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インザ・1.97million…。


大きな屋根のあるスタジアムに勝利を知らせるホイッスルが鳴り響く。
幸せの90分に別れを告げる時間きた。拓海はもしかして今日こそは大丈夫じゃないかと、淡い期待を抱き胸の鼓動を確かめた。

やっぱり、ダメだ。

拓海は赤黒のリュックを素早く手に取り、そこにいる誰よりも早くゴール裏の席を離れた。
以前は、少しでも長く居座り続けようとしたこの場所が、今ではホイッスルを聞くやいなや一瞬でも早く後にしたいと思う様になった。
足早に出口に向かう彼の周りでは久々の勝利に酔いしれる興奮と、それにブレーキをかけるような、この北の大地に住む人々が持つ特有の穏やか空気が混じり合い、スタジアムを赤黒に染めていた。だが、拓海はその余韻と、その空気を振り払うように俯きながら歩き出す。一刻も早く外に出よう。誰とも目を合わせちゃいけない。誰かに見つかって声なんてかけられたら。
一瞬、聞きなれた声が自分の名前を呼んだような気がした。
立ち止まるな。
もう一度、自分を呼ぶ声がした。その声を消し去るように観客の拍手が起こる。拍手はスタジアムの屋根に反響し熱い空気がその場を後にしようとする拓海の背中にまとわりついてくる。拓海はその迫る空気から逃れようとやっとの思いで屋根のついたスタジアムから外に出た。

再び胸に手を当てる。

動悸がたかまってるのがわかる。
「今日はいつもと比べても早くないか…」
額にも汗がにじんできている。
原因はわかっている。あの日からだ。
あの日このゴール裏に掲げられた横断幕をSNSで見た時からだ。

「You,have 1.97millon familiy members in this city.」

その年、ホームシックになった外国人助っ人を勇気づける為のその横断幕を初めて目にした時拓海は、感動すら覚えた。
サポートするとはこういう事だ。まさにこれがサポーターだと。実際にその選手はその横断幕を目にし感謝の言葉をのべていたし、クラブを去る時はうっすら涙を浮かべてスピーチもしていた。フットボールクラブを応援するということはこんなにも素晴らしいことなんだ。自分もその一員なんだと。まさに家族なんだ…と。
しかし次の瞬間、拓海の心に不安がたちこめた。            

「自分は、その”1.97million”の家族ではない」

拓海がこの外国人助っ人が在籍する赤黒のクラブの試合をみるために要する時間は「5時間」。この街には彼の「ホーム」はない。もしもサポーターとやらがスタジアムに足を運び、クラブや選手を後押しすることがその存在の正義だとするならば、納得するほど試合を見にこれていない不甲斐なさはあれど、それでも愛するクラブを応援する為足繁く通っている自負がある。
…いや、あった。
何度も観戦するうちに顔見知りもでき、やがて試合後にグラスをぶつけ合う仲間もできた。大抵は遠い拓海の「ホーム」に帰る深夜バス出発までの僅かな時間だったが、それまで違う人生を歩んできた者たちと好きなものを語り合う時間は平凡な拓海の40年の人生の中で少し色のつい時間だった。でもそんな時間ですら、バスの出発が迫ると拓海が一番に席を立つ。笑顔で別れの手を振る仲間たち。そして視線を戻し彼らが再び熱をもちながら語り合い始めるのを背中に感じながらターミナルにむかう自分。
残念ながらこの街に拓海の住民票は過去も現在も一度もない。たまに訪れる自分だけが仲間の一員と思っていて、あの後も続く飲み会の中でみんなはそう思ってなんかいなっ方のかもしれない…。あの横断幕を目にしてから何故だかそんな気持ちが沸き上がってきた。

「あんた何女々しい事言ってんの」

妻に自分の感情を話してみた。
彼女は少し軽蔑の目で拓海を見ながら”男らしく”クラブのスポンサーのビールを飲み干しそう言った。
「大体ね。そのメッセージはあんたに向けてるわけじゃないじゃん。あんたはね勝手に人の手紙を覗き見して、急に不安になってるだけじゃないの」                             

頭ではわかっている。頭では…。                        「いーい。あくまでも”197万人”っていうのは”アイコン”よ。シンボルなの。わかる?いやいや、あんたのそのなんていうのかな、昔からのネガティブ思考大嫌い。もう、一種の病気ね。その妬み根性、いい歳なんだからいい加減やめたら」
                     
わかっている。
その横断幕に「こちら側」を排除する意味なんてない事を。”頭”ではわかってるんだ。でもこのぬぐい切れない感情はなんだろう。はっきりといえる。それは妬みなんかじゃないと。現にその横断幕を作った者たちに怒りを覚えているわけでもない。ただ、そう、「不安」なんだ。
悶々としている拓海をよそに、妻は追加点を狙わんとばかりに次のビールを冷蔵庫から取り出そうとしている。その姿を見て拓海は
「オマエは学生時代の4年間あの街の住人だったからな」
とつぶやいた。勿論、声に出さずに。そして深いため息をついた。なぜならこの妻に対する思いはあの横断幕への感情ではなく、間違いなく「妬み」と気づき、拓海も自分が嫌いになった。

その次の試合からだった。
試合終了のホイッスルを聞くとその「感情」が湧いてきた。
始めはそれが不甲斐ないクラブに対するものかと思った。しかし、勝利の試合でも終了のホイッスルを聞くと不安感はやってきて、観戦を重ねていくうちにはっきりと動悸の速さになってあらわれ始めた。そして今日はじわりと季節外れの汗までかいている。試合中は興奮さえ覚えど、その「感情」はやってこない。でもホイッスルを聞くと必ず。

「病気かな…」
地下鉄の駅へ歩く道すがら拓海は声に出してそう、言ってみた。今日は特に酷い。
この季節に不釣り合いなほど体に熱を感じ、赤黒のレプリカユニフォームが体にまとわりつく。そしてスタジアムを後にし、地下鉄の駅に道すがらもよ高鳴る動悸。なんなだよ、いったい…。
すれ違う人たちが怪訝な顔つきで拓海を避けていく。
拓海はその場に立ち止まった。
少し道の隅により膝に手をつき呼吸を整えた。
顔をあげ地下鉄の入り口までの距離を測る。
あとちょっと、もうちょっとだ。自分自身に言い聞かせる。
その時、今まで何度も通ったこの道だが今日はじめて「総合病院」とかかれた看板が地下鉄の入り口の奥に見えた。
「病気…」再びその言葉がよぎる。
まだ受付の時間にギリギリ間に合うか?自分の街で病院に行くとなるとまた妻に心配を…いや、からかわれる。総合病院なら、心療内科的な科もあるかもしれない。どうする?
まだバスの時間までだいぶある。行ってなんともなければそれでいいか…。拓海は心を決めその看板の元へ足をふみだした。
…が、めまいがした。
ダメだ。汗が噴き出してくる。とても、あそこまで歩けない。
どこかに座りたい。どこか…。
拓海はすがるようにあたりを見回す。
コンビニ。レンタカー屋。100円ショップ…。

あそこでいい。仕方ない。とりあえず休もう。
「伊良部総合病院」と書かれたその看板をあきらめた拓海は、ユニフォームを脱ぎ乱暴にリュックに投げ入れると、今度はこじんまりと光る看板に吸い寄せられるように歩き出した。

淡い赤い光を放つその看板には太い黒い文字で
「倶楽部 愛(あい)」と描かれていた…。

(つづく…)

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