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みえるものみえないもの

おわりのはじまり

窓を開けると外は真っ白な世界。そう雪が降りました。まだ根雪とはならないと思いますが、それでも、もう何度か雪が降ってきてそのたびに世界を白に染めてゆきます。どうして雪は白いのでしょうか。なかなかそんなこと誰も考えないと思いますが、でも、不思議ですよね。世の中で白いものって意外と少ないのではないでしょうか。それでも、雪とは何だろうと思って、研究した人がいます。そして北海道大学には「人工雪誕生の地」という石碑があることをご存知でしょうか。中谷宇吉郎博士が北大の一角に設けられた常時低温研究室において、昭和 11 年 3 月 12 日、世界で初めて人工雪結晶を成長させることに成功しました。人の興味、関心、そして、何に驚くか、というのは本当に人それぞれ。まさか雪を研究する人がいるなんて、と思うかもしれませんが、世の中には本当に色々なことを研究している人がいて面白いですよね。

今年は僕は、哲学、心理学などの本を読むことが多かったのですが、どこかでその学問の分類には限界を感じるところがあります。ただ、学問がないと体系的にそのことを学ぶことは難しい。僕の場合は自己流なので、ただ、興味のある本を読めばいいのですが、それを体系的に教えようと思うと先生方はそのカリキュラムを作成するのは本当に大変な作業だなと思います。学問も今ではさらに細分化、専門家する形になってきていますが、でも、その専門分野を深掘りしていくと、なぜだか他の学問とぶつかる領域に出てくる。掘り下げた先にはとても広い空間みたいなものがあるのではないかと僕は感じています。それは、僕自身がというよりも、僕が尊敬する偉人たちは何かの専門家でありながら非常に幅広い知識を持っているからです。最初からその人たちが幅広く色々知っていたというケースもあるかもしれませんが、その人たちはその分野のプロであり、自分の分野を探究していけばいくほど、他の領域や分野へと足を踏み込まなければいけないと感じているのではないかと思うのです。

ここ最近は、中沢新一さんの本を読んでいるのですが、彼は、大乗仏教、哲学、量子論、言語学、精神分析、数学、生命科学、脳科学……に精通しており、非常に豊かな知識を持っています。それもただかいつまんで知っているというのではなく、まさに精通している。僕のように広く浅くではなく、広く深く。こんなことが人間にできるのか、と思うのですが、どうやら人間にはそういうことができる人もいるようなのです。でも、よく考えると、初期のリベラルアーツは、文法・論理・修辞の言語系3学と、算術・幾何・天文・音楽の数学系4学で構成されてました。これを自由7科と読んで、勉強していたのですね。それを考えると、ただ一つの専門的な分野に精通しているだけではなく、複数の学問を修めることの重要性も感じます。リベラルアーツは意訳するならば自由になるための学問。日本では教養などと訳されていますが、でも、なかなかその教養の必要性というのを感じる機会というのは、この専門性重視の世の中では少なかったですが、大学でもリベラルアーツを重視する大学も増えてきたり、リベラルアーツという言葉自体が流行り出したり、何となく一つの専門分野で生きていくということの限界をみんな感じているのかもしれません。

そして、僕の場合は西洋だけではなく、東洋の思考、思想に惹かれる部分があります。西洋のロゴスも非常に面白く好きなのですが、でも、どこかで限界を感じる。それを乗り越えるには、西洋と東洋の融合だったり、やはり東洋の思考をベースに考えていく必要があるのではと感じるようになりました。ただの素人の考えですが、それでも、中沢新一さんのような方が、「レンマ学」という学問を立ち上げようとしているのを見ていると、そういう学問があればぜひ学んでみたいなと思い、『レンマ学』というまさにその名の通りの本を読んでいるのですが、これがまた難しい(笑)

難解なのは当たり前なのですが、どこかでなんとかわかるのではないかと思ってしまう自分がいて、わからないとわかると難しいなと思ってしまい、歩みが遅くなってしまいます。それでも粘り強く読んでいるとわかることがある。そう信じてそういう本を読んでいます。『レンマ学』の中にも書かれていましたが、日本人の中で、西洋と東洋の融合だったり、世界共通の本質を見つけようとした人がいました。それが鈴木大拙であり、井筒俊彦であり、南方熊楠でありと。みんな大天才なのですが、でも、そういう試みを持った人がいて、そういう人の考えを僕たちは知ることができます。先に名前を上げた方々はすでにこの世にはいないですが、その書物を読むことができる。そして、それらの書物を読んで研究している人たちがいる。これってまた非常に不思議なことですね。終わりがない。続いていく。どうして人はこうやって続けていくのでしょうか。

でも、僕も続きが知りたい。何だったらそれを発展させたいという気持ちがどこかにあります。自分のような凡人には難しいかもしれませんが、それでも、学ぶことはできます。学べばそれを誰かに伝えることもできます。それだけでもいいかもしれません。もしかしたら、誰かに伝わってそれを発展させてくれる人が生まれるかもしれないから。

広く浅い読書も、何だかんだそういうことを学ぶのには少しは役に立っているのかもしれません。そう思うと少し生きる意味を感じるところもあります。まだ命をかけてこれを学びたいというところまではいってはいないのですが、それでも、何か方向性を見出せるだけでも人は前に進んでいけるのではないかと思います。

雪が降るということは秋の終わりを意味します。そして、冬の始まりを意味します。終わりがあればまた始まりがある。『レンマ学』なんかを読んでいるとそのおわりとはじまりのつながりというのが非常に面白いなと思います。どこでおわりで、どこがはじまりなのか。本当は誰も知らないのです。季節がいつの間にか変わっているように僕たちもいつの間にか変わっていくのです。雪の景色を眺めていると、そんなことを思います。
おわりのはじまり、さて、そんなものはどこにあるのかと。

今日の記事で最終号となります。これまでお読みいただきましてありがとうございました。
最近出会ってしまった、中沢新一という人とそして「レンマ学」。何かを終えようと思ったら、結局次が始まってしまう。そういう円環みたいなものをひしひしと感じます。非常に広く深い学問なので、どこまで学んでいけるかわかりませんが、僕が行きたい場所へ行くためにも、こういった学問を学ぶことが大切なのだと感じています。生きている限り、旅は続きますね。
まだまだ旅は続きます。内なる旅へ。未知なる旅へ。また旅の途中で会いましょう。
ごきげんよう。さようなら。また会う日まで。

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