かじかむ手、傘二つ分の距離が似合う新宿

新宿には冬が似合う、そう思うのはかつて大好きなバンドが「突き刺す12月と伊勢丹の息が合わさる衝突地点」と歌ったからだろうか。

新宿は、私にとっていくつかの顔を持つ街だ。というよりも、私が生きてきた時間の中で、様々なタイミングで新宿という街を漂ったから、多面的かつ断片的にかかわりがある街だと言える。

今から10年ちょっと前、中学受験を経て、渋谷にある中高一貫女子校に進学した。校則が中々厳しい学校で、スカート丈や髪型や制バッグなどいろいろなルールがあり、それを守らせる厳しい先生(たいていは50代くらいの、女っ気のないさばさばとした女性だ)と自由を求める生徒たちとの戦いが繰り広げられた日々だった。もちろん帰宅時の立ち寄りも御法度で、特に渋谷は先生たちが見回りをしていて、捕まると学年中に知れ渡る上に親にも連絡されて呼び出しを食らうというフルコースっぷりだった。

わざわざ渋谷で遊んで捕まる子もいたけれど、絶対に捕まりたくなかった(親が呼び出されるなんて面倒だし、何よりダサい)私は新宿や池袋、表参道が放課後の寄り道コースになった。

また、高校生の時には新宿の塾に通っていたので、西口のエクセルシオールやベローチェにはかなりお世話になった。直前期は自習室が空くまでそのあたりのカフェで勉強、10時から開く自習室に行って授業を受けた後は22時くらいまで自習室に籠って帰宅、という日々を過ごした思い出がある。学生らしくコンビニご飯を買って食べたことももちろんあったけれど、体を大切にしてほしいという親心に甘えて麺通団でおうどんを食べたり、アカシヤでロールキャベツシチューを食べたりしてうまく息抜きをしていた。

新宿について考えるとき、アカシヤは私にとって絶対に外せないお店だ。どこに行っても混んでいる新宿の中で、いつ行っても大体すんなりと入れてしまう上に、そんなに値も張らず、何を食べてもおいしい。洋食が嫌いな人もめったにいないので、人を選ばない。そういう使い勝手の良さから、特に大学時代はよく立ち寄った。仲良くなれそうな女友達、なんとなく好意を感じる男の子、下心いっぱいの先輩、付き合い始めたばかりの彼氏、様々な温度の違いはあれど、間合いをコントロールしやすいお店だと思う。静かすぎず賑やかすぎないし、料理もわりあい早く来るので沈黙が重くもならない。相席をたのまれることもあるので隣に座ることもできるし、その視線が苦ではないのならもちろん向かい合うことだってできる。通しでやっているから、昼から映画を観てその流れで行くこともできる、なんともありがたい最終兵器的なレストランなのだ。

そして新宿に向かうまでの丸の内線も、私にとっては特別だ。乗客層に一貫性がなくて、観察していて飽きない。アポに行くサラリーマン、学生、四谷あたりで降りるのかしらと勘ぐってしまうマダム、に加えて何故か競馬新聞を抱えたおじさん。池袋から新宿まで通しで乗ったことはないけれど、中高生のときはいつでもこの路線を使って遊びに行っていたような気がする。通学路でもないくせに。

最近新宿に足を向けると、少しそっぽ向かれているように感じてしまうのは、私があまりにこの街から距離を置きすぎたからだろうか。大人になって、新宿でこれまでまかなってきたことは全て銀座や六本木で済ませられるようになってしまった。お高くとまりたいわけではないけれど、もう新宿の幼く、けれどどこか諦めていて、あまりに多面的なエネルギーには、肌が合わないように感じる。この街も、私にとってひとつの故郷だったのかもしれない。

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