きょうの素問 六節蔵象論篇 第九(4) 2023/9/14

9月も中旬になりましたが、まだまだ暑い日が続きます。
この暑い日々のなか、ずっと六節蔵象論を読んでいる気がしますが、ようやく今回でおしまいとなります。
この篇がどのようにまとまって終わるのか、さっそく見ていきましょう。


帝曰 藏象何如
(帝曰く、藏の象はいかん。)

王冰の注。
「象とは、外に現れていて、みることができるものである。」
説文解字では、
「南越の大獣なり。長鼻、牙あり。三年にしてひとたび乳す。耳牙四足尾の形に象る。」とあります。
古代には中国にも「ゾウ」がいたみたいで、その形を書いた絵が「象」になったようです。そこから、かたち、や、ありさま、といった意味に転じたようです。

 
歧伯曰 心者生之本 神之變也 其華在面 其充在血脈
為陽中之太陽 通於夏氣
(歧伯曰く、心なる者は、生の本、神の變なり。其の華は面に在り、其の充は血脈に在り。陽中の太陽たりて、夏氣に通ず。)

※ 神之變
「變」は『太素』では「処」となっていて、テキストでもこちらを採用しています。「神(知恵や変化)の源」と現代語訳されています。

※ 華
金文の字形は草花を象徴しています。
『説文解字』では「榮(はな)なり」としています。
はな、から転じて、はなやかさ、栄える、表面、といった意味に転じていきます。ここでは、その系統の気の働きがどのように表れるのかを示しているように思います。
たとえば、心系統の気の働き(の良しあし)は、顔面部に現れる、といった感じです。

※ 充
最近では「リア充」で有名な漢字ですね。
『説文解字』では「長なり。高なり。」と説明されており、一説では「肥満した人の形」に由来するとされています。
大きい、充ちている、の意味があり、ここでは、その系統の気の充実度が表れている部分を示しているようです。
たとえば、心系統の気の充実度は、血脈でうかがい知ることができる、といった感じです。

※ 陽中之太陽
『霊枢』の九鍼十二原篇にも「陽中の太陽 心なり。」とあり、一致しています。人体における「陽」にもいろいろあって、例えば腹側を陰とすると、背側は陽になりますし、体幹にあっては横隔膜から上の胸部を陽とすれば、下の腹部を陰とするなど。その時々で読み解いていく必要があります。

 
肺者 氣之本 魄之處也 其華在毛 其充在皮
為陽中之太陰 通於秋氣
(肺なる者は、氣の本、魄の處なり。其の華は毛に在り、 其の充は皮に在り。陽中の太陰たりて、秋氣に通ず。)

※ 陽中之太陰
『霊枢』の九鍼十二原篇では「陽中の少陰 肺なり。」とあって、一致しません。経絡でいえば、手の太陰肺経なので、太陰の方がなじみがある感じです。
 
腎者 主蟄封藏之本 精之處也 其華在髮 其充在骨
為陰中之少陰 通於冬氣
(腎なる者は、蟄を主り、封藏の本、精の處なり。其の華は髮に在り、其の充は骨に在り。陰中の少陰たりて、 冬氣に通ず。)

※ 蟄
蔵と訓じて、虫類が土中に隠れている様子を表す。二十四節気で「啓蟄」が有名。腎系統は陰の働きが強いので、その作用は求心性、収斂性があるので、ため込んだりしまったりするのがその働きの表れといえる。

※ 陰中之少陰
やはり『霊枢』の九鍼十二原篇では「陰中の太陰 腎なり。」とあり、一致しません。経絡でいえば、足の少陰腎経なので、少陰の方がなじみやすいです。

 
肝者 罷極之本 魂之居也 其華在爪 其充在筋 以生血氣
其味酸 其色蒼 此為陽中之少陽 通於春氣
(肝なる者は、罷極の本、魂の居なり。其の華は爪に在り、其の充は筋に在り、以て血氣を生ず。其の味は酸、 其の色は蒼、此れ陽中の少陽たりて、春氣に通ず。)

