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「非正規雇用」はどんなふうに社会にひろがっていったのか

■「非正規雇用」の発見
 先に「子どもの貧困」の章で見たとおり、日本社会はこの30年でかつての豊かさを喪失し、坂道を転げ落ちるように貧困や格差の蔓延する残念な社会へと転落しました。相対的貧困を測る指標はその人の年間所得ですので、要は所得を減らした人びとが社会のなかに大量に生まれてしまったということでした。
 では、人びとの所得が減ってしまったのはなぜでしょうか。人びとがこの30年間に以前より働かなくなったわけではありません。長時間労働は相変わらず日本社会の課題であり続けています。労働時間の長さにも関わらず総所得が減っているのは新たな雇用のしくみが導入されたから。それが非正規雇用なのです。
 非正規雇用を前提とする社会は、労働者派遣法(1986年)、パートタイム労働法(1993年)などによって生み出され、それらが改正を重ねるたびに整えられ、1990年代末から2000年代初頭、自民党・小泉純一郎政権のもとで完成に至りました。この時期、若者を中心に非正規労働者が全国的に急増します。
 こうした労働の非正規化の社会的リスクが明らかとなるのは2008年のこと。この年、まずは6月に若者文化の街・秋葉原で派遣労働者の若者による連続殺傷事件がおこります。その約半年後には、リーマンショックに端を発する世界同時不況、そのもとでの派遣切りが横行。非正規労働の現状が明らかとなりました。
 前者は、派遣労働者として見知らぬ街に送り込まれ、そこで知り合いもつながりも不在のまま寮と職場を往復するだけの孤独な若者がおこした事件。犯行の動機は彼が居場所にしていたインターネットの掲示板サイトが匿名の誰かに荒らされたことでしたが、その背景には派遣労働に由来する深い孤独がありました。
 後者は、派遣切りにより師走の寒空のなか社員寮を追い出された数多くの若者たちがホームレス化したできごとです。その窮状に対し複数の支援団体による「反貧困ネットワーク」が日比谷公園で「年越し派遣村」という難民キャンプを開設、それがメディアにとりあげられ、多くの人びとの知るところとなりました。
 
■正規雇用/非正規雇用とは?
 ところでみなさん、「非正規雇用(非正社員)」――あるいは「正規雇用(正社員)」――とは何をもってそう言うか、ご存じでしょうか。これらは「身分」――近代以前の社会に存在していたあの「身分」――と同等であるような二つの地位ですが、では両者の違いはどういったところにあるのでしょうか。
 まずは正規雇用から。正規雇用とは、①常勤(フルタイム)であること、②期間の定めがないこと、③使用者に直接雇用されていること、の三点がすべて満たされているような雇われかたを指します。これらのうち、どれか一つでも欠けていれば、その雇用形態は非正規雇用ということになります。
 では、非正規雇用とはどんな雇われかたでしょうか。正社員の要件である①常勤に対しては「非常勤(パートタイム)」、②無期雇用に対しては「有期雇用(期間の定めあり)」、③直接雇用に対しては「間接雇用」が非正社員の特徴となり、これらのどれか一つでも該当すればその人は非正社員ということになります。
 つまり、非正規雇用で働く人びとの内実はかなり多様なのだということです。非常勤(パートタイム)で働く人びとの典型は学生アルバイトや主婦パート、有期雇用で働く人びとの典型は臨時社員や契約社員、そして間接雇用の典型は派遣社員ということになります。労働者全体の約4割がこうした非正社員です。
 このうち、ゼロ年代に急増したのが派遣労働者でした。彼(女)らは派遣会社に登録し、指示された派遣先に仕事をしに出かけます。派遣先の職場では指揮命令は派遣先企業が行うため、派遣会社の説明とは違う業務に従事させられたり、派遣先の職場で差別的な処遇を受けたり、といった事態が発生しがちです。
 加えて、ゼロ年代初頭には、規模の大きな企業がその人事部門を別会社として独立させ、従業員に従来とまったく同じ仕事をさせながら、その身分を正社員から派遣社員に切り替えるような待遇切り下げを行うための「派遣会社」がたくさんありました。こうした被差別の身分であることが、非正規雇用の本質です。
 
