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シニフィアン連鎖

 言葉について、引き続き語ってみたいと思います。

リンゴ
 言葉には「声又は文字の部分(シニフィアン)」と「意味する内容の部分(シニフィエ)」の2つの面があります。「リンゴ」であれば、「リンゴ」という声又は文字がシニフィアン、「リンゴ」と聞いて思い浮かぶ内容がシニフィエです。ここまでは簡単ですね。

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 さて、このシニフィアンとシニフィエは、紙の表と裏のように表裏一体であり、不可分のものであるというのが、画期的な言語観を提示した言語学者ソシュールの考えです。え?表裏一体ってそんなん当たり前じゃん!と思われると思います。そうです。当たり前です。ここから少し飛躍します。
 「リンゴ」というシニフィアンが示しているのは、物体としてのリンゴそのものではありません。は?何言ってんの?となるかもしれません。思い出してください。「リンゴ」というシニフィアンが示しているのは「リンゴ」と聞いて思い浮かぶアレです。え?だからそれって物体としてのリンゴそのものでしょ?となりますがどうぞ落ち着いてください。シニフィエは別に物体でもなければ物質的なものでもありません。ただわたしたちの頭の中に浮かんだだけの、食べることも触れることもできない「イメージとしての」リンゴです。
 もちろん、イメージとしてのリンゴは、物体としてのリンゴそのものをもとに構成されているので、間接的には物体としてのリンゴにたどり着くわけですが、あくまで、直接的に示しているのは、わたしの頭の中の、みなさんの頭の中の「リンゴ」です。だから、場面が違えば「リンゴ」と言えば椎名林檎がシニフィエとなり得ますし、英国のリヴァプールの人に「リンゴ」と言えばリンゴ・スターがシニフィエとしてまず登場します。つまり、「リンゴ」というシニフィアンを発する人とそれを受け取る人の間に、共通の言語体系(ラング)があり、おおよそ狙ったとおりのシニフィエをお互いの頭の中に浮かばせることができて、はじめてコミュニケーションを取ることが可能であり、文章を読んでもらうことも可能となるわけです。逆に言えば、「リンゴ」という語が必ずしも物体としてのリンゴと直接に結びついているわけではないということです。
 犬にだって教え込めば「お手」や「お座り」などを理解させることができますが、これは人間の言語とは異なります。この点について、少々遠回りとなりますが、以前の記事(こちら)でも記した論理学者パースによる記号の分類を確認しておきます。

シンボル
 パースによれば、世の中の記号のあり方には3つの側面があり、以下ざっくりと説明します。
 1つ目は「イコン」と呼ばれるもので、類似性に基づく記号のあり方です。例えば、田園にみられるカカシは、人に似せることで鳥たちを近寄らせないようにしています。小魚たちが大きな群れを成すことでまるで一匹の巨大な生き物のように似せて外敵から身を守るのも、イコンによる記号過程のあり方の1つです。
 2つ目は「インデックス」と呼ばれるもので、因果性に基づく記号のあり方です。煙は何かが燃えていることを示す記号であり、黒い雲は雨の予兆を知らせる記号です。誰かお客さんが来ると犬がワウワウ吠えて警戒し、あるいは誰か見知らぬ人が来ているぞと飼い主に知らせるのもインデックスによる記号過程のあり方です。
 3つ目は「シンボル」と呼ばれるもので、ある約束や規則に基づく記号のあり方です。人間の言語の大半がこれに当たり、「りんご」という語があの果物(のイメージ)を示すというのは、人間がただ勝手に決めた約束ごとであり、天秤が法を表すというのも同様のものです。
 パースは、これら3つのうち、イコンとインデックスは、人間以外の生命も用いる記号のあり方ですが、シンボルは人間に固有のものであると考えました。このシンボルのあり方こそ、人間の言語能力を表しているといわれています。
 実は、先ほどの犬が「お手!」を理解するのは、インデックスによる記号過程なのです。つまり、「お手!」という音に対し、一定の動作をするということを1つの因果性として習得させ、反射的に反応をとらせているといわれます。そういう意味では、人間の「気をつけ!」というのもインデックス的な面がみられますが、やはりこれはシンボル(言語)なのです。どこが違うのでしょうか。
 犬にとって「お手」は「お手」の動作以外何も示しません。「お手」という声にもとづく因果性としての体の反応です。人間にとっての「気をつけ!」も、ある程度はそうです。ただ、人間にとっては「気をつけ」も「お手」も、シンボルとしての記号過程です。わたしが教官に「気をつけ!」と号令をかけられます。わたしは、犬がお手をするように一定の動作(気をつけの動作)をします。その後、教官が「気をつけと言われたらしっかり指先を伸ばし…」と言います。ここが決定的なシンボルである瞬間です。犬にとって「お手」は、あの反応をさせるための動因でしかありません。人間にとって「気をつけ」は、ほかの言葉との関係により文章を作りますし(「気をつけと言われたらしっかり指先を伸ばし…」)、その文脈によっては全く別の働きをします(「気をつけましょう」、あるいは「お手」であれば「お手を拝借…」)。つまり、言葉はほかの言葉たちと関係を作っていて、膨大なネットワーク(構造)を成しており、それらの関係性の中で意味を生み出しているわけです。