※ 罷
「疲」と読んで、倦怠を意味するとする。

※ 其味酸 其色蒼
肝系統の部分に急に味と色の記述があるので、この部分は攙入ではないか、という説があります。

※ 陽中之少陽
『霊枢』の九鍼十二原篇では「陰中の少陽 腎なり。」とあり、一致しません。腎臓が横隔膜の下に位置する所からも、陰中が適切ではないかと思われます。
 
脾胃大腸小腸三焦膀胱者 倉廩之本 營之居也 名曰器
能化糟粕 轉味而入出者也 其華在脣四白 其充在肌
其味甘 其色黃 此至陰之類通於土氣
凡十一藏取決於膽也
(脾・胃・大腸・小腸・三焦・膀胱なる者は、倉廩の本、 營の居なり。名づけて器と曰う。能く糟粕を化し、味を轉じて入出する者なり。其の華は脣の四白に在り、其の充は肌に在り。其の味は甘、其の色は黃。此れ至陰の類たりて、土氣に通ず。凡て十一藏、決を膽に取るなり。)

いきなり六腑のうちの5つは脾系統と合わせてひとまとめになりました。
「倉廩」といえば「靈蘭秘典論」に出てくる「倉廩之官」で、「五味出焉」とあります。こうした消化器系統や、泌尿器の系統が「器」として働き、消化や吸収に働いている、と考えられているようです。

そして、今まで見てきた5蔵と6府(合わせて11蔵)を統御する、もしくは気の働きの出発点として、「胆」が挙げられています。「靈蘭秘典論」では、「膽者中正之官 決斷出焉(決断これよりいづ)」とあり、やはり「決」の働きがあるとしています。
テキストでは、胆は陽の木気、すなわち「甲(きのえ)」の働きなので、気候の変化の基準となる「立春」を象徴するので、基準となると解釈しています。

 
故人迎一盛病在少陽 二盛病在太陽 三盛病在陽明
四盛已上為格陽 寸口一盛 病在厥陰 二盛病在少陰
三盛病在太陰 四盛已上為關陰
(故に人迎、一盛なれば病、少陽に在り。二盛なれば病、太陽に在り。三盛なれば病、陽明に在り。四盛已上を格陽となす。寸口一盛なれば病、厥陰に在り。二盛なれば病、少陰に在り。三盛なれば病、太陰に在り。四盛已上を關陰となす。)

人迎與寸口俱盛四倍已上為關格 關格之脈贏
不能極於天地之精氣 則死矣
(人迎と寸口と俱に盛んなること四倍已上を關格となす。關格の脈、贏して、天地の精氣を極むること能わざれば、則ち死さん。)

最後に唐突に脈の話になるのですが、人迎の脈と、寸口の脈を比較して、それによって病がどの位置にあるのか、を論じています。本文中で、病が太陽にある、とか少陰にあるとか記述されていますが、それが経絡をさすのか、それとも体のある部分を指すのか明確になっていません。テキストでもそこはぼかしたまま現代語訳しています。
とりあえず、人迎を陽とみて、人迎の脈が強すぎれば病は陽の経脈もしくは陽の部位にあると、寸口を陰とみて、寸口の脈が強すぎれば病は陰の経脈もしくは陰の部位にある、と考えているとみなして良さそうです。

確かに、解剖生理的に循環を見たときに、頭頸部に行く血流が頚動脈洞の圧受容器と化学受容器にモニターされ、四肢に行く血流は大動脈弓にある圧受容器と化学受容器にモニターされていることを考えると、頚動脈洞と手首の橈骨動脈の拍動を比較するというのは面白い考え方かもしれません。

ただ、この記述内容だけでは、基準となる脈が分かりませんし、テキストでは「一盛」を「一倍」と訳していますが、「一倍」では人迎と寸口の脈の強さが一緒で、いまひとつすっきり解釈できません。

こうした曖昧さを踏まえて、『難経』ではこの脈を比較する診方を整理しなおしたのかもしれません。

『難経』三十七難
邪在五藏 則陰脈不和
陰脈不和 則血留之
血留之 則陰脈盛矣
陰氣太盛 則陽氣不得相營也 故曰
陽氣太盛 則陰氣不得相營也 故曰
陰陽俱盛 不得相營也 故曰關格
關格者 不得盡其命而死矣

さて、とりあえずここまでで六節蔵象論篇は以上になります。
次回からは「五蔵別論篇」を読んでいきます。

今回も最後までお読み頂きありがとうございました。


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