夜更けの甘長とうがらし(小説)
金曜日の夜10時。
唐津香苗は重い足どりで自宅マンションに帰ると、5階の角にある一室の玄関ドアを開ける。
その音で、玄関の橙色のライトがほわん、と柔らかく灯った。
『おかえりなさい』
隣人に配慮してボリュームが絞られた声が香苗を出迎える。
「……ただいま、ウタ」
彼女は玄関で黒のパンプスを脱ぎ散らかすと、薄手のコートをハンガーにかけた。スーツのジャケットは脱ぎ捨てて、洗濯機の中へ。
『金曜日まで残業お疲れ様です。今日はご飯は……』
「会社でカップ麺食べたから」
彼女は疲れ切った顔でそれだけ言うと、キッチンに向かい、冷蔵庫のドアを開ける。
小さな冷蔵庫の中には、飲み物だけがびっしりと詰まっている。
缶入りのお酒ーービールに酎ハイ、ワイン。ミネラルウォーター。ドアポケットには、日本酒の瓶もある。
その中から缶入りのワインを手に取ると、冷蔵庫のドアを閉めるのもそこそこにプルタブを開ける。
プシュ。
『今、何かお酒を開けましたか?』
缶を開ける音を拾い、ウタがすかさず声をかける。
「うん、この前買った缶のワイン」
香苗は缶を持ったままリビングに向かい、窓際に置かれたAIスピーカーのカメラの前に缶をトン、と置いた。
『白ワインですね。こんな度数高いのをおつまみもなしに呑むんですか?』
「今何もないんだもん」
『せっかくのワインなんですから、何か作りましょう。夕飯がカップ麺だけっていうのも、栄養バランスが悪いです』
「ウタが自分で作ってくれるならいいんだけどなあ。いつも口ばっかり」
香苗は口を尖らせると、渋々キッチンに向かった。
『わたしが機械の身体がある家事ロボットならよかったんですがね。身体がないから口だけです』
ウタは、香苗が昨年購入したホーム型AIスピーカーだ。家電や電灯のスイッチをオンにすることはできるが、掃除や料理ができるわけではない。
『冷蔵庫の横にある段ボールの中に、ご実家から届いた野菜がたくさんありますよね。何がありますか』
ウタに言われ、香苗は段ボールの前にしゃがみ込んだ。
一週間ほとんど手をつけていない段ボールには、大きなブロッコリー、葉物野菜、新聞紙に包まれた根菜類がぎっしり詰まっていた。
「こんなにあっても食べきれないし、料理なんてしないっていつも言ってるのに」
香苗はボソリと呟いた。ウタはその声を拾ったが、何も言わなかった。
ウタはこの家に来てから、香苗が本格的に料理をしているのを見たことがなかった。
いつも遅くに帰ってきて、夕飯は適当に済ませてしまった後かインスタント食品。たまの休日も外食している。
けれどウタは知っていた。彼女のキッチンには、食品こそないもの、調理器具はたくさん揃っている。スパイスの小瓶も豊富にある。
料理をしていた頃の名残だろうか、とウタは考えている。
ふと、めんどくさそうに段ボールを漁っていた香苗の手が止まった。
「...…ん? なんだろう、この野菜」
ビニール袋に入っていたのは、緑色の細長い野菜だった。形はししとうに似ているがとても大きく、小さめのバナナほどの長さがある。
『これは、甘長とうがらしと言われるものですね。全国にいくつか品種がありますーー平たく言うと、ししとうの仲間です』
「へぇ...…細長いピーマンかと思った」
香苗は手に持った甘長とうがらしをしげしげと眺めた。瑞々しく、ツルツルとした緑色の表面はピーマンに似ているが、ピーマンほど独特なにおいはしない。
「ししとうなんて食べるの久しぶりかも」
『お嫌いですか?』
「ううん。そもそもあまり食べないから、嫌いになりようもーーあ、一度だけ家族と天ぷら屋さんに行ったときに食べた記憶があるけど、どんな味だっけな」
