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明日のたりないふたり。抜けない自虐の竹やり。広く告げない、よく見せない。

ラップが好きだ……が、センスのない僕は、わかりやすい韻を踏みがちである。先日聞いたクリーピーナッツのラジオで、誰も気づかないような「ステルス韻」を踏んでいたというエピソードが明らかになったファンキー加藤さんの才能を分けてほしいくらいだ。

そして、韻を優先して、言葉を口にしてしまうことがよくある。この記事のタイトルもそんな感じなので、しりすぼみな文章になったら申し訳ないのだけど。

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先日、以前通っていた企画メシに「聴講生」という立場で参加した。

僕はこの講座に2016年に通っていた。以降は聴講生として文字通り、気になるゲスト講師が登壇する講座を「聴講」していた。

聴講はラクだ。自分は課題を出さないで、講師の方のためになる話を聞き、(コロナ以前でオフラインで参加していたときは)打ち上げに混じって先輩ヅラ?もできる。汗をかかないわりに、得るものはある。やっぱりラクだ。

ところが今年からルールが変わった。聴講生でも課題を出すことが義務づけられた(その理由は後述する)。迷ったというか、正直、課題アリなら参加をやめようかと思った。恥ずかしながら毎日仕事に追われている今の僕の生活には、自由に使える時間が本当に少ない。

* * *

それでも企画メシに参加したのは、配信ライブ『明日のたりないふたり』の影響が大きい。みんなも知ってるでしょ前提で書いてるのだけど、最低限の説明をすると、南海キャンディーズ・山里さんとオードリー・若林さんによる漫才ユニット「たりないふたり」の解散ライブのことだ。

企画メシの初回の案内が来る前、僕はリモートワークの隙間時間にこればかり見ていた。初期の「たりないふたり」からずっと好きなコンテンツだったこともあるけれど、今回とくに刺さるものがあって。僕の心から今も抜けていないのが「自虐の竹やり」だ。

ティザー動画にもそのシーンは含まれているので、あまりネタバレにはならないと思うのだけど、『明日のたりないふたり』では、山里さんが長年武器としてきた「自虐の竹やり」(自虐的な言動)が1つのキーワードになる。

調子どない?山里亮太の会見見てすぐOpen Your eyes スペック高い これモテない訳ない てかそもそも足が長い
ブサイクじゃない ミヤネ屋センスがない あのお二人超お似合い 
もう足りないもんなど一個も無い 関節取らせやしない

とクリーピーナッツが「たりないふたり さよならver.」で歌ってるように、今の山里さん(と若林さん)には、イチ視聴者的に「たりなさが、たりない」ように見える。

あれだけポジションを築いた人たちが、いまさら「たりない」テイで、下から関節をキメなくても……。だから、今回の解散ライブに至ったのだと僕は思っていた。

でも、違うのだ。

リンクした動画に収められているように、ライブ中、若林さんが山里さんに「(自虐の)竹やり、捨ててんじゃないよぉ!!!」と叫ぶシーンがある。最初見たときは衝撃で、以降見たときは納得で、僕は時間がないときは、このシーンだけ繰り返して見ていたほどだ。

どこまで本編に触れていいのかわからないから、表面の薄皮に触れるくらいの書き方しかしないが、『明日のたりないふたり』で、山里さんはこの竹やりを結局拾う。ふたりとも、まだ自分たちがたりないことを再認識する。

見てるほうからすると、とっくにたりてるように見えるふたりだけど、内心ではまだまだたりないらしい。いや、そのたりないという思いがあるからこそ、おふたりは昔から慣れ親しんだ武器を使って(ときにはそれをカモフラージュしながら)お笑いの世界を駆け上ってきたし、これからものぼりつめていくのだろう。

たりたら、終わりだ。たりないと思うからこそ、人はとんでもないところへ進むことができる。

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企画メシの話に戻る。僕は『明日のたりないふたり』を見て、久しぶりにたぎっていることもあり、参加を決めた。聴講生であれ、OBであれ、僕もまだ「たりないひとり」である。そんな自分にしかわからない思いをいだきながら。

企画メシのモデレーターであり、初回講師の阿部広太郎さんが今回出した課題は、「自分の広告をつくってください」だった。一種の自己紹介ととらえてもいい。

このお題に対して(高速で色々考えた末のことではあるのだけど)、僕は一般的な「広告」とは逆張りのことをしようと決めた。

1つ。広く告げない。もう1つ。よく見せない。

(僕が思う一般的な)広告は、文字面だけを見ると「広く告げる」ためのもの。だからこそ(僕が普段生業としているウェブメディアの編集と一部通じるが)「パッと見のわかりやすさ」「見る人に負担をかけないこと」がポイントなのではないか。

