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保育園を辞めてから藝大作曲科に入るまでの話

こんにちは。作曲家の内田拓海です。
自分は特別な音楽の教育を受けたわけでもなく、高校からピアノや作曲を始めて藝大の作曲科に入りました。今回はその経緯を自己紹介も兼ねてnoteにまとめてみようと思います。
また少し一般的な育ち方と違う部分があるので、そこも取り上げて書いてみることにします。


誕生、保育園を辞めるまで

1997年、神奈川県に生まれます。そのころは特段変わった様子もない普通の子どもでしたが、絵を描くことが好きで、父親のサーフボードに落書きをしたり、壁中絵を描きまくったりしていて、特にピアノなどを習ったりはしていませんでした。また、当時よく一緒に遊んでいたホームスクーラーの友人がいて、このことがわたしの人生を大きく左右することになります。

さて、見出しにも書いた保育園について、当時わたしが通っていた保育園(無認可だったらしいです)で起きた事件についてお話しします。

細部までははっきりとは覚えていないのですが、保育園で絵を描いている最中、友だちにクレヨンを奪われそうになり喧嘩になりました。そして、止めに入った保育士にこっぴどく怒られるという体験をしました。このことが大きなトラウマになり、帰り道泣きながら母親に打ち明けたところ、保育園は辞めることになります。

小学校の入学を辞退するまで

保育園をやめ、その後しばらくは自宅で普通に過ごしていました。そして、6歳になり小学校への入学の通知が自宅に届くと、それを読んだわたしは母親に「自分は小学校にはいきたくない」と相談を持ちかけます。

さて、なぜ学校にいかないという選択肢がこの時すでに頭にあったのか?

これは保育園での事件が原因ではなく、前述したよく遊んでいたホームスクーラーの友人がきっかけです。幼い頃から「学校に行かないという生き方」をしている友人を間近でみていたので、自然と学校に通わないという選択肢を認識していました。

……とはいうものの、学校に行かないというのは、当時も一般的な選択だったわけではありません。それなりに両親も悩んだようです。家族で話し合いがあった末、結果的にはOKということになり。晴れてホームスクーラーの仲間入りを果たしました。
裏では教育委員会の方と話し合いがあったり、小学校の籍が抜かれてしまったため、中学に入学する時(通ってはないわけですが)に問題になったり、いろいろあったそうですが……。

小中時代、高校入学まで

無事にホームスクーラーになり、小学校がない分自由な時間を過ごしました。最初の数年は勉強もしていましたが、小3ぐらいからはキッパリやめ、毎日ゲーム三昧の日々。当時ハマっていたゲームがFF6やクロノトリガーといったSFCの名作で、ストーリーやシステムにも熱中しましたが、とりわけその上質なBGMに感動していました。いまでも影響を強く受けています。
また、ネットサーフィンにもうつつを抜かし、フラッシュをいろいろと見たり、自分でブログを作って、訪問者数のカウンターが回るのを眺めたりして過ごしていました。

そして、中学へ上がったあとは(前述の藉問題があったそうですが)ゲームやネット好きが高じて、今度はMMORPGやFPS熱中します。毎月のお小遣いでWebMoneyを買っては課金を繰り返していました。そこでもBGMを聴くことが本当に好きで、クライアントからBGMだけ抜き出して聴いたりしていました。またちょこっとだけ塾にも通い始め、勉強を再開したりしました。

そんな風に毎日を過ごしていたのですが、時が過ぎるのは早いもので高校受験の時期になります。このままの流れで行くと、高校は通わないのが普通な気がしますが、さすがにゲームばかりの日々に飽きていたのと、外との交流が欲しかったため、思い切って高校を受けることを決めます。そして、誰でも入れる通信制の高校を選び、簡単なアンケートのような試験を受け無事に合格。無事に高校生になることができました。

また、将来のことについても真剣に考えるようになり、あれこれと考えを巡らせるようになります。

「自分はどうなるのだろう。自分がなりたいものはなんだろう。自分の好きなものはなんだろう?」

そう悩みながら何気なく眺めていたYouTubeでたまたま見かけた動画をポチッとクリックしました。それが坂本龍一氏の『Merry Christmas Mr. Lawrence』の動画でした。音楽が始まるにつれ、不思議とこれだと確信が持てました。

