人生ネタ作り

 人生ネタ作り、がわたしの人生のモットーだ。と公言するようになったのはいつからだろう。年配受けしなさそうなフレーズだけれど、確実にわたしの背骨になっている言葉だ。

 たぶらかすという言葉が好きで、何故なら言葉で狂わせるから。ひとひとりを狂わせるのに、身体なんて使うまでもなくて、言葉だけでその気にさせることはできると思う。かわいい笑顔と隙があればパーフェクト。

 「こうなりたくない」という斥力が反転して引力になっている気がする。文系に行きたくない(女の子の大多数なんて「私立文系」だから)、普通の会社員になりたくない(労働だけが私の人生じゃないから)、普通の家庭を持ちたくない(普通の家庭ってなんだよって話だけど)。どれも「なりたくない」と願い、そのあと手に入れてきたものたちだ。…手に入れたというのは表現がただしくなくて、どちらかというと常に「流れ着いた」というほうがただしいのだけれど。結局私は、入試の方法は普通じゃなかったけど私立文系を卒業して、専門性はあるけれど普通の会社員として働いて、25歳という今時にしては早い年齢で結婚しようとしている。

 雨宮まみさんが亡くなった、というのを旅先で知った。それまで著作を一度も読んだことがなく、顔も好きじゃないし、と思っていたし、たまに流れてくるツイートを見てはちらりと気にしつつも気にしないふりをしていた、その程度の認知と興味だったのに、なぜだかどうしようもなく動揺した。そこに悲しいとかつらいとかそういう感情はなかったのに、胸のあたりがどきどきして、挙動不審になった。

 テレビも見ないし、具体的にどういう活躍をされていた方なのか知らない。けれど今の私にとって大事なのは、誰においても書けることは有限だ、と思わされたことなのだ。10年後に当たり前に何かを書けている、と信じるなんて甘い。わたしの爪痕の残し方はこれしかないと、とうの昔に決めている。

 ずっと、不幸や孤独でしかエネルギーはつくれないと思っていた。普通の幸せを手に入れたら、きっと普通のことしか書けない。今日の晩御飯とか、部屋の収納がどうとか、どこのアフタヌーンティーがどうとか、そういったInstagramに溢れているような日常しか。そう思ってきた。

 だけどわたしの人生は不幸一色でも孤独まっしぐらでもなく、伴侶を得て仕事があり、心おだやかに過ごす日もある。このわたしが!と思うけれど、この幸せをエネルギーにしないで、記憶や思い出として朽ちさせるなんてもったいなくてできない。したくない。

 流れ続けていく人生で、いいと思う。どこかに行くぞ!と決めてそこに到達することも尊いけれど、流れ続けることで、見えなかった・見ようとも思っていなかった景色が見えることがあることを、私は知っている。流れの中でエネルギーをもらって、自分なりの活かし方をしていければ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?