加えて、これもあくまで僕が思う広告は、「よく見せる」ためのもの。自分が「商材」だとしたら、その長所・スペック、秘められた良いストーリーをいかに打ち出していくか。

でも、自分が「自分の広告」をつくって、企画メシのみんなにそう知られたいとは思えなかった。今までの話を力技でつなげれば、それは「たりてる」人のアプローチじゃないかと思った。

僕は20年以上、ときに会社を移り、領域を変えてはきたが、ずっと「編集」という仕事をやってきた。でも、この仕事を続ければ続けるほど「たりない」自分を痛感することが多かった。

あるときは上司や同僚に、あるときは仕事相手に、あるときは私生活のパートナーに、自分の編集者としてのたりなさを指摘され、恥をかきながら、どうしたら「たりないひとり」から抜け出せるかもがいて、結果、今でも全然「たりない」のだけど、だからこそこの仕事を続けてもいる。

そんな原点、あるいは初期衝動というものを「(自分が自分を取材した)記事広告」という形式で書き、提出した。

字数だけはむしろ、あふれにあふれて1万5000字もあった(でも書きたりなかった)。

正直、万人に受け入れてもらえる「広告」ではない。僕は自分と同じように、何かが「たりない」と感じ、日々わけもわからず焦っているような人にだけでも届けばいいなと思った。広くには、告げない。告げたくもない。たりない自分を、包み隠さず伝える、自分の広告。それをどう受け止めるかは受け手次第だ。

当日、Zoomでの講義中、何人かの参加者でコミュニケーションをとる時間があった。現役の企画生に「1万5000字の人ですよね」と言われた。伝統あるウェブメディアの編集部で何かやっているおじさん、よりも、ここではそう覚えられたほうが嬉しいなと思った。

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そうだ、伏線を回収しないと。

聴講中に阿部さんと話す機会があったから、なぜ今回から聴講生にも課題を出すようにしたか、理由を聞いた。

「(現役の人と)『OB戦』をすることで、卒業した人たちが自分のフォームを見直せると思って」

大意だけど、そんなことを言われた。

2016年に企画メシに通っていた頃、僕は今とは違い、書籍の編集をしていて、今とはまた違ったもがき方をしていた。

そのとき、仕事でも、私生活でも、「自分」がたりなかったように思う。もともとたりていない自分が、色々うまく行かなくて、人の目を気にして、ますますどんどん出せなくなって。

そんな自分が、自分よりも優秀な同期たちと出会って、毎回の課題で打ち負かされて、爪痕を残すどころか爪をどこに引っかけるかさえも見失うようになり、それでも一周か二周回って、人が何かを企画するとき、その起点には「自分」がないと、結局はうまくいかないんじゃないかーーあくまで仮説だけど、そうやって「自分」と向き合うことの大事さに気づいたのが、僕の企画メシだ。

いや、正確に言えば、今回、課題に取り組むことで当時の自分がよみがえり、あのとき自分が何を求めて、わずかでも何を手にできたのか、わかったのだろう。

昔も今も、僕が何かを企画するとき、それはスマートとは程遠く、もっと泥臭くて、もっと自分の個人的な感情からスタートしていて、でもそこを突き詰めて普遍的なものに触れたとき(そんなにうまくいくときなんて、なかなかないけれど)、予想以上に多くの人から「読んだよ」と言われるような結果につながっていたように思う。

身についたフォームは今さら変えようがないというか、変える必要もないと言うか、むしろ、そのフォームであとどれだけ、何かを生み出せることのほうが大事なのだろう。

* * *

それにしても「聴講生」って、不思議な立場だ。僕はたぶん、今現役で企画メシに通っている人がこれまでに感じた喜びやら嫉妬やら、そしてこれから感じていく壁やら感動やらを、2016年にすでに一周している。

まるで、「転生したら企画メシ2021だった」だ(場所も時代も近すぎるが)。

でも人が企画することに、なかなか「チート」なんてなくて、あと何回参加できるかもわからないけど、その際はたりない自分をさらけだしながら、また泥臭く企画をしていくのだろう。

そういえば、「たりない」と「なりたい」は韻を踏んでる、とふと思った。最後まで、韻のセンスがたりない。

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