2016/09/13

人は自分の一番良いところと他人の一番悪いところを比べたがるから困ったもんだけど、
その一番良いところを人を叩くために使うんじゃなくて、
人を助けるために使えるようになったらいいよなぁ。

「自分ができているのに、他人ができないコト」

これをできるように導くのは、凄く難しい。

幅広くとれば、「教育」ってジャンルになるのかなぁ。コーチングとかティーチングとか。これらの技術も、厳密な区分けがあるみたいだけど。

できる人からすると、「できない」って感覚が理解できない。

その「できる人」は、初めからできたのかもしれないし、ある日、突然できるようになったのかもしれない。

でも、できるようになった原因は、「できる人」本人でも正確には分からない。

本人は「アレが原因で、できるようになった!」と思っている。

でも、その原因が訪れるまでには、様々な要素に触れている。

その基盤の上に「原因」が乗っかって、作用している。

たくさんの人に出会って、たくさんの本を読んで、たくさんの場所に行って、その「原因」と遭遇する。

そして、「できる」は手に入る。

ひとつの原因だけでは、「できる」は手に入らない。

その人の歩んできた人生、すべてが積み重なって、「できる」に手が届く。

だから本人が「こうしたらできるようになったよ!」と、原因だけを「できない人」にいくら教えても、なかなかできるようにならない。

むかし、歌を教わっていた日。

「頭のてっぺんから声を出して!」
「おなかから声を出して!」
「力を抜いて!」

といくら言われても、僕は上手に歌えるようには、ならなかった。


できる人からすると、できない人の気持ちは、分からない。

というより、できない人の苦しみや、葛藤の芯まで、うかがい知るコトはできない。

できない感覚や、できない理由も、言葉では説明できない。

体感的、感覚的なモノは、言葉では分かち合えない。

名プレイヤーが、必ずしも名監督ではないように、歌がうまい人が、必ずしも名ボイストレーナーではないように、「できる感覚を、誰かに伝える」というのは、死ぬほど難しい。

では仮に「できる感覚」や「やり方」を熟知している人が、それを「できない人」に100%伝えられたとしたら、どうだろうか。

その「できない人」は「できる」ように、なるのだろうか。

僕は右手では、ギターを弾くコトができる。

でも左手では弾けない。左で弾けるように、できるだろうか。

弾き方、弾ける感覚を知っている自分ならば、弾けない自分に、教えられるだろうか。

先生も生徒も自分自身だから、伝え方も受け取り方にも、ズレは絶対に無いはずだ。

でも、左手でギターは弾けない。
「伝え方」や「受け取り方」が正確でも、一朝一夕では、「できない」を「できる」に変えられない一例だ。


FMの収録の待ち時間に、この文章を書いている。

外を見ると、雨がバシバシ窓を叩いている。全然やみそうにない。

ついさっきのコトを、思い出した。

雨が降りしきる駅前で「なんでそんなコトもできないのよー!」と、子どもを怒鳴りつけているお母さんがいたんだった。

幼稚園児ぐらいの、年ごろのその子は、叱られて、この世の終わりみたいに泣いていた。

僕から見ると、雨の中で怒鳴るお母さんも、泣いているように見えた。

その子が、何ができなくて、お母さんが激高していたのかは、知らない。

でも相手ができなくて、怒っても悲しくなるだけだと思った。

自分の子どもでも、一人の別の人間だ。
その子はその子で、確立した個だし、親とは別の生命体だ。

別の生命体が「できない」と思っているコトを、変えるのは無理だ。

では「できない」人は永遠に「できる」ように、ならないのだろうか。

そんなコトは無い。

「できない」が「できる」に変わる方法がある。

本人が「できるようになりたい」と思うコトだ。

唯一の方法で、最強の方法だ。

大体のコトは、できるようになる。少なくとも、今よりは絶対に近づけられる。


子どもに伝えるべくは、「できない」が「できる」ようになる素晴らしさ、面白さだと思う。

「できない」まま行くのか、「できる」に立ち向かうのかは、その子自身が決めればいい。

「できるようになりたい」を選んだ子の背中は押してやればいい。

「できない」ままで行く子に対しては、気長に待つか、ヒントを出すか、違う道を示してあげればいい。

子どももいないクセに、机上の空論を、積み木みたいに組んでいる。いつか役に立つんだろうか。

僕もこれまで、誰かの「できない」を、「できるはず」「できて当然」と考えてきた日がある。

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