お手
 ここは、人間とほかの生物(あるいは自然)とを分かつ決定的な部分です。以前の記事(こちら)で取り上げたように、原初の自然で動物たちと平穏に暮らしていた楽園からアダムとイヴが追放される「堕落」に相当し、ラカンの理論でいう享楽からの「疎外」といわれる部分です。
 「リンゴ」という言葉を聞いた(あるいは見た)時、頭の中ではこういう作業が行われます。

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 このように、ある音(カナ/かな)の一定のネットワークの全体の集合の中から、「リ」という音がほかの音と区別されうることから「リ」と判断します。「ン」も「ゴ」も同じですね。これは犬が、インデックスの記号過程において「お手」と「お座り」と聞き分けることと似ていますが、それは、同じくインデックスの記号過程である、何かが燃えていることを表す煙という記号が、雨が降ることを知らせる黒雲という記号と異なることを区別することと同様であるにすぎず、言葉におけるそれとはやはり異なるものです。カラスも様々な意味を持った鳴き声を発し、仲間のカラスはそれらをきちんと聞き分けますが、これもやはりインデックスによるものです。ある鳴き声はある特定の内容と一対一で対応し、ほかの内容は指し示しません。黒雲は、雨を知らせるほかに、風が吹くことも知らせるじゃないか!と言いたくなりますが、そのような因果性に基づく記号過程をインデックスというのであり、「シンボル(言葉)」の記号過程とはそもそも異なることを思い出していただければと思います。人間の言葉では、「リンゴ」が果物を示したりビートルズのメンバーを示したりしますが、それだけではありません。大声で「リンゴー!」と叫んでもやはりリンゴですし、小声で「……リンゴ」と言ってもやはりリンゴです。犬に、マイクで思い切り「お手ーー!!」と叫んでお手をするかは知りませんが、多分しないでしょうし、ささやくように「お…手」と小声で言っても多分反応はないと思います。
 これはつまり、人間が知らず知らずのうちに上記のカタカナ表のような作業を脳内で行い、全体の音の体系の中から特定の音を抽出し(区別し)、シニフィアンを特定し、シニフィエを特定しているからこそ、言葉としてそれを理解することができるということです。

