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バッシー

「イッピーだよ。
ネットで公開しようか迷ってるんだ」

伊豆の伊東市在住の友人が、メールで写真を送ってきた。
一碧湖で撮ったという。
ぼやけてはいるが、水面に何かが首を突き出した写真だ。
角が2本あって、牛のようにも見えるが、牛にしては首が長い。
ネス湖のネッシーや斜路湖のクッシーに倣って、勝手にイッピーと名付けたという。

ほかに目撃談でもないかと検索してみたら、残念ながら見当たらなかったが、地元に古くから伝わる「赤牛」伝説なるものが見つかった。
かつて一碧湖が吉田の大池と呼ばれていたころ、真っ赤な色をした牛の怪物「赤牛」が住み、しばしば船を転覆させて住民を食べたりしていた。
困り果てた住民は、高名な僧侶に頼んで七日七晩の祈祷をしてもらったところ、赤牛を鎮めることに成功し、以後は平和な湖に戻ったという。

その晩、湯船に浸かりながら、懐かしい一碧湖に思いを馳せていた。
最後に訪れたのは、随分前のことだ。
静謐な湖面が目の前に広がった。

その一部が不意にもこっとせり上がり、盛り上がる。
何かが頭を出した。
イッピーだった。

友人からの写真で見たのと、ほとんど変わらないイメージだったが、異なる点がふたつあった。
写真のイッピーは、遠目のためもあってか、黒っぽい感じだったが、目の前のイッピーは、かなり鮮やかな赤みを帯びている。
見ようによっては、血まみれの頭とさえいるほどだ。
ふたつめの違いは、大きさだ。
一碧湖のイッピーの大きさは定かではないが、普通の牛よりはずっと大きそうだ。
それに対して、目の前のイッピーは、推定数十センチの代物だった。
首から下はどのくらいの大きさなのかわからないが、全身でも1メートルには遥かに及ばないだろう。

手を伸ばして捕まえようとする。
ところが手を近づけると、まるでお湯に浮かんだゴミみたいに、するりと逃げてしまうのだ。
捕まえるのは諦めて、話しかけてみる。

「すみません、一碧湖の方ですか?」

返事はない。
イッピーと呼んでも通じないだろうから、なんて呼んだらいいんだろう…

「湖からいらしたんでしょうか?」

やはり返事はない。
赤い牛頭と睨み合いながら、どうしたものかと思案しているうちに、肝心の牛頭はどこかに消え去っていた。

毎回というわけではないが、しかし、その後もミニイッピーは、湯船に現れた。
バスタブに出没するということで、友人に倣って僕も勝手に、バッシーと呼ぶことにした。

バッシーは、ただ現れるだけだ。
よいことも悪いことも、何もしない。
けれども、ただ眺めているだけで、僕はなんだか幸せな気分になれた。
ただ眺めているだけだったが、ある時、気紛れにまた、ちょっと話しかけてみた。

「ねえ、バッシー、君はどこからやってくるの?
もしよかったら、僕をそこに連れて行ってくれないかな?」

期待はしていなかった。
ところが、反応があった。
期待以上なのか、期待とは違った反応なのか、そこはわからない。

いきなり足が、何かに引っ張られたのだ。
右足が、猛烈な力で引っ張られる。
僕は頭をお湯の中に沈められて、ぶくぶく言う。
苦しくはない。
時々浮上したりもするので、溺れることはないだろう。

しばらくそんな状態が続いたが、気が付いたら僕は、お湯の無くなった湯船で、裸のまま震えていた。
バッシーは多分、排水口の向こうに消えたのだろう。
この排水口を通り抜ける自信は、今のところ無いのだが、バッシーはいつかきっと、なんらかの方法で、僕を連れて行ってくれるだろうと信じている。

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