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インザ・1.97million…。(2)

第1話はこちら

「いらっしゃーーーーーーい!!!!!!!!!!!」

甲高い声で出迎えられたちょっと”こじんまり”したスナックには、とびっきりの笑顔でいくぶん”ぽっちゃり”したママらしき女性が立っていた。それはまるで拓海がこの店に現れるのがわかっていたかのような笑顔だった。

拓海はその笑顔を見て嫌な予感がした。

よくよく考えてみたらいくら具合が悪かったとはいえ、知らない土地の知らないスナックに飛び込むのはどこかのフットボールクラブのように、いささか「超攻撃的」ではなかったか。いくら「敵」は小さなスナックとはいえ197万都市の店。これではまるで場慣れしない下部リーグの田舎クラブが、百戦錬磨のトップリーグのクラブの雰囲気にのまれ、相手の罠に誘われるがままに気持ちよくゴール前に侵入して悦に入っている状態だ。いや…気持ちよくはなっていない、具合が悪くなっていたのだ。だから、自分は冷静な判断を…。違う、違う。あくまでも緊急事態だったのである。安全第一。つなぐ事よりタッチラインを割る大きなクリアーを選択したのである。…で、そんな拓海の心配をよそにママはカウンターから巨体を揺らして飛び出してきた。歳は拓海より少し上か?30代後半…いや20代と言われればそんな気もする。言ってみれば年齢不詳…。
「さあ、さあ、さあ…」
背後に回り込み両肩に手をあて拓海をカウンター席に促す。…敵の戦術はオールコートプレス。
「あの、すいません…お客というよりか、ちょっと急に具合が…」
こちらのペースに戻すんだ。
「いいから…いいから」
ママは全身の肉をこちらに当ててプレスをやめない。
「ですから…サッカーを見た帰りに何故だか動悸が…」
「そうよねー。いろいろあるわよねー。でもダメよ、思いつめちゃ。人生、まず座りましょう。ゴールを目指すには一旦座りましょう。そう。人生はスタンディングではなく、クラウチングスタート!」
クラウチングスタートは座っているのではなく、どちらかというとこれから立ち上がろうとしているのではないか…。ダメだ。どうでもよい事に思いを巡らせている。ママが両肩を勢いよく叩くと拓海は吸い込まれるようにカウンターの丸椅子に腰が落ちた。
「ハイ!よくできました。クラウチング!」
…仕方ない。いきなり店に飛び込んだのはこちらの方だ。店先で強引な客引きにあったわけではない。一杯飲もう。相手も商売だ。少し休んで店を出よう。少し休めば…。あれ?動悸がさっきより随分と治まっている。
「さあ、スタートの号砲はとりあえず何かしら?」
ママは背後から拓海の顔を覗き込む。ママの胸…いや、体の肉が拓海の背中に触れるのがわかった。。拓海は再び動悸が早くなるのがわかった。
「と…とりあえず」
「とりあえず!!」
「…ビールで」
「はい!喜んで!!オーダー入りました!スギウラちゃん!!ご新規48番さんにジョッキプリーズ!!」
拓海は驚いた。
それはオーダーを取った掛け声が学生時代によく痛飲した居酒屋チェーンのそれだったからではなく、まして数個のカウンター席しかない店のこの席が48番だったからでもなく、ママがジョッキを「プリーズ」したその先に一人の男が立っていたからである。店に入った時はまるで気付かなかったカウンターの中に立つその男は拓海が生まれる前からグラスをふいているかのような顔つきでママの声に反応もせずにグラスを拭いている。