「作曲家になろう」

そう決めたわたしは、坂本氏の出身大学を調べ、そこを受験することを決めました。そこが難関大学であるということもまったく知らずに。

高校、受験期

このころになるとすっかりゲームはやめて、音楽の勉強に打ち込んでいました。高校に入ってまずは独学で楽典の勉強を開始、ほぼ弾いたことのなかったピアノの練習も始め、ソルフェージュのレッスンも受け始めます。

習いはじめのころの聴音のノート、絶対音もなかったので大変でした。

高1の冬ごろには最初の恩師から作曲を習い始めます。「和声 理論と実習」を第1巻から、黙々と解く日々が始まりました。
高校が通信制ということもあり、たっぷりと時間があったのでピアノ、ソルフェージュ、和声をひたすらに解き、休憩時間にはクラシックを聴きまくる、そんな生活を送っていました。しかしそんな生活を続けること数ヶ月、補充課題(和声の予備の課題)もすべて解き終わるころにある悲劇に見舞われます。

腱鞘炎

課題をガリガリと書くことを連日長時間に渡って続けていたところ、右腕が腱鞘炎になってしまいました。正直、これには困りました。何か書こうとするたびに腕に激痛が走る状態が続くのです。なんとか解決法がないかと、病院に行きサポーターを付けたり、湿布を貼ったり、左手で書こうとしたりしましたがどれも気休め。最終的にはパソコンを使い、打ち込みで譜面を作って先生の元に持っていくようになりましたが、藝大作曲科の入試当日はパソコンは使えません。そこで、なんとか腱鞘炎を治すために習い始めたのがアレクサンダーテクニークです。その後数年の間習い、ある程度腕の痛みからは解放されるのですが、詳しく話すとこのnoteの趣旨から逸れてしまいますので、今回は割愛します。

和声のレッスンノート。添削で真っ赤になっている。

入試

そんなこんなで勉強を続けて、高3の夏には「和声 理論と実習」の第3巻も終え、新たに2人の目の作曲の先生にも習うようになります。新たな先生の元シャランの380の課題を解くようになりましたが、まだ多くの課題にも取り組めていないまま、現役での入試を迎えることになります。

藝大の作曲科の入試はセンター試験(国語・英語)を除いて、2次試験が4回にわたって行われます。2018年藝大作曲科入試、1次の和声、2次の対位法を終え、3次で弦楽四重奏が出たときは、当時まだ一度も書いたことがなかった編成だったため「終わった…」と思いました。しかし意外なことに突破、4次試験に突入しました。4次試験では思い出したくないほどぐちゃぐちゃになってしまった副科ピアノの試験や、壊滅的初見演奏を披露した面接など、散々な結果に終わりました。すべての試験を終え、憂鬱な気持ちとほのかな期待を胸に、上野まで合格発表を見に行きましたが、

結果は不合格。

仕方ないなと思いました。しかし、成績開示をしてみると、意外なことに合格圏内の順位自体はキープしていました。ただよくよく見ると、総合判定に影響のあった科目名の欄に「初見演奏」そして「英語」の2文字が。初見演奏は勉強も浅くボロボロになってしまったので納得したのですが、思わぬ伏兵……そう英語が足を引っ張る結果になってしまったのです。思い返せば高校ではひたすらに音楽の勉強に打ち込んでいたせいで、すっかり英語の勉強をしていませんでした。200点満点中50点という驚愕のスコアを叩き出したわたしは、あえなく退場。最後の最後で足切りを食らうという結果になってしまいました。

浪人期、1浪目

悔し涙もそこそこに1浪目に突入したのですが、この浪人1年目はある一点を除いて特に語るようなことは起こりませんでした。そう「英語」を除けば。

現役時の結果を踏まえて、英語さえ勉強すれば合格することがわかっていましたが、この1浪目わたしはまったく英語を勉強しませんでした。正確にいうと拒絶反応が起きてしまい、どうしても勉強ができなかったのです。5秒と単語帳を眺めることができない状態でした。

しかしその代わり、作曲の勉強には狂ったように打ち込み、シャランの380の課題の主要な課題を一通り解き終え、新しくシャランの24の課題にも着手、そのほかにフォーシェ、ギャロンといったフランス和声を解き、作曲に勤しむ日々を送りました。また作曲家のスタイルを分析することに熱中し、フランクのヴァイオリンソナタそっくりの曲を書いたり、ラヴェルの和声をしきりに分析したりしていました。

入試対策で書いていたヴァイオリンソナタ、シューマンやブラームスなどをよく参考にしていました。

そして迎えた入試当日、問題なく問題を解き面接まで行きました。前回ぼろぼろになった初見演奏も問題なく突破。そして最終合格発表の日を迎えます。上野まで合格発表を見に行き恐る恐る掲示板を見ると、番号が……ない。

