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日本のロケット開発はこうして始まった

 
 前回まで世界のロケット開発初期の歴史を順に解説してきたが、今回から日本のロケット開発についていこう。

 アメリカとソ連のロケット開発を解説した中で再三伝えてきた通り、ロケットの開発はミサイルの開発とほぼ同義だ。なぜなら、ロケットというのはそもそも兵器として開発された歴史があり、両者の違いといえば「酸化剤の量」と「先端に積まれているのが人工衛星か弾頭か」くらいしかないから。それ以外の構造はロケットもミサイルもほぼ変わらないので、ロケットを開発できるということは同時にミサイルを開発できることも意味する 。

 そういう状況の中で、ロケット開発を軍事目的ではなく純粋な宇宙探査のために平和利用しようとしていたのが日本である。

 第二次世界大戦で敗戦した日本は、その後軍備を解体され、航空機開発に携わってきた研究者達は長い間その活動を停止されていた。ところが、1952年にサンフランシスコ講和条約が成立をしたことで、多くの研究者が航空機の研究を再開し始める。

 その研究者の中に、のちの日本の宇宙開発の歴史を作ることになる糸川英夫という人物がいた。彼は戦時中、中島飛行機という所で旧日本軍の戦闘機の設計を手掛けた航空機研究・設計者だった。

 糸川をはじめとする日本の研究者たちが自由な研究を許されたとき、世界の航空機開発はジェットエンジンの時代を迎えていた。日本の多くの研究者も、それに追随しようとジェットエンジンによる航空機の開発に乗り出したんだが、アメリカの最先端の研究に触れる機会のあった糸川だけは、その先を見ていた。それは、宇宙空間を飛ぶことできるロケットこそ研究すべきだ、という信念である。

アメリカから戻った糸川は、1954年から母校・東京大学のとある研究所でロケットの研究・開発に没頭していく。

 開発初期の頃はロケット素材や推進剤の調達が困難を極めていたが、素材には、戦時中、航空機用に作られたまま使われることのなかったジェラルミンが、推進剤には、朝鮮戦争で使われたバズーカ砲の火薬に改良を加えたものが使われた。

 糸川の情熱に触発されたチームスタッフは様々な試行錯誤を繰り返し、1955年、ついに日本初のロケット発射に成功する。

これは直径が18mm、長さ23cmという小型ロケットであり、さながら鉛筆のようだとして「ペンシルロケット」 と命名された。

 おもちゃのような大きさのロケットだったが、のちの大型化を目指して糸川らのチーム地道に発射試験を繰り返しており、東京都国分寺市にある地下壕で行われた試験では、製作した29機全ての発射に成功していた。

 その後、ロケットの全長を30mに延ばす大型化が図られると、実験場は千葉市にあった生産技術研究所に移される。

ところが、東京近郊でロケット打ち上げの実験ができる場所を確保するのは、漁業との関係や安全の面などから難しかったため、最終的に糸川らがたどり着いたのが、日本海に面した秋田県の道川海岸という場所だった。

同年8月にはこの道川海岸でロケットを上空に打ち上げる実験が行われ、17秒の飛行時間で600mの高度に達したのち、700m先の海面に落下した。

 アメリカやソ連の規模と比べるとプラモデルで遊んでいるくらい小規模なものだが、敗戦による影響と純粋な宇宙探査のみを目的とした日本のロケット開発は、予算も人手も、初期の頃は集めるのが難しかった。そんな環境下でも地道に研究を続けていく日本の研究者の姿勢はさすがというべきだろう。

 第二次世界大戦の敗戦後、軍隊を解体され航空機開発を再開できなかった日本だったが、糸川英夫という研究者の情熱によって、日本は鉛筆のような小さなロケットから宇宙開発をスタートさせていく。

純粋な探究心のみで開発していく日本のロケットの歴史はかなり面白いので、次回以降より詳しく解説していこう。

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