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金木犀が咲く前に(小説)


 けいちゃんってさぁ、絵上手いんだよね?」


図書館の自習室で課題をしていた私は、隣に座った同じ学部の友人にそう話しかけられ、教科書をめくる手を止めた。大学はまだ夏休み期間中だが、館内には学生が結構いて窮屈だ。


「……誰から聞いたの?」

私は低い声で答えた。


「同じサークルの人が高校の時美術部で、桂ちゃんの名前言ったら、県の文化部の大会? で聞いたことあるって言っててさ」

「大会で賞取るくらい上手いから、美大とかに行ったと思ってたって、びっくりしてたよ~」


「……そうなんだ」
「私もびっくりしたよ、そんなイメージ全然なかったし」
「そうかな」

私はそれだけ答えると、教科書に目を戻した。

大会で入賞したらネットにすら名前は載る、隠していてもこうやって分かるのは予想していた。けれどいざ指摘されると、そこそこ居心地が悪い。


友人は何か言いたそうだったけれど、私は用事を思い出したといって荷物をまとめ、自習室を後にした。


大学に入ってもう2年、高校で何をしていたか、なんで今同じことをしていないかとか、根掘り葉掘り聞かれることはもうあまりない。

でも入学当初はその度にこういう態度を取っていたから、「無愛想な奴」と言われていても仕方ない。

けれど好んで話してもいない自分の過去が、いつまでも追いかけてくるというのは――あまり気分よくなれないのが事実だ。


図書館のゲートをくぐり、建物の外に出る。9月の終わり、もう蝉の声はほとんど聞こえないが、キャンパス内の木々もまだ少し紅葉には早い。

今日は雲一つない秋晴れだが、夏の終わりのじっとりした空気がまだ少し残っている。

私は図書館からなるべく離れた場所を目指し、キャンパス内をふらふら歩く。

途中、部活の最中なのか道具を持って慌ただしく走るジャージの3人組とすれ違う。運動部だろうか。そういえばもうすぐ大学祭だから、音楽系も文化系もあれくらい忙しいかもしれない。

高校の時の文化祭前も、美術部は忙しかった。作品の展示の準備をしたり、他の部員と屋台の看板作りに駆り出されたり。

あの時は絵を描くことで頭がいっぱいだったし、美術室の雑然とした雰囲気も、そこにいる人もーー私は好きだった。

でも、今いる大学を受験すると決め、部活を辞めて――その過程で絵に対する熱量が、どんどん低くなっていくのを感じた。

フェードアウト、という感じだろうか。それ以来絵は一度も描いてないし、大学でまた美術部に入ろうという気も、起こらなかった。



「よ、桂ちゃん」
その声とともに肩にポン、と手が置かれた。いつの間にか、サークルの同期の丹羽香里にわかおりが真横に立っていた。


「何かぼんやりしてたけど、大丈夫? 熱中症?」
そういう彼女は、この時期に着るには厚手の生地のカーディガンを着こみ、夏場は後ろで括っている長い髪を下ろしていた。


「香里の方が暑そうじゃん――いや、あのジャージ着た人たち、何部だろうなぁと思って」
「ああ、演劇サークルの人じゃない? 前に、発声練習してるの見かけたから」

「そっか。なんか忙しそうにしてるなって思って」
「そういう桂ちゃんは暇? ちょっと来てほしい場所があるんだけど」
「いつも唐突だな、香里は。何?」


少し突き放すように言いながら、私は香里の顔を見て内心ほっとしていた。

サークルで出会ってから2年、サークル以外でもたまに会えばくだらない話をする仲だ。それくらいの温度感で安心して話せる友達は、彼女しかいない。


「またいいもの見つけたからさ。桂ちゃんにも共有しとかなきゃなと思って」
そういうと香里は、弾むような足取りでキャンパス内の道路をずんずんと進む。

その道路は正門を渡るとそのまま公道につながっていて、大学近くにある住宅街の方へ続いている。

歩く度に前を歩く香里の長い髪が揺れ、彼女のリュックについている神社のお守りの鈴が、チリンと音を立てる。前一緒に行った、大学の近くにある縁結びで有名な神社で売っていたものだ。


大学の門を出て徒歩2分ほど、住宅街の一角にある公園に着くと、香里は「ほら」と公園の生垣を指さした。
「ここの金木犀、もう蕾ついてるんだ。さっきここに来るとき見つけたの」