「ほらスギウラちゃん。早くジョッキを…いや待って。こちらの48番さんいける口っぽいわよ!」ママが催促する。
「やはり。」
スギウラちゃんはそう独り言のように低い声を発すると表情一つ「空のビールジョッキ」を拓海の前のカウンターに勢いよく置いた。
ちょっと態度、悪くないか…。
ママが拓海の肩越しに空のビールジョッキを覗き込む。
拓海も目の前の空のビールジョッキをみつめた。
黒地の円の中に光り輝く金色の星が描かれている。その昔、開拓者にフロンティアの道を照らしたその金色の星。宗教上このメーカーのビールしか口にできない。
「はじめて?」
ママが夜空を見上げる様な艶っぽい声を出す。
なにが…?何がはじめてと聞いているんだ?
「ねえ。恥ずかしがらないで。はじめて?」
目の前にはあくまでも”空のビールジョッキ”があるだけだ。
拓海は助けを求めるかのようにスギウラちゃんを見た。
スギウラちゃんもグラスを拭く手を止めずに無表情でこちらの空のジョッキを見つめている。
いったいどうすればいいというのか。
目の前には空のビールジョッキ。しかも肩越しにママ。生温かい鼻息らしきものまで感じる。
拓海は恐る恐る視線を耳元の鼻息の先に向けた。
ママは頬を赤らめながらもう目がトロンとしている。
「飲むのは…初めてじゃないです」
「もういやあん…。照れちゃって」
こんな店に飛び込むんじゃなかった。ママはゆっくりと右手を拓海の肩から離し空のビールジョッキの横を指差す。指の方向に視線を移す。
そこには金色の生ビールディスペンサーのコックがカウンターから伸びていた。カウンターの下にビールサーバーが置いてあるやつだ。これがどうしたっていうんだ。
「さあ、あなだがそのコックの取っ手を引いて。それとも、アタシがする?」よく見るとそのディスペンサーのコックと口先は何故か拓海の方を向いていた。普通こういうのはビールを注ぐ蛇口のようなコックが店員側、カウンターの中に向いている。しかしこのスナックのそれは、カウンターの中央に金色に輝きこちら側、つまりカウンターの外に向いている…。まるで拓海が行為に及ぶのを待ちわびるように。
「セ、セ、セ…」セルフサービスなのか、この店は!?
拓海はもう訳が分からず言葉にならない。
「そう。セクシーでしょ?さあ、じらさないで。もうアタシ、我慢できなぁーーい!」ママの肉が…胸が背中に触れた。今度は触れたそれが”確実”に胸とわっかった。動悸が…また早くなった。しかし、苦しくない。あの試合会場で襲ってくるそれとは別なものだとこっちも”確実”にわっかた。ママの鼻息がより一層激しくなる。
えーーい。どうにでもなれ。
拓海は取り敢えずこの異様なシチュエーションと胸の動悸を終止符を打つため意を決した。ジョッキを左手で握りコックにそっとあてる。右手をディスコックの上部にある取っ手に持って行く。どこかで見たようにジョッキを45度傾ける。取っ手に触れる右手に力を込める。
「焦らないでね。ゆっくりよ。ゆっ・く・り、こっち側に…」
密着しているママに聞こえてしまうのではないかというくらいに拓海の動悸が音を放つ。左目の片隅にはディスペンサーに映り込む歪んだスギウラちゃんの歪んだ顔が見えた。
「はぁーーやーーくぅ!!!」
絶叫と共にママの柔らかな両ホイッスルが拓海の背中に当たる。
拓海は慌てて取っ手を手前に引く。
勢いよく飛び出した小麦色の液体はみるみるとジョッキを覆いつくし、大好きな赤黒のクラブが時折見せる非情な涙のような泡があふれ出す。だがその泡は北海道ともに世界へとはいかず、無情にもジョッキの外に飛びだし、そして瞬く間にカウンターにこぼれ落ちた。