関係性
 以上のように、言葉は音(あるいは文字)の違いをその全体のネットワークの中から抽出し、音を特定しているわけです。犬に「リ」という声を聞かせると、それはそれでリという響きが耳に入っているのは間違いないですが、言葉を構成するそれとしては聞こえていません。人間の言葉における「リ」は、全体のネットワークの中でその音が占める位置ないし価値、あるいはほかの音との違いによってしか判別されません(文字でいえば「リ」は「ソ」でも「ン」でもないから「リ」と分かりますね)。そして、すでに少し触れましたが、音(あるいは文字)だけでなく、そもそもの言葉自体も、基本的には他の言葉との差異でしか意味を生み出しません。もちろん、「気をつけ」にインデックス的な面があることはすでに述べましたし、犬の鳴き声をまねた「ワンワン」という言葉にはイコン的な面があります。しかし、それらですら、他の言葉との関係により文章を成すことができるため、やはり言葉です。重要なのは関係性です。関係性を、あるいは全体のネットワークのようなものを立てることができるからこそ、その構成要素を様々に組み替えて文章を構成することができるわけです。
 言葉においては「リンゴ」は、「リンス」でも「タンゴ」でもないから「リンゴ」と分かります。これは、先ほどの犬が「お手」と「お座り」と聞き分ける、あるいはカラスが鳴き声を聞き分けることと似ていなくもないですが、やはり異なります。同様に、「リンゴ」はミカンでもパインないから「リンゴ」という言葉の価値が定まります。つまり、「リンゴ」という言葉を発するときは、暗にほかのリンゴでない言葉(リンス、タンゴ、ミカン、パイン…)を指し示しているということです。これは人間の言葉に固有の意味の生み出し方です。日本地図で「愛知県」を指すときに、愛知県の形の線を日本地図に走らせることになりますが、これは「愛知県」の形をなぞっていると同時に、「愛知県以外の日本」の形を指し示しているということと同様です。
 犬は「お手」、「お座り」、「お預け」などを聞き分け、それぞれに対応して示すべき反応を覚えますが、それは一対一の意味関係でしかなく、「お手」はそれ以外の意味は指し示さないものです。わたしたちが新しい外国語を学ぶときも、初めのうちは単語とそれに対応する意味を一対一で覚えていきます。しかし、それには限界があります。わたしたちが言語を学ぶとき、ある段階を過ぎると、新しい言葉はほかの言葉と関係づけて覚えていきます。分からない単語が出てきても(日本語ですら未だに知らない単語ありますよね)、その文脈から何となく意味が分かったりします。ここですね。ほかの言葉との関係性。一対一でひたすら機械的に単語を覚えこませるのは限界があります。あくまで、知っている言葉どうしが関係を持ち、グループを作り、さらにそのグループがほかのグループと結びつき…というネットワークが想定される必要があるわけです。そして、文章を読んだり聞いたりするときも、例えば「戦後の国際社会の安全保障の枠組みの中で、わが国の日本国憲法が…」と言ったときに、それを「ええっと、この単語はこれに対応して…」とか考えずに、全体の文脈からスーッと意味が頭に入ってきますよね。ここでも、言葉と言葉の関係性から意味を理解していることが分かるかと思います。
 こう言ってもよいかもしれません。例えば「東大阪市近辺に美味しいちゃんこ鍋屋ってどこかありますか?」と聞かれたとします。みなさんは、多分今述べた質問をこれまでに聞かれたことはないですよね。それでも質問の内容を理解することができます。これは、これまでに習得した言葉の全体の体系の中で、音(文字)、シニフィアン、シニフィエを絞り込んでいき(つまり、ほかの音(文字)、シニフィアン、シニフィエの可能性を排除していき)、ある特定のシニフィエに辿りつくという作業をしているからにほかなりません。言い出しの「ひがし…」という音を聞いただけでは「東日本」、「日が沈む」、「火がしっかりと…」など、あらゆる言葉に変化する可能性を秘めており、文章が進んで初めて「あ、東大阪市か」と脳内で特定できるわけです。グーグルの検索窓に言葉を一文字ずつ打っていくと、自動表示される検索候補がだんだん絞られていく過程と似ていると思います。これができるからこそ、初めて聞かれる内容でも対応できます。これが、インデックスの記号過程となると、「ヒガシオオサカシキンペンニオイシイチャンコナベヤッテドコカアリマスカ」という音とそれに対応する内容を機械的に一対一で覚えることを必要とし、ちょっと文字(音)が変わると対応することができず、また改めて一対一で内容を覚えなければなりません。
 序盤で、シニフィアンとシニフィエは表裏一体であると書きましたが、先ほど述べたように、シニフィアンは、言葉(あるいは文章)が最後まで述べられることで全体のシニフィアンの集合の中から特定のものを抽出することができ、同時にシニフィエも確定します。ということは、言葉のネットワークの全体は、シニフィアンによるネットワークであると同時に、それと同じ形でシニフィエがネットワークを成しているということができます。まさに、シニフィアンが作っているネットワークを1枚の紙とすると、その裏側で対応するようにシニフィエがネットワークを作っていると考えてよいでしょう(同じ「リンゴ」というシニフィアンでも、果物のそれとビートルズのメンバーのそれは当然別々のものであると区別します)。ただし、精神分析家のラカンはこれとは少々異なる(シニフィアンとシニフィエは不可分ではなく、独立したものである)という考え方であり、今述べたのはあくまで正調(?)構造言語学としての考え方という認識でお願いします。

隔絶
 以前の記事(こちら)でも述べましたが、以上のことを言い換えると、シニフィアンのネットワークとシニフィエのネットワークとの間に相同性を見出した上で、「あるシニフィアンがほかのシニフィアンとの差異を示すことにより、対応するシニフィエがほかのシニフィエとの差異を示す」ということです。シニフィアンはインデックスのようにひとっ飛びで直接に対象を表すのでなく、シニフィアン同士のネットワークの中で、シニフィアン相互の関係により、シニフィエを表すということです。これは概ねラカンの精神分析の考え方においても同様です。
 ということは、あるシニフィアンはほかのシニフィアンとの差異しか直接的には示ません。このことから、ラカンにおいては、シニフィアンのネットワークはそれ自体で閉じており、シニフィアンのネットワークに参入した存在としての人間(主体といいます)は、シニフィアンの閉じた牢獄に囚われたままであり、現実的なもの(これについては改めて別の記事で説明いたします)からは基本的に隔絶されているという考えに至ります。これが、度々触れていますが、ラカンの理論でいう「疎外」です。言葉の世界に参入したことで、人間は動物的なものから隔絶され、満たされない欲望を追い続け、各自が固有の幻想を持つこととなります。
 しかし、それはそれで人間ならではの楽しさがありますし、しかも本当に人間が原初的なものから隔絶されているかというと、そうとも言えないということが、先に出てきた論理学者パースの理論から少しみえてきます。これについては、またいつか述べさせていただきたいと思います。