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古文・漢文は不要=オワコンなのか?という論争について古文講師なりに考察してみた

話題に少し出遅れてしまったが、つい先日このような動画を目にした。

【以下動画リンク】


代ゼミ・東進・そして現ただよび古文講師でいらっしゃる吉野敬介先生とひろゆき氏がアベマの番組で対談されていた。

ひろゆき氏の論を簡潔にまとめるとこうである。

「古文・漢文はオワコン。受験において必須科目にするのは時代錯誤である」

もう少し細かく説明すると、古文・漢文は私たち現代人の生活においてほとんど接する機会はないと言える。にも関わらず、中学高校と必須科目として殆どのひとが授業を受ける。

大学受験においても文系であれば大多数は勉強しなければならない。当然、共通テストの科目にも含まれているので、理系であっても国公立志望者であれば学習することが求められる。

しかし、現代社会で求められているのは宗教に関する知識やプログラミングなどであるため、ほとんど役に立たないばかりか社会全体で見れば非効率だという考え方である。

もちろん古典に関する研究を否定する訳では無いのでやりたい人だけやれば良いのではないか、、、ということらしい。

一応自分も古文講師の端くれではあるが、正直なところひろゆき氏の論にはせざるを得なかった。

それどころか普段から、自分の生徒には

「今やってる『に』の識別なんて君の人生の何の役にも立たないけど、君が目指す大学はそれを求めてるんだから、クソつまらないのは分かるけど頑張るしかない。」

的なことを言ってみたりしている。

まあ僕自身古文が好きなのは結構。ただ万人が好きでやってる訳では無いのはもちろん承知している。(というかそもそも今回ゲストで招かれている吉野師もそういうスタンスなのだが、、、)

ただし、私ですらそんなこと分かっているのだから文部科学省や大学側がこうした事を吟味してないはずないのである。

なのに高校の授業から古文は消えることもなければ、様々な入試改革が行われる中でも古文・漢文という科目自体の見直しがされる気配も一向にない…

では一体何を目的に古文・漢文を残しているのか。何かしら理由があるはずである。これをただ「教師の既得権益が〜」なんて言ってみるだけでば味気ないばかりか、的外れで論の発展がない。(というか思いつきでセンター試験を廃止したりするし…文部科学省…)

わざわざ古文・漢文を残しているのかについて、2つの視点から考察してみた

① 「実学」ではない「教養」科目の立ち位置の保持 

私たちがワーワー言わなくても、大学受験の実学化なんてものはとっくに始まっている。例えば共通テストにおいても英語は実用英語に寄っているし、国語に関しても現代文に図表が出題されたりするなど、より実践的・情報処理的な性質が強まっている。英語の4技能試験が推されているのも同等の理由によるものだろう。

その上で古文・漢文を残す理由。それは「教養」言い換えるならば「虚学」をあえて残し、その立ち位置に来ているのが古文・漢文であるということではないのか。

学問や教育というものは、ただ実学だけを求めるものでは無い。実学ばかり求めると極端な合理主義に走ったり、講義的な意味での古典が蔑ろにされたりする。そのため実学と虚学を双方バランスよく学ばせることが必要である。

そのポジションに、日本人が古来から教養の象徴であると認識し、学んできた文語、すなわち古文・漢文を据えているのではないか、ということである。

②脱法的な宗教教育を施そうとしている?

若干ぶっ飛んだ見出しになってしまったが、要するにそういうことである。日本においては政教分離が徹底されている。公立学校や公教育、もちろん国が管轄する共通テストなどで宗教心を問うことは出来ないし、宗教教育を行うこともできない。だからある程度共通した思想を国民に植え付けることも出来ない。もちろん小学校の「道徳」なんて授業もあるが、そんなの焼け石に水であろう。

では、どうするのか。

古文・漢文を利用するのである。

直接、宗教教育を施すことは出来ない。だから古文・漢文というフィルターを通すのである。
例えば古文であれば日本の天皇や皇室についての基礎知識が絡むのはもちろん、仏教の知識も不可欠であろう。古文常識としてそれらを理解しなければ物語や日記は読めないし、逆に説話などを読んでいく上でそのような知識は身についてゆく。

漢文に関しても同様で、儒教の教えをある程度理解しなければならない。実際センター漢文をみると、教訓めいた出展はかなり見られる。

このように古文・漢文を通して、日本人のルーツである天皇や皇室について学ぶとともに、仏教・儒教の考え方を自然と受け入れさせるためではないかなと私は考察した。 

これらは日本人がかねてより重要視してきた徳目であり、ある種共通した思想を植え付けるには自然かつちょうど良いものであるため、それを受容させる手段としての古文・漢文を残しているのではないかなという考察である。

結局何が言いたいのか分からなくなってしまったが、前者はともかく後者の意見はあまり見た事がなかったのでこの記事に至った。

しかし、大学や文部科学省の意図なんて最終的には分かりはしない。分かっているのは私たち講師と受験生はとりあえずは当分古文・漢文から逃げられなさそうということだけである…