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愛憎芸 #19 『エミネム、WBC、岡本和真と96年生まれの球児たち』

 前置きのない突風のように、人生には突如として猛烈な引力が発生する瞬間があり、それは引力なので、私たちは当然逆らうことができない。ただそこへ向かっていくほかないし、向かう方向が決まってしまっているので、その内実、つまるところ過程を詰めて詰めて詰めて、やっていかなければならない。Eminemの声が微かに聞こえた、"You better lose yourself!" 長らく味わっていなかった思いだ。これぞ熱情である。思いの丈を逃げることなく書き切ったその先に一体何があるのか?何もないのか?どうあったってここがターニングポイントである気がする。自分はまだやりたいと思うことに本気になれるし、そういう思いになればすごく筆が速い。それがどのような評価を受けるかはもう少し待ってみないとわからないが、身の回りで様々な物事が凪いでいる感覚を覚えることがやけに増え、それを補填するかのように日本代表がWBCを席巻していた。気が付けば社会人として3年間働いている。静かな日々には静かな音楽をとローラを聴いていることや、ここ数カ月の様々な偶然、潮が引きつつある。いずれにせよふんわりと浮かぶような3月が終わろうとしている。Sweet Vertigoよろしく、まだわずかな揺らぎの中にわたしはいる。

 滞空時間が長く、フェンスギリギリに飛んでしまったら、メキシコ代表のアロザレーナのような優秀な外野手が掴んでしまうこともある。そんな岡本和真が描く放物線は古典的だと思う。近年はトラックマンという、投球や打球の軌道を計測し数値化するシステムが発達しており、飛距離よりも打球速度が叫ばれることも多くなった。それこそメジャー1・2年目の大谷翔平のすごさを語る時、メジャー有数の打球速度がどうのこうの、という報じ方をされていた。WBC決勝で村上宗隆が放ったホームランは今大会最速を誇ったそうだ。

 岡本和真は「若大将」と呼ばれ、原辰徳の再来として扱われている巨人の4番打者だ。昨年でついに5年連続シーズン30本塁打を達成している、「安定してホームランを打つことができるバッター」。そのすごさのわりに、原辰徳や長嶋茂雄、高橋由伸や松井秀喜と比べて影が薄く感じるのは、近年のプロ野球もとい巨人戦が地上波放送されなくなったからなのか。それでもWBCで彼は2本のアーチを架けた。ともに試合を決定づける一発だった。それがなんだかやけに美しく見えた。不思議だった。感情に名前を付けたかった。

 レクイエムを、歌われているような感覚。一度もレクイエムを向けられたことはないが、私のように高校までそこそこ野球をやってしまった人間には、すべてが野球に繋がっていくような、時空のゆがみを感じる瞬間が時折訪れる。そうした瞬間のたびに、それらを尊く思う時と、プロ野球選手になった世界戦の自分を想像してしまう時がある。私たちは小学校の卒業文集に野球のことを書いていたし、彼らと同じ2009年WBCを観てその世界に憧れたのだ。それでも届いていないから、欺瞞に満ちた社会という舞台での暗躍を余儀なくされている。

 結局、いかに赦すことができるかなのだ、ということを最近は考える。プロ野球選手になれなかったけど、あの時間は特別だったよね、と思える瞬間があればあるほどいい。そのためにはどうやってもカタルシスが必要で、特にアメリカ戦で岡本和真が打ったホームランの美しさの正体は、それなのかもしれなかった。彼と同じように1996年世代として生まれ、一緒のタイミングで甲子園を目指して、自分が敗退して引退した後も、塾の合間で彼と岸潤一郎の対決を観ていた。高校時代、世代を代表する投手だった安楽、高橋。侍に選ばれた中野や栗林。その最前線に今立っているのは、誰よりもふてぶてしい巨人の4番、岡本和真。1996年に生まれ、野球に魅入られた球児のほとんどがユニフォームを脱いでいる今、彼がかっ飛ばすホームランが世界一を決定づける一打になる意味。十分だった。

 様々なものの見え方が変わってきている。20代後半、高円寺から渋谷へ向かうバスに放り出された永福町は変に風が強かった。


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