結果は不合格でした。

前述の通り英語を勉強していなかったのが原因となり、再び足切りを食らってしまいました。なおこの時の実技試験の成績は、1次4位、2次2位。3次4位、4次3位となかなかの高順位で順当に行けば合格していたと思います。

けっこう頑張ったソルフェージュ。この時はまだ結果に繋がらなかった。

浪人期、2浪目

まさかの結果に終わってしまった1浪目ですが、2浪目になると己の不甲斐なさや、燃え尽きからくる鬱状態になってしまいました。

作曲のレッスンは一旦中断。しばらくは藝大を受けるべきかどうかも悩みながら、久しぶりにゲームをする日々を送りました。この時はまっていたのが当時S7だったLOLです。毎日のように音楽を続けるかやめるか、志望校は本当に藝大でいいのかと悩み続ける生活が続きましたが、ふと時間があるとピアノで好きな曲を弾いたり、CDを掛けて聴いたりする自分がいることに気付きました。「もう1回だけ、あと1回だけやろう」そう決めた時にはもう夏に差し掛かっていました。

そしてまず最初に始めたのは、塾を探すことでした。とにかく時間がない上、英語をなんとかしなければいけない。そこで個別指導の塾に通うことで英語のレベルアップを図りました。結果、その年のセンターでは合格水準の点数を取ることができました。自己採点で点数がそれなりにあったのを見て、その時点で「受かった」と思ったことを覚えています。また入試直前の冬から作曲のレッスン再開、僅かな期間でしたがリハビリを兼ねて勉強し直しました。

入試直前の対位法、最初と比べれば多少良くなっている気がする……。

そして迎えた藝大の試験。この頃になると試験にもかなり慣れていたので、試験時間を大幅に余らせて解き終わっていた記憶があります。(和声は1問1時間ぐらいしかかからなかったです)そして最終試験の日、苦手な初見演奏の課題を見るとテンポの速い曲が出題されました。まいったなと思いつつぼろぼろな初見演奏(それでも現役よりはマシな)を披露し、面接に入ります。面接官の先生から「もしかして去年も受けましたか?」と言われたことは忘れられません。そして……。

合格

合格発表を迎えた日、ネットで結果を見ることもできますが、例年通り上野まで見に行くことにしました。結果が掲示されている場所に向かう途中、ピンクの合格紙袋を持っている人を見るたびに、もし自分が落ちていたらと胸が痛くなりましたが、今年は落ちる理由がないはず……と自分を鼓舞し結果を見に行きました。

結果は合格。

帰り道、恩師に「受かっちゃったみたいなんですけど……」と弱気な電話を掛けたら「受かったの!?落ちたの!?どっち!?」と突っ込まれました。
こうして長い浪人生活を終え藝大生になることができたのでした。

例のピンクの紙袋。いまだに保管してある。

終わりに

こうして受験を振り返ってみると、けっこう頑張ったなという気持ちと、よく受かったなというふたつの気持ちが自分の中にあります。音楽の教育をまったく受けてこなかった自分がなぜ藝大に入れたのか。理由はいろいろあると思いますが、特別才能があったわけでもないのに、受かったことを考えると、環境(両親からの理解など)、適切な指導、そしてほんのちょっぴりの努力だと思います。藝大の作曲科に限っていえば勉強の範囲は広く求められるものの出題範囲のブレは少なく、対策しやすい気がします。適切で的確な指導を受けることさえできれば、努力次第で入れる可能性は決して低くない科だと今は思っています。(大変だったけどね!)

受験期の作曲の勉強ノート。

コンサートのお知らせ

第一回内田拓海作曲個展「詩と歌」
12月2日、開催決定!

「詩と歌」と題した本個展では、詩の朗読、そして歌曲、この二つの表現方法で言葉と音楽の結びつきを探究します。演奏曲目は、ハンナ作曲賞で優秀賞となった「Intermezzo for Piano」や、今年奏楽堂日本歌曲コンクールで第三位に輝いた「竹内浩三の詩による歌曲集『うたうたいが……』」まで幅広く取り上げ、今回のための新作の発表も行います。一夜限りの特別な演奏会。ぜひ会場でお会いできることを楽しみにしております。

チケット・詳細はこちらからご覧ください!
https://takumiuchida-1stconcert.peatix.com

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