係性」において「意味」を理解する、という視点である。そのことを、レインは「一つの図像に対する二つのゲシュタルト」というアナロジーを用いて、こう説明している。

(図: ルービンの壺)

花瓶とも見え、あるいは、互いに向い合ったふたりの顔とも見える一つの図形[…]。私はあなたを、私と同じもうひとりの人間と見ることができる。[…]私はあなたを、一つの複雑な物理‐化学体系と見ることができる。[…]他者が人間と見られたり、あるいは有機体と見られたりするのは、ことなった志向作用の対象となるからである。目前の対象のなかに精神と肉体という二つのことなった本質もしくは実体が共存しているという意味での二元論ではない。人間(person)と有機体という二つのことなった経験的ゲシュタルトがあるのである。(DS19)

そして、二つのゲシュタルトがあるということは、精神症状を見極めようとする際にも同じように当てはまる。

ある患者に目を注ぎ耳を傾けて分裂病(一疾患としての)の〈徴候〉を見出すことと、単に一個の人間存在としての彼に目を注ぎ耳を傾けることとは、根本的にちがった仕方で見かつ聞くことであって、例の両義的な図形の中にまず花瓶を見てとり、ついで顔を認めるのと同じである。(DS38)

ここで注意すべきは、レインがわざわざ、これは「精神/肉体」の二元論のことではない、と付け加えている点である。レインは「二つの経験的ゲシュタルト」という表現によって、「こころ」と「からだ(脳)」の二元論(両者を分断した上でさらに両者を”統合”して「人間全体をみる」とする論もしかり)とは異なる次元での話をしている、ということだ。例えば、心理的な「防衛機制」や「無意識の構造」といったものの存在を仮定する見方であっても、それらが一つの個体の内部で完結したものとみなしている場合には、「物理化学的システムとして見る」ということと同じ側にある、と言える。

レインが提示していることは、ある意味では、きわめて単純なことだ。

「私はあなたを、私と同じもうひとりの人間と見ることができる」――そう、そこには、「あなた」だけではなく、「あなた」を見る「私」という、もう一人の存在がすでに前提とされている。

そのときに生じていることは、二つの物体が横に並んでいる際に生じていることとは違う。

この単純な事実から始めようとするのだ。

(つづく)


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