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愛憎芸 #34 『パーティーと打ち上げ』

 幼少期、父親が「打ち上げで今日は帰れない」と言う度に、わたしの頭の中ではロケットがゴゴゴと火を吹いて、いまにも空へ飛び立とうとするそのイメージが躍動していた。『わたしの一番最悪な友だち』で高杉真宙が「打ち上げってなんで打ち上げって言うんですかね」と坂元裕二色ギラギラのセリフで言い放つ(※本作の脚本家兵頭るりさんは東京芸大坂元裕二ゼミの卒業生なのだ)姿を見て思い出したのだ。打ち上げにロケットのイメージがついてこなくなってから随分経つので、もしかすると20年ぶりくらいにそう思ったかもしれない。形而上の、打ち上げ。社会の、打ち上げ。少年野球で優勝したから、文化祭が終わったから、体育祭が終わったから、夏の大会前最後の練習が終わったから、番組発表会が終わったから、舞台が終わったから。あくまで平和的運用としてわたしは人生で何度も打ち上げを行ってきたのである。そして、そんなことよりも家に帰ってきて欲しい、とか思っていたのかもしれない。

 階段を登り始めた。暗喩でも何でもなく、物理的に、実際に。この歩みそのものは、何も人生を損なう選択でもなければ、わたしが大事にしたいことを損なうわけでもない、そう言い聞かせて一段一段登っているのにその段数を数えたことはない。ときに消費カロリーを掲示している看板もあるけれど、カラオケDAMの消費カロリー表示がなくなった頃から消費カロリーという指標はあまり意味をなさなくなった。

 八方塞がりだった時期にした選択の理由を問われてまた八方塞がった。しかもそこにもっともらしい理由を用意すべきだ、とあるエージェントだったり一般論は言うものだからそんなのないだろと自分が一番信用しているエージェントに相談したら「等身大でいるべきである」との答えが返ってくる。その通りだと思う。もしかしたらそのせいで落ちるかもしれないけれど、それで落ちるならばほんとうに縁がないということだろう。「今の会社を選んだ理由を簡単に説明してもらえますか?」簡単にできるわけないだろクソボケが、と思いながら微笑するときも南極の氷にヒビが入って少しずつ溶けているのだろうか。面接で苦虫を潰すような顔をしながら環境のことを考えているわけじゃないです。

 止められないもの。わたしはやっぱり、梅雨の終わりのような、あの就職活動終盤のことを誤魔化すことができない。まさしく「過去はゾンビのようについてくる」。乗り越えたと思ったことも結局は今の自分を作る要素なので、重要な局面で影を落としにやってくる。何度でも。コンニチワーって。自分を一筋縄でいかない人間にしようとしてくる。でもそれがいいんじゃん、一筋縄でいかないことがさ、だから自分のことが好きなんじゃん、だから文章を書けるんだと思うよ、と『わたしの一番最悪な友だち』の主人公・笠松ほたるを見ていて思えた。フィクションにはやはり力がある。

 純粋なこと、は「打ち上げ」と聞いて飲み会ではなくロケットを連想できること。「サヨナラホームラン」と聞いて「松井帰っちゃうの?!」と言えること。

 ある友だちに転職のことを話していたら「終わったらパーティーやね」と言ってくれていた。それは打ち上げではなくパーティーだった。打ち上げは縦軸、パーティーは横軸。水平展開しているもの。パーティーは、何かを祝してやるものではない。人が集まって、適切な装飾物——風船や紙でできたリボンの類、ケーキやワイン——があればそれはもう立派なパーティーなのだ。

 打ち上げとちがってパーティーに一本締めはいらない。むろん三本締めも。『大豆田とわ子と三人の元夫』最終回を思い出す。きっとパーティーは、眠りから醒めたときに終わるのだ。そういうまどろみの中にある、そしてパーティーを人生になぞらえるなら、わたしたちは長い夢を見ていて、それから醒めた時が最後ってコト…?なんだか、脳みそが村上春樹作品を求めている感じだ。

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