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やまがたは「独立」できるか?――「東北の春」に向けて(03)

近年、「独立宣言」があちこちで流行っている。橋下徹の「都」構想は言わずもがな、新潟「州」構想や神奈川「独立国」宣言など、どれも、中央政府の統制に対し、地方政府の側が「自律」を求める団体自治の実質化を求める言挙げである。背景には、人口減少社会という長期トレンドが存在する。

人口減少社会では、もはや経済成長のパイそのものは自然には増えていかない。そこでは、減っていく一方の限りあるパイを、成員の間でどう分配していくかが課題となる。新自由主義も「選択と集中」――中間集団どうしを競わせ、よりできるところにより多く資源を投入する手法――も、そうした要請への応答である。

当然ながら、都道府県や市町村なども中間集団――国家と個人の「間」にある集団――である。ということは、現在、この日本国というフィールドにおいては、都道府県や市町村といった地方政府どうしの間で、限りある資源をめぐって、その争奪戦がひそやかに、しかしながら激しく戦われているということだ。

では、そこで争奪戦の対象となっている資源とはいったい何だろうか。長期的に見れば、それが人口であること、それも生産/再生産能力を備えた人口であることは明らかである。「え、企業とか雇用とかじゃないの?」と思ったあなた。その道は、青森県六ヶ所村や福島県大熊町・双葉町にまっすぐ続いている。

要するに私たちは、どこか他所からきた誰か――中央政府とか巨大企業とか――に依存することなく、自分たち自身の力で、自分たちの地域を魅力ある場所にし、そこに人びとをとどめ置いたり、新たに招き入れたり、ということをしていかなければならないのである。「独立国」とは、こうした状況の隠喩である。

ところで、そういう目でわが県の取り組みを見たときに、不思議でならないことがある。教育行政、とりわけ中等教育のありかたである。すなわち、そこで相変わらずの旧態依然とした「進学校優遇」の方針や施策がまかりとおっているということだ。進学校の目的は、学力に秀でた人材を選抜し、彼(女)らを地方から中央に向かうキャリア・パスにのせて送り出すことにある。

かつての高度成長のような時代であれば、パイの配分に関わる機会が豊富な中央政府に地方出身の人びとを送り込み、関与させておくことには意味があったろう。だが現在は、先に述べたような地方自治体どうしの競争社会。何も考えず「難関大学への進学率UP」を推奨することは、敵に武器を送る行為に等しい。

考えてもみてほしい。県外の中枢都市や大都市圏に流出したエリート予備軍たちが、大学時代にうまれた人脈やつながりを捨ててまで、大した思い入れもない地元――思春期を部活と受験だけに費やした彼(女)らには地域アイデンティティは皆無――に戻ってきたいなどと、果たして思うものだろうか。

答えはもちろん「否」。この20年ほどで明らかになったのは、東京一極集中がさらに加速しているという事実だ。山形県だけに限らず、日本全国の地域社会から若い人たちが流出し、ほとんどの地方自治体が人口減少を経験している中で、流出した彼(女)らをかき集めた東京だけが人口獲得競争にひとり勝ちしている。

要するに、流出の抑制どころか、それを積極的に推進してしまっているのが、わが県の教育行政なのである。こうした現状に対しては、どのような代案がありうるだろうか。第一に、県の教育行政は「難関大学への進学率UP」を各高校の目標にするのをやめて「県内大学への進学率UP」に取り組ませるべきである。エリート予備軍を県内で周遊させるローカル・トラックの構築だ。

第二に、若い人たちがすでに高校を選択する段階で、県が一方で推進する第一次産業を忌避しているという問題がある。このため、教育行政は、農業/工業/水産高校への進学者数を増やし、エリート予備軍たちがもっと第一次産業の分野を志望するようになるよう、機運醸成や優遇措置を講じる必要がある。

ところで、進学などを機に県外に出たいという若い人たちが実際に外部に触れ、自分が属する世界や社会を相対化する機会をもつこと自体はむしろ推奨されるべきことである。問題は、それがそのまま半永久的な流出につながってしまうことだ。とすれば、第三に、いちど県外に出た人びとがまた戻れるきっかけをつくる取り組みがありうる。

先に、進学者たちの多くが、多感な時期に部活と受験にあけくれ、ほとんど地域との接点をもたず、地域アイデンティティが皆無なままで他所に出てしまう、と書いた。彼(女)がその時期に、地域の人びととさまざまな接点をもち、豊かな関わりを経験していたなら、その記憶こそが彼(女)を再び地元に引き戻す求心力になりうるだろう。

そうした側面をも考え合わせるなら、教育行政において、部活と受験のみに偏った生徒の人びとの学校生活のありかたを見直し、彼(女)らがさまざまな地域活動のための時間を確保できるよう、各学校に働きかけることが必要となってくるだろう。すでに山形県には、学校の垣根を越えた青少年ボランティア(山形形式)の実績もある。

荒唐無稽でばかげた提案だ、と思われるかもしれない。だが、人口減少社会は現実だし、人口争奪戦もすでに始まっている。私たちが「自明だ」と思い込んでいることの大半は自明でもなんでもなく、ある時代状況や環境条件のもとでたまたまうまくいったモデルにすぎない。新しいモデルへの更新が必要なのである。

(『みちのく春秋』2014年冬号 所収)

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