『天ぷらもいいですが、レシピを検索したところ、焼くと甘くなって美味しい、とあります』
甘いんだ、と香苗は口に出した。
「カルパッチョを食べる用にって買ったオリーブオイル残ってるから、それで炒めようかな...…」
『レビューが一番高いレシピを読み上げましょうか?』
「いや、いいわ。自分であれこれ試行錯誤するのが楽しいから」
そういう香苗の目は、心なしか輝きを取り戻していた。
「必要なときは言うから、タイマーのセットだけ、お願いできるかしら」
『わかりました』
香苗はシャツの腕を捲ると、甘長とうがらしを水で軽く洗い、包丁でヘタを切り落とした。
『種も食べられますが、黒い場合はやめておいた方がいいかもしれません』
「そうなんだ」
フライパンでオリーブオイルを熱し、そこに一口大に切ったとうがらしを入れる。
油を馴染ませたら、そのままとうがらしをじっくりと炒める。
「なんか料理しながらBGM流せたらいいんだけど、夜中だしな」
『静かなピアノ曲とかどうでしょう』
「いいね、さすが『歌』なだけある」
スピーカーから、小さめの音量でしっとりとしたピアノの音色が聞こえてきた。曲はベートーヴェンの「月光」。
「ウタの名前の由来、話したっけ」
『家事をするとき側で歌を流してほしいから、と1年前のログにはあります」
「まだその頃は、料理とか家事を楽しむ余裕あったから。でもプロジェクトリーダーになってからは、忙しすぎて料理もしないし。食事も空腹を満たすだけのものになって……」
香苗はフライパンを見つめながらそう呟いた。
『《忙》という漢字は心を無くす、と書きますが、本当にそうなんですね』
心というものがないのでわかりませんが……とウタは付け足した。
「そうね。でも今作っている料理は、《楽しい》かな。珍しい食材にちょっとやる気が湧いたかも。ウタも音楽を流してくれてるし」
『……お役に立てたなら、嬉しいです。あと、ちょうど5分経ちました』
香苗はコンロの火を止め、皿にとうがらしを盛り付けた。甘長とうがらしの瑞々しかった表面には薄く焦げ目が付き、しんなりとしていた。
「じゃ、今度こそいただきます」
香苗はリビングのテーブルに戻ると缶ワインを一口飲み、甘長とうがらしの炒め物を一口齧った。
『……味はどうですか?』
「…………」
香苗は口元に手を当てたまま、しばらく固まっていた。
「何というか……甘いんだけどところどころ癖があって、ほんのり苦味とか辛味もある……」
香苗はごくん、ととうがらしを飲みこみ、ワインに再び手を伸ばした。
「何というか、複雑な味がする」
『甘いってだけじゃないんですね』
「うん、 なんか……こんな複雑な味のもの、久々に食べたような気がするな……大袈裟じゃなくて」
久しぶりに、「食事」を味わってる。
香苗はワインを口に含みながら、真顔でそう呟いた。
「てか、ウタも酒飲めたらいいのにね〜酔っ払いと機械じゃ、テンション違いすぎるじゃない」
香苗は一転して顔をほころばせ、陽気な声でそう言った。酔いが回ってきたのか、心なしか顔が赤い。
『晩酌の相手をする、という機能は搭載していないですね……』
その答えに、香苗はけらけらと笑った。
「製造元に掛け合ったら、アップデートできるんじゃない?」
『そうでしょうか。検索します……』
「やだなぁ、冗談だって」
香苗はまたケラケラと笑い、ワインを一口飲んだ。
ウタには、香苗の機微を完全に理解するのは、まだ難しかった。けれど、その表情を、今夜のことを記録に残しておこう、と思った。
窓の外には満月が輝き、一人と一台が過ごす週末の夜更けを、優しく見守っていた。
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自炊している人はみんな偉いです(とらつぐみ・鵺)