「いやぁーーん。早い!もう!早いのよ!!」

ママは急に熱が冷めたように拓海から体を離す。
手際よくジョッキを取り上げるとコックをこちらからあちらに戻した。
「ダメ!全然ダメ!!試合終了!ノー、ブラボーよ!No bravo!!」
叫びながらもう既にカウンターを拭いている。
「スギウラちゃん、新しいジョッキちょうだい。私がやる!」
「やはり。」
淡々と再び冷蔵庫から空のビールジョッキを取り出す。
熱狂の時間が夢だったように拓海だけが動けないでいた。
ママが何事もなかったように拓海の粗相をふき取り終わると、スギウラちゃんがそのタイミングに合わせ空のビールジョッキを先程より激しく拓海の前に置いた。
「恥を知れ!恥を!!」
倶楽部の中にスギウラちゃんの声が響いた…。


◇             ◇              ◇

「あーそれ完全なるストレスね。間違いなく試合会場が原因じゃない」
そう言うととママは拓海の横で回転式の丸椅子に腰かけ、くるりと、ひと回転して見せた。先ほどから拓海の話を聞きながらもう4,5回転はしている。
拓海の前にはママが入れなおしてくれたビールが。因みにもう既に2杯目である。
「…ストレスですか」
ママの座る丸椅子が回る度にギシギシと音をたてるのが拓海にとって今のストレスだ。だが、そのストレスとは裏腹に拓海は今日試合会場で起きたことから、それに至る経緯、この店に飛び込んだ事までスラスラと話してしまっていた。動悸はすでに何事もなかったように治まっている。
「動悸が早くなるって事は心拍数があがるってことでしょ?心拍数って交感神経と副交感神経がコントロールしてるわけ」
「はあ…」
「昼間の活動時に活躍するべき交感神経と、夜の休息時に活動すべき副交感神経のバランスが何らかの外的や内的な影響によって、交換神経の活動の方が強くなっているからでしょ。知らんけど」
全ての発言を一瞬で自己責任から切り離してしまう魔法の言葉、”SHIRAN-KEDO”。ママはそう言うと口元にジョッキを当てた。小麦色の液体が一気に消え去った。
「バランスが崩れる…」
「そう。平常なバランスじゃない状態。何事にも良き比率ってモノがあるのよ。この空のジョッキだって…」
今しがた空になったばかりの目の前のジョッキを指差す。
「良き比率がある。通常人間が美しいと感じるのは1対1.62。いえあゆる”黄金比率”ってやつね。でもそれがビールジョッキの良き比率とは言えない」
「はあ…」
「ビールが美しく、そして何より美味しく飲める比率はズバリ1対1.8~2.2!!」それはズバリでは無いではない、口にはださなかったが。
「先人の美味しいビールを飲みたいという果てしない欲望と努力、そして好奇心。見て、この努力の結晶を!!」
ママはまたもや一回転してカウンター奥に向かって両手を広げた。そこには3段からなる棚びっしりと、ビールジョッキが並んでいる。今まで店に入ってからの常軌を逸した出来事で気づかなっかが、様々な形状をしたビールジョッキが並んでいた。おそらくスギウラちゃんが毎晩拭いていると思われるそれは、言われてみればどれも確かにビールジョッキだが一つとして同じ形のビールジョッキはない。
「ほう…」
拓海はその壮観さに思わず感嘆の声をもらしてしまった。
「…で、何の話だっけ?」
「やはり、動悸が早くなるでは」
スギウラちゃんがママの前に棚から新たなジョッキを置いた。
「そうそう。拓ちゃんの場合は何らかの影響で試合終了のホイッスルを聞くと、交感神経の活動が活発になる。んで心拍数、動悸が早くなるわけよね」「はい」
拓ちゃんもジョッキを口に当てる。
「その時なんらかの外的要因で、拓ちゃんの中に怒りや緊張が走る。その1.97うんちゃらて書かれた横断幕は毎回試合終了と同時に掲げられるの?」
「いえ。昨シーズンに一度だけ」
「一回だけ!?」
「はい」
拓海は初めて会う人間にこう冷静に自分の事を話しているのと、その症状に恥ずかしさを覚えた。
「じゃあその昨シーズンの記憶が蘇るわけだ。自分はその1.97millionの一員から仲間はずれにされてる。かわいそうな、負け犬な寂しいサポーターなんだって」
「怒りは特に…」
「あらそうなの。負け犬拓ちゃん」
随分な言われようである。でも怒りを覚えたというのとはホントにちょっと違う。なんと言えばいいのか。自分が小さな頃からよく覚える感情。みんなで楽しく遊んだ後に感じる寂しさ…試合後の仲間達との飲み会を後にする時に感じる不安…。