■「非正規雇用」はどんなふうに始まっていったか?
 もともと派遣労働とは戦前日本でふつうに見られた働きかたでした。例えば、東北の貧しい農村、不作で食うに困った家族があったとします。そこに都会から人買いがやってきて、その家の若い娘を買っていきます。少女は遠い土地に送られ、そこで年季が明けるまで工場労働やセックスワークに従事せねばなりません。
 そう考えると、派遣会社とはかつての人買いと機能的に等価な存在です。こうした非人道性のゆえに、それは戦後の日本国憲法のもとで禁止され、しばらくは日本社会から(公式には)姿を消していた働きかただったのです。それが再び解禁され、姿を現わしたのが40年後の1986年のことでした。
 産業構造の高度化――消費社会の進展――により、企業の短期的なニーズに応えうるような雇用のかたちが求められるようになった、というのが労働者派遣法成立の背景でした。このときは一部の専門的な業種に限る、条件つきの派遣労働解禁にすぎませんでしたが、後にその条件が次々に取り払われていきます。
 決定的な転換点は1995年。戦後50年目のこの年、経団連(日本経済団体連合会)の前身団体の一つ・日経連(日本経営者団体連盟)が「新時代の日本的経営」というレポートを発表します。そこで宣言されていたのが、これからは従来の日本的雇用をとりやめ、労働者の処遇を改めていく、というものでした。
 そこでは労働者が三つのカテゴリーに分類されています。すなわち、①長期蓄積能力活用型グループ、②高度専門能力活用型グループ、③雇用柔軟型グループで、①は幹部候補が該当する従来通りの正社員、②は上述の専門職派遣、そして③は企業の都合で自由に使い捨てできる一般職派遣、をそれぞれ指していました。
 バブル経済破綻後の不況のさなか、企業を身軽にするべく出された日経連のこのレポートですが、その提言は90年代末以後、自民党の小泉政権による構造改革のもとで現実化されていきます。1999年/2003年には派遣法改正によって規制が緩和され、最終的にはあらゆる職種で派遣労働が可能となりました。
 
■「非正規雇用」のその後
 かくして、ゼロ年代を通じて日本社会に派遣労働を核とする非正規労働がじわじわと広がっていきました。その帰結は、本章冒頭で述べた通りです。これまでと同じ、あるいはこれまで以上に働いているのに賃金はあがらない、それどころか下がっていくようなことがおきていきます。下がるのは賃金だけではありません。
 職場では、非正規雇用の人たちに対する差別や攻撃が蔓延し、それが今度は正規雇用の人びとにも影響を及ぼしていきます。「あんなふうに(非正規みたいに)なりたくなければ、言うことを聞け」というように、正社員の労働もまた強化されていきます。かくして、雇用劣化のスパイラルが回っていくわけです。
 こうした排除に対する怨念や鬱屈が爆発したのが、秋葉原連続殺傷事件(2008年)でした。一方で、排除への対抗運動はより正当なかたちでも生じました。先にも触れた派遣切りに対する市民運動のアクション、「反貧困ネットワーク」による難民キャンプの実践「年越し派遣村」(2008~09年)です。
 「反貧困ネットワーク」のメッセージ――構造改革の結果、東京都下で若者たちが難民化している!――はメディアを通じて全国に衝撃とともに届けられ、政府もまた重い腰を上げ貧困対策に渋々とりくまねばならなくなりました。かくして、非正規雇用の拡大に対する反省が日本社会に生まれていきました。
 2009年には衆議院議員選挙が行われ、その結果、民主党など労働政党による政権交代がおこりました。この政権のもとで、貧困・格差の元凶となった非正規労働にさまざまな規制がかけられていくことになりました。規制の流れは、2012年末に自民党が政権復帰して以降も(弱々しくはあれ)続いていきました。
 そうなると困るのは企業です。10年以上にわたり非正規労働の搾取で利益を上げてきましたが、今後はそれを大っぴらにはやれなくなった。ではどうするか。彼らが次に照準していくのが正社員なのでした。これが「ブラック企業」として言上げされていく問題です。こちらについては次章で続けてみていきましょう。

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