いつまでも子供でいさせてくれる日本橋

心のふるさと、お江戸日本橋。私は日本橋をこう呼びたい。

江東区深川に5年ほど住んだあと、私たち一家は中央区日本橋へと引っ越した。日本橋と言っても日本橋箱崎町、水天宮のあたりなのだが、箱崎町と言っても伝わらないので日本橋のあたり、と人には言っている。なんだか少し嘘をついているような気持ちになりながら。
この家には10歳から22歳まで住んだ。最も多感な時期を過ごしたからだろうか、私にとって「実家」は今でも箱崎の家、だ。

中高は渋谷の私立一貫女子校に進学したのだが、毎年配られるクラスメイトたちの住所録を見て、「大田区」「目黒区」「港区」など(日本橋から見れば)西の地域に住む同級生たちの多いことに驚いたことをよく覚えている。「中央区」「江東区」「墨田区」は“下町”で、“高級住宅地”ではないんだ…となんとなくショックを受けた。けれど、“中央区日本橋に実家があること”はものすごく珍しがられたし、就職活動のときに面接官に「君、日本橋に住んでるの?実家?」と言われたことは一度や二度ではなかった。また、その後入学した大学にも東西線で一本で通学でき、30分地下鉄に乗れば大体のところに行ける、という立地のよさを、年を取るごとに実感していった。

けれど私が日本橋を好きなのは、そういった立地のよさや珍しさからではない。
アルバイト(一時期東京駅でおみやげの売り子をしていた)に行くときや、大学から散歩がてら徒歩で帰宅するときなど、あの街を歩いた記憶は多い。コレドの向かいのはいばらの看板(はいばらの袋をよく母が持っていて、おとなだなあ、と思いながら見ていた。かしこまったお手紙やお礼状のときに必ず彼女が取り出すそれ)、震災のときにたくさんの大人たちの波を、反対方向に進んだ交差点、日本橋から東京駅までの、日本橋三丁目の桜並木、用事もなくふらついた丸善、そこに並んだ本の数々。日本橋高島屋の地下でよくお茶をいただいた。桜茶をはじめてのんだのはそこで、小学生のときだったように記憶している。
記憶の中の日本橋は、いつも余白がたっぷりあって、都会だけれど空が広くて明るい。そういう、ゆったりしたところが好きなのだと思う。

日本橋に誰かを連れて行くなら、やはり年上のひとがいい。そして女性。あの鷹揚さを分かち合えるような年の重ね方をしているひとと、土曜日のお昼を過ごせたらすばらしい。そのときは何を食べようか。日本橋高島屋の糖朝で、おばさまたちに混ざってサンラータン?それとも花時計で、愛想のよくないご主人を盗み見ながら、あまじょっぱいパンケーキを頬張るのも素敵だ。もしあまり並んでいなかったら、たいめいけんに行くのももちろんいい。けれどそのときは、ボルシチとコールスロー(計100円)、そしてラーメンを必ず頼むこと。ああ、あのラーメンのチャーシューが食べたいなあ。魚粉の重ったるいスープより、ああいった中華そば然とした、透き通ったスープの方が断然好みだ。性根が曲がっているので、「みんなオムライスをたのんでいるねえ」なんてちょっとにやりとしながら啜るんだろう。

そしてもちろん、長門のくず餅か、うさぎやのどら焼きを買うのも忘れないようにしなくては。一度、付き合う前の男の子が、おみやげにうさぎやのどら焼きを買ってきてくれて、それだけで惚れてしまいそうになったことがある。そのセンス、短所を補って余りある!と思わせられた。結局ご縁はなかったのだけれど。

夕方の日本橋高島屋は、手が届くお値段のお野菜が売っていることが多いから、おばさまたちに紛れて晩御飯の材料を買って帰ろう。誰にも等しく夕方の時間はおとずれているはずだけれど、デパートで過ごす夕方はとびきり好きな時間の一つだ。特に三越と高島屋。伊勢丹はだめ、混みすぎているからみんな気が立っている。

幼いころの記憶が鮮やか過ぎて、いつまでも背伸びをしてしまいそうな街、日本橋。それが私にとっての、今も残る花のお江戸。

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