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愛憎芸 #23 『ハウスミュージックの最後』

 愛知県蒲郡市で開催された「森、道、市場」に行ってきた。わたしのすべての感情が満たされるような、好きな音楽、カレー、コーヒー、ビール、海、ピザ、遊園地、おしゃれな観衆たちに満ち溢れたものすごいフェスだった。2日間で何度「フー!」と叫んだのか分からない。ひどい口内炎を発症してしまっていたのに、それでもその口腔を通して声を出したいと思った。

 もう何年もハウスミュージックで踊っていなかった。土曜日の夜、DISCO STAGEで爆音のハウスミュージックに乗せて訳が分からないまま拳を突き上げていた。わたしも友達も、あの場でなければとてもハウスで踊れる人間ではない。あそこのどれくらいの人たちがそうだったのだろう。ということを爆音の中耳元に口を当てて話す、みんな内心、「今日だけ…」と思いながらはしゃいでいたらなんか面白い。それこそ分人主義。心の中に様々な人格を飼っていてその中に「今日くらいはハウスミュージックでぶち上がりたい人格」が在る。わたしはそいつを解放してあげようと思う、別に残業中にハウスミュージックを聴いてもいい、三分に一度ぶち上がりポイントが存在しても構わない、どちらにせよ人生は山あり谷あり起伏ありぶち上がりギャン萎えあり。知ってしまった気持ちのことはずっと大切にしてあげたいし、実は今日だけではなく、東京ドームのTWICEのアクトのような爆音が心の中にずっと灯っていることにわたしは気が付いたのだった。I Wanna Know!

 そのハウスミュージックのブチ上がりが、最後はどのような収束を迎えるのか気になった。だから最後まで居てみることにした。ゲリラ豪雨の終わりのように、ブツンと終わることもできると思う。けれどDJはとても丁寧にアクトを締め括った…ハウスミュージックって遅くもなるんだ…と思ったら、突如『オリビアを聴きながら』ハウスVer.が繰り広げられブチ上がりである。なるほどな、物語を書く者はDJのプレイをできるだけ観た方がいい。最後の最後、観客の心の奥に存在するものを信じて「託す」行為。ずっと与えられ続けた観客たちが最後は自分の心の中にあったもので踊るのである、心の中のメロディをハウスに乗せて踊る、そらぶち上がりますわ。私たちはもうすでに"疲れ果てて"いて、それでも"幻を愛したの"…そうやって、始まりと終わりのある"芸術"を観ている。友達が、近くの人の「幻だったってコト…?」という声を拾っていて面白かった。そのとき、1番出てきてほしい言葉である。

 二日間で三回ジェットコースターに乗った。ジェットコースターもまた、静寂を帯びた終わり方をする乗り物で、さんざん叫ばせたわりにまるで何事もなかったかのように緩やかに元の位置に戻って安全バーが上がる。ジェットコースターて。「終わり」ってものすごく重たい事象なのにどこにでもモチーフが転がっていて、それはきっとわたしたちがいつか終わることを確約されている存在だからなのだと思う。それまでのあいだ、いかに踊れますか?叫べますか?ということ。頭の中で繰り返される、ゼミの教授の「ドラマチックな人生を」。人生は芝居であるという言葉にさえ、「それはいつか終わる」が内包されている。

 わたしの大好きなLaura day romanceもまた、森道で一つの区切りを迎えていた。オリジナルメンバーかつ男女ツインボーカルの片割れである川島さんがこのライブをもって脱退した。その知らせ自体四日ほど前に発表されたもので、それまでわたしは呑気に「森道をLaurasで締めれるなんて最高や〜ん」と思っていたのだがまさか「見届ける」覚悟を持ってステージを観ることになろうとは。

 Laurasのライブの構成は彼ららしく潔いものだった。ツインボーカルを前面に打ち出した曲は一曲もやらず、何よりも一曲目が『happyend | 幸せな結末』。ああ、終わりはじまりなのか。構成に決意が滲み出ている。しかしこの曲には「大切なんて雨の日に思い立ったから言ったんでしょう」と過去を振り切って帆を進めつつ、それでもなお「さみしい」と歌う人情が宿っている。「これからも音楽やるので心配しないでください」と花月さんが笑っていたとしても、オセロのように白黒、とはいかない心情というものがそこにあって、生きることは絵の具を混ぜ続ける行為だ、とか考える。白黒じゃ無理。

 名曲『Sad number』が纏う切なさをようやく実感したかもしれない。激しいギタープレイでこんなに涙が込み上げてくることがあるのか。わたしは生まれて初めて、演奏を観たことと涙腺が直結した瞬間を味わった。「ここで終わる」と思って何かをする人のそれを自分の人生で再現できる人がどれだけいるだろう。Laurasの川島さんはきょう間違いなくその瞬間の中にいたと思う。そしてその時少しだけ雨が降って、「空も泣いてるよ」なんてベタなことになっていた。

 Laurasが最後に演奏した『書きたい』という楽曲が到底終わりではなく始まりで良かった。〜したい、という欲望に突き動かされる我々。ハウスミュージックがいつか終わるのも、明日も生きなければならないからである。ほんとうの終わりのその日まで私たちは踊り続ける。人生で訪れるほんの少しの静寂は、繋ぎの前のそれと思って。始めては終えて始めては終えてと生きる、その狭間だと思って。

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