彼女が指さした樹をよく見ると、低く剪定された生垣の青々とした葉の根本には、確かに小さなクリーム色の蕾がびっしりとついていた。

「ほんとだ、よく気づいたね。こんなちっちゃいのに」
「へへ。まだ匂いがする前なのに見つけられたんだ」

「金木犀もまさか見つかるとは思ってなかったでしょうね、すごいすごい」

私は冗談交じりにそう言うと、香里の頭をヨシヨシとなでた。香里は少し照れくさそうな顔をして、金木犀の葉を指で挟んだ。


「金木犀って、いつの間にか咲いてて、いつの間にか散ってるよね」

「? そうだね」

「ほかの花とかだったら『〇〇、もうすぐ開花!』とか言われるのに、『そういやいつの間にか咲いてていい匂いするね』って」

「でも、それくらいの方が、心穏やかでいいんじゃない? 花にとっては」

私の言葉に、香里は首を傾げた。

「いや、いつ咲くのかなって、ずっと見られたり、期待され続けるのも疲れるんじゃないかなって」

「……面白いね、その考え方」

「そうかな?」

「あたしは、蕾が膨らんできた時のワクワク感とか、散るまで見届けてあげたいとか思っちゃうタイプだから、そういう考えもあるんだなって」

そう言う香里は、金木犀の蕾越しにどこか遠くを見ているように見えた。



その後、香里は付き合ってくれたお礼、と言って公園の自販機で缶コーヒーをおごってくれた。

ベンチに座って一緒にコーヒーを飲み、他愛もない話をして、「またサークルで」と言って、その日は別れた。


***


一人で部屋の中にいると、静寂がふと怖くなる時が来る。

意味もなくテレビをつけたり、SNSを見たり……それでも気が紛れないときは、用がなくても大学に行くことにしている。

夏休み期間でも、自習したり研究室に行ったりする学生や、部活動をする学生がいて、大学の中はいつでも人の気配があるからだ。


あたしはある昼下がり、いつものようにアパートを出て、大学に行くために自転車を数分こいだ。近道して住宅街の中を突っ切ると、平日の午後だからか、人の気配があまりない。途中、ベンチと自販機しかない小さな公園の横を通った。

去年の10月ごろ、授業終わりに友達の桂と一緒にこの公園の横を通ったら、金木犀のいい匂いがしたな、とふと思い出した。自転車を止めて生垣をよく見てみると、まだ少し早いのか、花は咲いていないし、あの独特な匂いもしない。

けど枝をよく見てみると、クリーム色のまだ硬そうな蕾がたくさんついていた。数日後に、あのうっとりするような匂いとともに、オレンジ色の小さな花が見られるんだと思うと、少し嬉しかった。


その公園からは自転車を押していき、大学の正門近くにある駐輪場に自転車を止め、図書館の方へと歩いた。

その途中、道を挟んだ向かい側に、ボブカットの黒髪に半袖のチュニック、ロングスカートをはいた女子学生を見かけた。桂だ。


あたしは胸が少し弾むのを感じた。急いで道路を渡り、手を振りながら駆け寄った。


☆☆☆


「趣味とか、特技は特にないです」
あたしがサークルの新歓で仲良くなった彼女、夏目桂は、他の学生の前で自己紹介をするときにそう言っていた。

その言葉にはどこか冷たい響きがあって、まるで自分のことを他人には何も見せたくない、みたいな印象すらあった。


「夏目桂って子、名前聞いたことあるよ。従妹の高校で有名な子だったみたい」

「彼女の高校、『部活動も勉強も』みたいなとこなんだけど、そこで美術部のエースだったって」


噂好きな学科の同期たちはそう言っていた。

彼女たちが言うには、高校2年の冬ごろ桂は「大学受験に集中したいから早めに引退したい」と言い出し、そのことで顧問や現役の美術部員と折り合いが悪くなったという。

その話で何となく、彼女が高校の時のことを話したがらない理由が分かった気がした。


その新歓の後、あたしは桂と一緒にそのサークルに入った。

桂はたしかに自分のことはあまり話さないけれど、悪気があるわけじゃない。自分がこれまでしてきたことや、絵を描くことから離れて、新しい自分を探しているだけなのかもしれない。

彼女のことを近寄りがたいと感じている同期もいたけれど、あたしはむしろ――そんな彼女のそばにいたいと思った。


サークルに入ってから、あたしは彼女に何かにつけて話しかけてみた。サークル以外でも、授業で一緒になった時や、あの住宅街を抜けて一緒に帰路につく時に。

最初こそあまり反応してくれなかったけれど--半年くらいしたある時、桂はあたしの他愛もない話を聞くのが好きだ、と言ってくれた。

そしてあたし自身、自分がつまらない人間じゃないかと不安にならず話せるのは、桂だけだと気づいたのは、その時だ。

☆☆☆

今日もまた、桂はあたしのくだらない話で笑ってくれた。ほんのちょっとだけど、桂の考え方も知れた。

公園の金木犀はもうすぐ咲くだろう。

今年、そして来年からもずっと、匂いで金木犀が咲いたと気づくとき--今日のことを、桂は思い出してくれるだろうか?


日が傾いて肌寒い中、自転車は風を切って住宅街を進んで行った。



ーー

*カバー写真は「みんなのフォトギャラリー」よりはなえみ🌺(人事+キャリアコンサルタント+産業カウンセラー)×宝石鑑定士💎(@hanaemi_jewel)様の写真をお借りしました。

我が家の庭ではまだ咲いてないけど、今年は金木犀の開花が早いみたいですね(とらつぐみ・鵺)