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新しいスーツ…。

「珍しくみんないるから入学式用のスーツ買いに行く?」

一月の平日のまだ外が暗くなる前、僕がリビングでこれから始まる赤黒のクラブの今シーズンを横になりながら瞑想していると妻が少し強い口調で言った。

「そうと決まったら、グテーっとしてないでさっさと行くよ!早くして!」

瞑想していた者の立場から言わせてもらうとまだ何も決まってないわけで、”グテー”とでは無くあくまでも新加入の髭を蓄えた魔法使いのブラジル人の来たるシーズンのポジションについて思考を巡らせていたのだが、そう答えれば平穏な休日に暗雲が立ち込めるのはうん十年の結婚生活で学習済み。僕は「はい」とだけ言った。傍らでは小学校5年生の我が家の問題児がスマホから目を離さず「行って来い、行って来い!家族3人水入らずで…」と推しのクラブの選手を叱咤激励するようにチャントをうたう。僕は瞑想から体を起こし「どうする?」と、この買い物の主役の娘に言った。あと数か月で我家を出る娘は「着替えてから…うーん、まあ、この格好のままで…いいか」と妻を介して僕に答えた。

助手席で今度機会があれば我が息子に「家族水入らず」について教えなおさないといけないな、なんて事を考えていると、紳士服のチェーン店の駐車場にあっという間に着いた。家族水入らずの時間は瞬く間に過ぎるのだ。車のエンジンがとまってもそんなたわいもないことを考えている僕に娘が久しぶりに顔を向け「3人で行くのおかしくね?」と呟いた。卒業して3年たつ中学校の指定ジャージを着る娘の体は僕と妻の答えを待つ間もなく車の外に半分で出ている。いつもそうするように僕は問題の答えを得ようと運転席の妻に顔を向けた。「それもそうね」と妻が穏やかな声を発し「じゃっ」と言って娘の後を追った。店内へのストロークを歩く殆ど背丈の変わらない二人の後ろ姿を見ながら僕は「やれやれ」と小説の主人公のようなセリフを頭の中で言った。無駄に広い駐車場には車は一台きり。その貸し切りの駐車場で僕は娘の関係がこんな感じになったのはいつからだったかなと思い返した。そういえば娘と過ごした18年間のうちの後半5、6年は「3ターン」以上の会話はした覚えが無い。だからってコレと言って喧嘩の記憶もない。そのせいぜい「3ターン」迄の会話もだいたいは妻を間に挟んだ「壁パス」の形だった。僕はみんなの前では禁じられている煙草をここぞとばかり吸おうと思い窓をあけようとドアに手をかけた瞬間。そこには娘が立っていた。そして車窓越しにもはっきりとわかる口調で「サ・イ・フ」と口をうごかした。こんどは「やれやれ」と声にはっきりと出し娘に財布を渡した…。

今度は一人で店に入っていく娘を見ながら小さい頃は結構仲の良かった親子だったはずだと自分を問うた。札幌ドームで赤黒のタオマフを身につけ僕の膝の上で舌足らずのチャントを選手に向けて歌っていた頃。試合を見る時は「トトのおひざの上」と言って両親を困らせ、試合中、その半分を夢の中にいても帰りの車中では「楽しかったねー、また来ようね!」と得意気に言ってはしゃいでいた。試合を見に行く出発前夜から赤黒の制服を着出し「あした”すすきの”うたうかな?うたえるといいねー」と妻に怒られる迄二人ですすきのへ行こうを熱唱してたのもついこの間の様な気もする。弟が生まれてからは流暢に札幌ドーム内をアテンドし、不釣り合いに娘が弟を膝に乗せて試合をみていた。そんな娘もやがて年を重ねるにつき試合にはついて来たり来なかったりとなったが、たぶん彼女の頭の片隅のどこかには赤黒のクラブがあるらしく「最近どうなの?」と僕に聞いてくるときはそれが父の調子ではなくコンサの順位のことだった。つまりはコンサ以外のこと。部活の悩みも進路の相談も娘の話は直接では妻を介し僕に尋ねられ、僕は妻を介し娘に応えていたことを思えば3ターンの「共通話題」はコンサのことしかなかった様な気もする。卒業を控えた今季の開幕戦は準備やなんだかんだでたぶん娘は膝の上どころかついてもこないだろう。そう言えば最後に試合を一緒に見たのはいつだったのかな。煙草の煙を少し開いた窓から外に吐き出しながら考え目を向けた外は少し暗みを帯びてきて空からは白いものがおちてきた。まだ2人が帰ってきそうもない店内を見ながら「いつまで待てば…」と僕はつぶやいた。