「疎外感ね。仲間だと思っているのは自分の方だけじゃないのか。かといって拓ちゃんの方からもっと積極的にその仲間になろうとするアクションをおこすでもない、どっちつかずの負け犬」
ズバリである。ひょっとして名医なのか?
「飛び込んでみれば?自分から。敢えて自分でその横断幕をもう一度あげようってみんなに声をかけてみる。過去からの苦い経験に新たな成功体験を上書きする手法。そして今まさに自分を苦しめていたその象徴である横断幕を今度は自らの手でビリビリに切り裂いてしまう!!ねえ、これ一石二鳥を通り越して4,5鳥行ってない⁉」
「やはり」スギウラちゃんが拓海にナイフを見せた。拓海は思わずビールを吐き出した。
「そんな事したら一生立ち入り禁止です」
「まあ、そんな勇気無いだろうしね」
一瞬でも名医と思ったことを後悔した。
「…じゃ距離を置いてみるしかないわね。要因を排除できないなら近づかない選択をする。生観戦、少し控えてみれば」
….うすうすとは自分でも話しながら考えていた。それが今一番現実的な方法だ。大好きなクラブを嫌いにならないために。家でだって試合は見れる。
「…でも」
月に一度程度とはいえこの街に来て試合を見る行為は拓海にとって、もはや生活の一部だ。…いや生活の一部というよりかは、むしろ「それ」があるから日常の生活を日々なんとか乗りこなしているのだ。バスに乗り、時には自らハンドルを握り5時間という時をかけてこの街にやってくる事こそ自分の生きがいじゃないのか?1.97millionの一員ではないこそ、その5時間の距離と苦労が、自分のサポーターとしてのステイタスではないか。…だがそのステイタスが今や”あだ”となって、バランスが崩れてった、とも言える…。
「なにも、試合を見るなとか、この街に来るなとは言ってない訳だし。すこし距離を置くだけ。そうね…600メートルくらい」
「えっ?」
「試合があってこの街に来れる日は、今まで通りこの街に来るの。でも会場には行っちゃだめ。600メートル手前の”ここ”に座りなさい」
「ここに?」
「そう。試合はどこだって見れるでしょう。この店で試合終了のホイッスルを聞いても動悸が早くなると思う?」
「いや…それは…」
「そうでしょ。でも検証は必要よ。ここで試合を見ても症状が出るようだったらそれは原因があなたの好きな赤黒のクラブって事。出ない場合は原因がそこの会場の中に限定されるでしょ?なおかつ1.97millionが住むこの「街」そのものが原因じゃないって事の証明にもなる」
言ってる論理はわかる。でも自分は5時間かけてこの店に来ておかしなママとバーテンに見守れながらビールを注ぎ、試合を見るのか…。
「言ってみればね、通院よ。心身症的な症状は定期的な診療が必要だから。ね?名案でしょ、モニターもあるし。」天井から釣り下がるモニターには同じ街をホームタウンとする野球チームの監督が不自然なほどの白い歯を見せインタビューを受けていた。
拓海は残っていたビールを飲みきった。取り敢えず…乗ってみるか。おかしいが、たぶん悪い人たちじゃなさそうだ。
「…そうしてみます」返答がスラスラと出てきて少し驚いた。
「そう?じゃ決まり。通いなれたとこだから迷わないと思うけど」
ママはそう言って名刺をカウンターに置いた。
左上に小さく<倶楽部「愛」>と住所が書かれておりその倍以上の大きな文字で中央に<美智子>と記してある。美智子…。いくつなんだ?
「ねえ。古臭い名前でしょ。親が年取った時の子供でね。みんなには親しみを込めてミーシャって呼んでもらってるわ」
「ミシャ?」
「ミーーーシャ。伸ばすの!あたしゃ、飴配る外国人じゃないんだから!」
意外にママ、いやミーシャはサポーターだったりして。
「そうと決まれば景気づけのリベンジ。あ、言っとくけどこぼした一杯目の分も料金に入ってるからね!」
ミーシャは再び拓海の背後にプレスを仕掛けてきた。それに連動するようにスギウラちゃんが間髪いれず良いバランスのビールジョッキをカウンターに置く。ミーシャはビールの泡フェチなのか…。拓海はまた少しだけ動悸が早くなるのがわかった。

その数分後、店の外にも零れ落ちそうな声でミーシャの「No bravo!!」という絶叫とスギウラちゃんの「恥を知れ!恥を!」という𠮟責の声が響いた…。

(つづく…。)


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