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栓抜きをゆずる/返事はいいけど聞いてない

 ずっと大事に思っている人間のこと、いまさらどうして大事なのか問うたところで無粋かもしれんのだが、いざ考えてみればそりゃまあ愛おしいもんで。わたしの好きなところを教えてよ、と問うのはまるで就活における自己分析の一環のようで形式ばるし、とはいえ大事な人間にはさらりと教えてもらいたい。向き合ってなお、好きなところを屈託なく「自分には絶対無理なことを君はできるんだよ!」とキラキラと目を輝かせてくれるタイプの友人もいれば、わたしの様子をニコニコと見守ってくれて何度も会ってくれていることこそが愛情、というタイプの友人もいる。人間は非言語コミュニケーションに頼りがちとかいうけどほんとうに大事ならどっちでもいいもんだな、とほんとうに大切な友人との歴が10年にさしかかるにつれて思う。それでもやっぱり、ときどき言ってほしかったりして、それはたぶんわたしが言葉をあまりに愛しているから。でも、最近はその機会が減っている。

 栓抜きをゆずった。せっかく買ったクラフトビールなのにビールの栓抜きがなくて、宿の部屋にあったステンのトングをうまく使って開けようとするがうまくいかない。素手でいけたことがあるので素手で行こうとしたら「ダメ!」と制される。ケガする、ケガする…と幾度となく言う彼女は、支点力点作用点と、慣性の法則を説きだした。わたしは一日中運転したのと、理科の授業を不真面目に受けていたせいで支点力点作用点がどこにあたるのかかイマイチわからない、が彼女にはそれが見えている。適切な位置を探索する彼女をぼうっと見るわたしは栓抜きをゆずっていて、「がんばれ!」と市民マラソンの沿道の観客のように無力な応援をしていた。そして栓はいずれ抜けるのだ、ポン!と間抜けな音を立てて蓋が吹っ飛び彼女は達成感に満たされ一方無力なわたしのつぶやく「愛してるよ〜」はリネンシャツの先端のようにヨレヨレで、その瞬間何も役に立たない状態でいられるという幸せもあることを知った。

 返事がいいからといって、話をきちんと聞いているとは限らない。ハキハキと返事をしていたその人は、返事していた内容を何一つ覚えていなかった。まじめなようでまじめじゃないんだけどやっぱりまじめだと思った。自分の不真面目さを自覚しながらちゃんとしてる風に見せねばならぬという思い、それはまじめさの発露だと思う。不真面目さを吐露されて真面目さを知り、そして案外この人の歪んだ真面目さが一番好きなところなのかもしれないと思いながら笑っていた。

 またある人は、普段見ない姿をわたしに見せていた。同世代の奇跡みたいなあのバンドのライブに連れて行ってみた、わたしはもう最高の二文字以外の語彙を失っていたわけであるが、その人はかっこよさに圧倒されて「わたしも頑張らなきゃ…」などとおっしゃっていた。なんか、新鮮だった。長らく会い、語らいあってきた友人が「喰らった」姿を見るのはおもしろいもの。まだ発見できるんだ、人付き合いって果て無いよ人生はお互い進んでいくし。

 そんなふうに長い友人について考察なのか再確認なのかなんなのかを行なっていてふと画面から目を逸らした時に見えた新宿中央公園の木々は西陽に照らされてつやつやしていた。木々は枝葉を纏わずそのまましゃんと立っていて、何も葉の間でなくともそれはまるで木漏れ日のように、その先にある空の白や青を型どっていた。これも、おそらく感じたことのある感情だけど一度も言葉にしてはいないから今日初めて感じた心地さえする。

 わたしはよく「絶叫」と称してback numberやTWICEのことについて文字数を割きnoteを書いている。あれは結局のところ、彼ら彼女らの好きなところをたくさん覚えていようとする行為なのだと思う。(noteの性質上、それが時に他者にとって発見の機会になることもある)言葉にすることは時に無粋で、それを誰かに伝えた瞬間自分だけのものではなくなってしまうけれど、時に好きさの理由を考えることは、意外な気づきと自己の再確認、何よりその人の愛おしさというものをつれてくることがある。

 人生は長く、孤独なものだけれど一人で生きていくなんてことはありえず傲慢で、最近は誰かに助けてもらってばかりな気がするけれどそれゆえに満たされて、一人で横たわる芝生の感触さえも少し違って思えてこれはずっと知りたかった気持ちなのかもしれない。

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