「いつまで待てば…」妻がしんしんと降る雪の中で長い待機列の中でつぶやいたのはもう何年前の最終戦だったかな。「なんであっちに並べないの?」と僕の腕の中で娘が指す先行入場列はその気温とは裏腹に熱気を帯びて少しずつドームの中に吸い込まれて行っていた。開幕戦とはまた違うお祭りのホーム最終戦。巨大な創造物に消えてゆく赤黒の人々を見ながら僕は「あとちょっとだね。そしたらドームの中はあったかいよ」と娘に言った。そんな二人を見て妻は穏やか顔をしている。そんな時だった。「オレはちっちゃい子が居たら指定席とるよ。当たり前だろ!」少し後ろに並ぶ大学生ぐらいのグループの野太い声が私たちに聞こえるか聞こえないか、それこそ絶妙なゲームメーカーのパスの様に放たれた。その後の笑い声を聴きながら僕は妻の顔を見た。妻の耳にもはっきりとその声は届いているのがわかる。妻は一瞬険しい顔をしたが直ぐに僕の腕の中の娘に「寒くない?」と聞いた。その時の妻の何とも言えない表情は今でもたまに頭の中に浮かんでくる。「寒くない?大丈夫?」妻は娘に何故かもう一度そう尋ねる。その頃のおしゃべりな娘にしては珍しく黙って頷くとどこに視線を送るでもなく…そう降り注ぐ雪のもとの空に向けてこう言った。「楽しいね!こうやって並ぶの私好きだよ!」…と。絶妙という表現には程遠いボリュームで。その言葉は大学生達の頭上を通り抜け雪の降る北の広い空に吸い込まれていった。そして僕の耳元で「ちあい、つれてきてくれてありがとね」って今度は僕の感情を揺さぶるには絶妙なボリュームで言った…。

ぶっきらぼうに車のドアを叩く音に我に返り外を見るとジャージを着た娘が大きな紙袋を両手に持ち立っていた。僕がドアのロックを解除すると娘は黙って後部座席に乗り込んだ。沈黙…。妻は会計をしているのだろうか。娘と二人の時間は家族水入らずの時間より”ゆっくりと”流れるのである。やがてその沈黙に耐え切れず僕は言葉を発した。

「いいのあった?」                           「うん…まあ…」   ワンターン。

「良かったね」

「そうだね」    2ターン。

「あと…何用意しなくちゃいけないんだっけ?」

「なんだろね…」  3ターン。

沈黙。

3ターン目が終わって僕は耐え切れず妻が戻ってくるまでにと煙草に火をつけた。その時娘が後部座席から身を乗り出した。そして耳元でこう言った。

「…ありがとね」   4ターン…はルール違反なのである。僕は必死に何かがこぼれないように目をつむった。そして家で待つ息子に「家族水入らず」の意味をおしえ直すのは僕がもうちょっと”大人”になってからにしようと思った。

君が新しい街で、新しい生活を始めて例えば、ふとした時に地下鉄の長い階段で途方に暮れたり、目の前の横断歩道を優柔不断の自分が横切ったりしたときにね。ドームや厚別に行った事を思い出してほしい。二人でチャントを歌った夜や、弟とドームを走り回った事や、帰りの長い車中のしりとりを頭の片隅に大事にしまっておいて何かあった時に引き出してみてください。それでどうなるか僕には上手く言葉では表せないけど、僕にとっての「赤黒のクラブ」はそういうものだから。そして新しいスーツと同じように赤と黒の制服も大事に部屋に置いといてください。ああ…随分と喋ってしまった。3ターン以上はルール違反だね…。

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