吾輩は…。


中秋の名月に幾日か足りない夜に自室の窓から月を眺めていた。その日もそう決まっていたかのような残業ののち帰宅し、家族が寝静まった中、本来は皆で食べていたはずのジンギスカンをホットプレートで「静かに」焼いていた。行儀よく一人前に皿に乗せられたラムと野菜を交互に並べながら、そういえば最後に赤黒のクラブの試合を見に札幌へ行ったのはいつだった考えた。

4月から勤務先が移動になり、今季は「さっぽろ」に足繫く通うと自身に宣言してから半年弱。結局前任者との引継ぎ時に半ば強引に休みを獲得して以来、この街おろかこの「会社」以外に吾輩はどこに行ったのでだろう。結局あの日の試合ののちにホテルにもどり、試合結果とは裏腹に良い気分の自分に満足しその36時間後、吾輩はそそくさと自ら鎖に繋がれるため「会社」に戻った。責任感といえば聞こえがいいが、結局そこにいれば毎月決まった「餌」が与えられる。大好きな赤黒からは少し距離を置くがそれなりの生活を保障され平々凡々な暮らしを送ることができる。そう、吾輩は「社畜」である。

一人ジンギスカンを静かに終えシャワー浴びながら鎖に繋がれた自分の姿を想像し、煙草を吸うために窓を開け少し満月に足りない空を見上げていた。月の肴はもう何世代も前のiPhoneから流れる愛する赤黒のクラブのチャント集だ。するとノックもせずに普段は寄り付きもしない我家の三匹いる猫の末っ子が吾輩の部屋に侵入し、机に飛び乗り吾輩の横にやってきた。いや吾輩に寄ってきたというよりも今宵の月に吸い寄せられたという表現の方が適格だ。彼は吾輩と同じように空を見上げもの悲しそうな顔をした。そう見えたのはちょっと感傷的な吾輩の気持ちを重ねていたかもしれない。しかし考えてみれば彼も鎖こそないが我家に繋がれている存在だ。こんな奇麗な月を見ている夜はきっと彼もそんな気持ちになるはずだ。

そうしてしばし、彼と吾輩は互いをうっすらとでも確実に意識し月を眺めていた。しかしながらいくらそんな時間を過ごしていても彼と吾輩の感傷的な気分は癒されるわけでなく、鎖からも放たれるわけでもない。明日も仕事だ。もう床につこうと吾輩が窓を閉めようと立ち上がった刹那、末っ子の彼は一瞬吾輩の方を見、月明かりに照らされたいつもより幾分明るい暗闇に飛び出していった。窓から外を見てももう彼の姿はない。「お前と一緒にするな。俺はいつだったこの鎖から逃れるられるんだ」そういわんばかりの彼の一瞥を見て、なぜだか吾輩は妙に納得し彼と吾輩を重ねたことに恥ずかしさを覚え、そして我に返った。彼の自由を謳歌したい気持ちは痛いほど吾輩にもわかる。吾輩だって日々の務めを小休止し今すぐ「さっぽろ」に飛び出していきたい。が、よく考えてほしい。吾輩には「社畜」の立場のほかにまがりなりにも「家長」の立場もある。家長よりも支持率の高い彼を吾輩が逃がしたとなると我家での立場はどうなる。想像するだけで戦慄を覚え吾輩は慌てて外に飛び出した。そう…吾輩は「家畜」でもあるのだ。

外に飛び出し彼の名前を二、三度呟く。静まり返った月夜はこの季節にしては少し暖かった。こぢんまりした我家の外周を一周し彼の姿がないことを確認すると吾輩は用意周到にポケットに彼の「餌」を忍ばせ近所に足を延ばす。そしてiPhoneから「猫が寄ってくる音」という動画を流すという姑息な手段にでる。それは吾輩が彼の名を呼ぶよりは随分効果がありそうな気がした。去年まで赤黒の胸に背を向けて座っている男女のメーカーのジャージを身に纏い、右手に彼の餌を持ち、左手に持つiPhoneからは彼の同業者のさかりのついた鳴き声が響き、彼の名前を小さく連呼する吾輩。まるで初めて行ったドームのゴール裏でお気に入りの選手の愛称を恥ずかし気に呼ぶようないつしかの吾輩。こんな姿を近所の者にみられたらどう思うわれるだろう。とはいえ昨年の今頃ここに越してきて以来こうして家の近所を歩くのも初めてのような気もする。吾輩の顔をこの夜中に識別できるものなどいないだろう。吾輩は「さっぽろ」はおろか家の近所すらゆっくりと探索していないのだ。姿どころか物音すらしないことに絶望すら覚え、家の中で煙草を吸うことを禁じされているため窓を開けていた隙に彼が外に逃げ出したとはとても家族…妻に説明できないと考え、そして仕事の疲労感が合わさり吾輩は、なぜだか目頭が熱くなってきた。しかし両手は餌とiPhoneかでふさがっておりその熱いものを拭いさることもできない。そして近所の探索はあっという間に終わりをつげ吾輩は我家の玄関先に腰を下ろした。その頃にはiPhoneから流れる動画は再び赤黒のクラブのチャント集に戻っていた…。

途方にくれる吾輩は末猫の名を呼ぶのも止めいつの間にかその動画に合わせチャントを歌っていた。一体自由なんて吾輩に存在するのか。それが「大人」だともう一人の吾輩が答える。だとすると吾輩は何故「立派な大人」になろうと毎日、会社で、我家で、生き急ぐ。中学生のような自問自答を繰り返し玄関先でいつしか動画に合わせ「スティング」を口ずさむ吾輩。きっと彼は今頃この月夜で自由を謳歌しているだろう。だったら彼こそがもう一人の「吾輩」だ。吾輩が中学生の頃に思い描いた吾輩だ。鎖に繋がれている己に自ら別れを告げ、自由を満喫する。もうじらさないで、我慢できなかったのだろう…。きっと。

その時背中の玄関の戸が音もなく開いた。眠気まなこで外に出てきた吾輩の妻は吾輩に目もくれず末猫の名前を二度ほど呼んだ。静寂。するとどうであろう。月夜の何処からと忽然と彼が現れた。一瞬の自由を堪能して満足顔の彼はためらうことなく妻の胸におさまった。妻は彼の頭を撫でながら「おかえりなさい。アウエーはどうだった?でもホームがあってこそだからね」といった。自由を謳歌したもう一人の吾輩…いや彼…、否「チャチャ」が「そうだ」と言わんばかりに「ニャン」となく。
そして「チャチャ」は吾輩の顔を見て確かにこう言った。「来月は無理してでも札幌に行ってこい。ただあくまでも「ほーむ」があってこそだぞ」

あの9月半ば過ぎの深夜。今思えばそういったのはチャチャではなく無論、妻だったのだろう。そうだ。そうなんだ。来月こそはなのだ。なぜなら吾輩は、復帰した荒野拓馬の名を呼ばなければ。なぜなら吾輩は、躍動著しい田中駿汰を見届けなければ。なぜなら吾輩は、左CBを務める菅をこの目に焼き付けなければ。なぜなら吾輩は、もがき苦しむコンサドーレを心に留めなければ。

吾輩は「社畜」である。

そして吾輩は「サポーター」でもある。

休みの予定はまだ無い…。





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